海老名弾正と熊本バンド


柳田国男という日本の民俗学の開拓者は、非常に興味深い人物である。
もともと農商務省の役人であるからして、役人のナライとして当然「上昇志向」というものを抱いたのだろうが、柳田には不思議と「下降する意思」のようなものがあるのです。

柳田は、「なぜ」「どのように」下降したのか。
それは、柳田は通常、知識人とよばれる人々がほとんど関心を寄せない人々、つまり「文字を知識の主要な媒体としていない人々」(常民)が保持しているもののなかに、自分自身のアィデンティティが胞子のように潜んでいることに気がついたのです。
柳田の性向としては「不変なもの」を求めており、柳田は「常民」とよんだ口承と民間信仰の人々の中に、古い日本が変わらずにいまなお残されている、ということを知ったのです。
柳田が創出した「常民」という歴史性をも含んだ抽象的概念にはそういう「不変な」という意味が込められているのではないでしょうか。
それは、いかに表面に温度変化する海流が流れていようと、常温の深層海流がたゆまなく流れ続けているようなものに近いでしょう。
柳田のとった基本姿勢は、旧きを尋ねて新たな創造の源にする「アドバンス トゥ ザ パ−スト」(過去に進め/「「バック トゥ ザ・フュ−チャ−」の逆)というものである。
それでは日本の「旧き」のはどこにあるのか、どこに残っているのか、その視点こそが柳田民俗学の大きな特徴ともなっている。

柳田が訪ねたもの、まずは稲作民の大陸からの到来によって山に移動したとされる山人の世界、次に稲作民と混血せずにもともとの日本人が残ったとされるオキナワ、そして次に東北・遠野の口承と伝承の人々であるが、柳田がいかに「原日本人」を探し求めていたということがよくわかる。
柳田は役人としての農村調査の過程で、それまでの学問の照準が当たらない領域をしり次第に足を踏み入れていくのですが、つまり柳田氏はそういう調査に自分をあずけることが、自分の本質(アィデンティティ )に近ずいていくことのできる方法でもある、ということに本能的か経験的にか気づいていたからではないでしょうか。
柳田は役人をやめた後、新たな学問の創造という点に野望を燃やしていたとは思いますが、その仕事は必ずしも当世の社会的な評価には繋がらないかもしれず、また後世の人が高く評価する可能性はあったにしても、その可能性はけして大きいとはいえないものだったはずです。
柳田が単純に「上昇志向」だけの人物ならば、役人の世界に留まればよかったしもっと別の分野に関心をむけてもよかったかと思うのですが、人間の中にはその時々の時勢におもねるのではなく、自己のアィデンティと深く関わる部分でしか「実のある仕事」ができない人間というのがいるのです。
なぜか〜大きな渇望感(アスピレ−ション)のためにです。
私は柳田の民俗学の中にそういう、いわば<宿命としての仕事(学問)」というものを感じるのですが、そういう仕事(学問)を仮に「アィデンティ ワ−ク」とでも名づけてみるとして、柳田の心象には、彼を「アィデンティ ワ−ク」に仕向けるいくつかの経験や光景が映っていたと思います。

