作詞家の故郷


ゴ−ルド・フィンガ−は、007に登場する世界中の金を操る実業家。全米の金塊を保管するフォート・ノックス貯蔵庫を爆破して原子力に汚染させ、金の相場を急騰させようとする。
「黄金の指」というと、いろいろな人のことが頭にうかぶ。カリスマ美容師、天才マジシャン、天才スリ師までも。要するに金を生む達人の指である。
それが、ゴッズ・フィンガ−「神の指」ということになれば、バチスタ手術にのぞむ天才医師かな。
いずれにせよ異様に優れた指の使い手こそその名にふさわしいと思う。
私がここで取り上げるのは、フランスワ=オーギュスト=ルネ・ロダンという天才彫刻家であるが、それはロダンが彫刻家としてもつ優れた指使いをさして「ゴッズ・フィンガ−」というばかりではなく、ロダンの魂を彫り刻み陰影をつけ濃淡を与えた運命の導きの手そのものをさして「ゴッズ・フィンガ−」と呼ぶ、ことにする。

ロダンの代表作に「考える人」があるが、それは「地獄の門」という大作の一部を抜き出した作品である。
私が思うに世界で最も有名な「考える人」誕生に至る過程は、ロダン自身の魂の奥深くに切り込んだ「ゴッズ・フィンガ−」の働きの結晶なのではなかったか、と思うのである。
ところで「地獄の門」は手よりもわずかに大きい何百もの人物像に、あらゆる情熱の命と、あらゆる喜びの開花、そしてあらゆる悪徳の重さを担わせた作品だという。
「地獄の門」とはなんとシンボリックな作品だろう。ロダンの人生は、何度も「地獄の門」にたった人生ではなかったか。
ロダンは、パリの下町で警視庁の書記の息子として生まれ14歳で工芸実技学校に入学するが、極度の近眼のせいか学校での成績は芳しくなかった。
さらに芸術家の登竜門であった国立美術学校エコール・デ・ボザールの入学試験に臨むが、三度受けて三度とも落ち、遂に入学を断念している。
それ以後は古代ギリシアのペイディアスとルネサンスのミケランジェロを師にして、ほぼ独学で彫刻を学んだ。
ロダンを襲った最初の悲劇は、1863年、姉マリアが修道院で自殺したのである。マリアはロダンの友人の画家と恋愛をしていたのだが、その男に捨てられ、傷心の余り修道院に入ったが、そこでも心の傷は癒されずに自殺に至ったのである。敬愛する姉の死にロダンは自らを責め、聖サクラメント修道会に見習い修道士として1年余りを過ごした。
ロダン二度目の悲劇は、1864年にサロンに出品した「鼻のつぶれた男」が、まったく評価されなかったことである。
当時の彫刻とは貴族たちのために作る美しい彫刻が当たり前だったのが、鼻のつぶれた醜い男をモデルにした醜い彫刻など、当時の審査員にとってはふざけているとしか思えなかったのである。
酷評にショックを受けたロダンは以後12年もの長い間作品を発表しなかった。しかしこの期間に生涯の伴侶となるローズ・ブーレと出会っている。
要するに、ロダンは当時の彫刻のスタンダ−ドからかなり外れたところにいたといっていよい。
1875年、イタリア旅行に出て、ミケランジェロの作品を見て強い感銘を受け、2年後に長い沈黙を破って「青銅時代」を出展した。
この「青銅時代」は、極めて緻密でリアルな作品であったのだが、そのあまりのリアルさのために「実際の人間から型を取ったのではないか」との疑いをかけられてしまう。憤慨したロダンは2年後に人間よりもかなり大き目のサイズの彫刻を新たに作り、疑いをかけた審査員達もロダンの彫刻に賞賛の言葉を送り、ロダンの名は一気にフランス中に広まった。三度目の悲劇は福に転じたといってよい。
1880年、ロダンのもとに国立美術館を建てるのでそのモニュメントを作って欲しいとの依頼で作られたのが、ダンテの「神曲」に登場する「地獄の門」である。ロダンはこの大作品に取り組むに当たり、粘土や水彩画などでデッサンを重ねていったが、中々構想はまとまらなかった。
この悩める時期に教え子のカミーユ・クローデルと出会い、この若き才能と魅力に夢中になった。ロダンは、カミーユと妻ローズの間で絶えず揺れた。数年後ローズが病に倒れ、ロダンはローズの元に帰る。ショックを受けたカミーユは以後、徐々に精神のバランスを欠き、ついには精神病院に入院、死ぬまでそこで過ごす事になる。
ところで、1888年に国立美術館の建設計画は白紙に戻り、ロダンに「地獄の門」の製作中止命令が届くが、ロダンはこれを断り、金を払って「地獄の門」を自らの物とし、彫り続けたのである。
そして翌年、地獄の門を覗き込む男を一つの彫刻として発表した。はじめこの彫刻には「詩想を練るダンテ」と名づけられていたが、その姿は地獄の中を覗き込み、苦悩している姿であり、「考える人」という名はこの像を鋳造したリュディエがつけたものである。

実はロダンは、世界に名だたる名作のほかに色々な小品を残しているが、一人の日本人女性をモデルとして多くの作品を残していることはあまりしられていない。
日本文学者のドナルド・キーン氏がこの女性「花子」の発見者で、最近では里中満智子さんによる「花子のマンガ」ができたという。また、「花子」像を実際に、新潟県立博物館でみることができる。
ロダンのモデルになった唯ひとりの日本人「花子」(本名:太田ひさ)は、1868年尾張国中島郡上祖父江村(現愛知県尾西市)の農家の長女として生まれた。
父親が芸事で好きで、そのため花子は5才から踊りの稽古をはじめ、10才で旅芝居の一座に入り、その後名古屋で芸者になった。二度の結婚に破れ途方にくれているとき、デンマークのコペンハーゲンの展覧会で踊り子を募集している事を知り、単身ヨーロッパへ渡った。1902年、花子34才の時であった。
ロンドンのサヴォイ劇場でアメリカ人の舞踏家ロイ・フラーに見い出され、「花子」という芸名で一座の座長に、そして花子は18ケ国を巡業し、一躍スーパースターになった。「花子」という巻たばこ、「花子ベネクチン」というワインまで発売された。
1906年、マルセイユのフランス植民地展覧会会場で催物に出演していた花子の凄まじい演技に、ロダンは創作意欲をかきたてられ、花子をモデルに頼む。そして花子をモデルにした肖像彫刻は50数点にものぼり、ロダン美術館の調査結果によると、一人をモデルにこれほど多くの作品を制作した事はないという。
ロダンは140センチ足らずの花子を「プチト ハナコ(小さな花子)」と呼び可愛がった。 1921年、花子53才の時、ロダンのつくった2つのマスクを携えて帰国。妹が住んでいた岐阜の芸者置屋に身を寄せした。
そしてそのマスクみたさに多くの人が岐阜を訪れ、高村光太郎もその一人で、「小さい花子」という著書にその時の様子を記している。

花子は晩年24年間を岐阜市で過ごし、1945年岐阜市西園町で77年の人生の幕を閉じた。墓は、岐阜市鴬谷の浄土寺にある。

ところで新潟県立美術館にある花子のマスクは、「空想に耽る女」というタイトルだという。
ゴッズ・フィンガ−の作品ともいえる「ロダンの魂」が、花子の何にインスピレ-ションをかきたてられたかは、日本人である我々にとって興味深いところである。
イタリアの天才彫刻家と日本からやってきた女芸人との邂逅、これも人の運命を操る「ゴッズ・フィンガ−」の妙手といえましょうか。