まず少年期の体験記として、兵庫県神崎郡辻川に学問(漢学)の家といっていい家に生まれた柳田ですが、唐障子で仕切りをした狭い家に親夫婦に兄夫婦が共に暮らす生活の中で、嫁姑の争いを含む様々な確執を生じ一家が離散する憂きめをまのあたりにすることになります。この深い体験は、柳田民俗学が日本の家屋の構造をも照射していることと無関係ではありません。
結局、家族と引き離された柳田少年は茨城県の利根川のほとり布川で開業医をひきつぐことになった次兄の家で暮らすことになり、ここで農村の飢饉の悲惨をまのあたりにするのです。この農村の悲惨の体験は、柳田をして東大で法制を選択せしめ、農商務省の役人としてのスタ−トをきらせる原因となります。
おそらくは農商務省の役人としての全国の農村の視察や踏査は、そこに住む人々の直接的ヒヤリングという格好のフィ−ルド・ワ−クにもなり、柳田が本質的にもっていたアスピレ−ションをさらに刺激していったようにも思うのです。
柳田が、貴族院書記官長を最後に官界を離脱することになりますが、その理由は貴族院議長・徳川家達との対立が原因だとか、日韓併合における法制作成などにもコミットしていた点までもっともらしく指摘しているのもありましたが、彼にとって「実のある仕事」つまり「アイデンティティ ワ−ク」の方に大きく心が傾いてしまったということではないかと思います。したがって柳田の官界離脱の原因をいくら探したところで決定的なピンポイントにはならないと思います。
さて柳田は農林官僚時代より、旧い日本人が稲作民に追われ「山人」として生活しているという発想を抱き、まずは山の人々の生活に興味をいだくのですが、その調査のスタ−トは宮崎県の椎葉というところでした。
そこで焼畑の農法や、焼畑農業の宿敵イノシシとの格闘で維持されてきた中世以来の狩猟のあれこれについて、我を忘れてメモったに違いない。そして柳田の九州出張の際に書いた椎葉村取材メモは「後狩詞記」として形となる。ちなみ椎葉の村長旧宅近くには「日本民族学発祥之地」という碑がある。
「山人」に加え、椎葉から帰京した柳田に、「二匹目のどじょう」が待っていた。柳田の前に佐々木喜善という東北出身の若者が突然にあらわれたのである。
佐々木は、東北の遠野という山で囲まれた盆地のなかで、何代にもわたって農業を営んできたものの末裔であり、病気がちの佐々木は幼少の頃より、大きな曲がり屋の囲炉裏端で、何人もの祖父母や育ての親達から数え切れぬほどの夜伽話を脳裏に刷りこまれてきたのである。
こういう運命的な出会いは、生物学で「棲み分け」理論などを提示した今西錦司を思い起こします。今西錦司のグル−プは馬の固体識別により動物社会を見出し新学問を創造しようと勢い込んで宮崎の都井岬にやってきたのですが、目の前を通り過ぎるサルが、彼らを馬よりも社会性が強い「サル社会」へと導くのです。まさに「モンキ−・マジック」
また、飽くなき「アスピレ−ション」に対しては、天が扉を開くのか、と思ったりもするのですがいかがでしょう。
ところで佐々木喜善の口から遠野に伝わる物語が語り始められたとき、柳田の内側でアスピレ−ションは潮をひき、かわってインスピレ−ションが浪のごとく打ち寄せてきたのではないでしょうか。
この時、33才の柳田が自己の「アイデンティティ ワ−ク」というものを本当に自覚した瞬間だったかもしれない、と思うのです。

最後に、柳田の行った農村の深層分析が、天皇制や日本のファシズム分析に新たな光を投げかけてきたということを付言しておきましょう。
例えば伊藤博文は農民出身であり、まさに「常民」としてその父に育てられた幼少期の精神形成の過程で、天子に励め、そして励もう、といった当時の「常民」の中に宿した自然な天皇信仰の心性が貫流していたからこそ、明治期を通じて天皇に信頼され、「家父」としての側面をもった天皇制国家を制作することができたのではないでしょうか。

また丸山真男は日本のファシズムや日本人の政治行動の分析の中で次のように論じています。

「日本のナショナリズムの精神構造においては国家が自我がその中に埋没しているような第一次的グル−プ(家族や部落)の直接的延長として表象される傾向が強く、祖国愛はすぐれて環境愛としての郷土愛として発現するということである。」(「現代政治の思想と行動」)
「日本ファシズムは、すくなくとも日本人と社会との底流に奥深く根を下ろしたものであり、その特質はこのような底流に鋭いメスを加えることなしには理解されえないのであり、そのような解明なしに未来を企図することも許されないであろう」(「近代日本の精神構造」)

柳田の「文字なき人々」(常民)の探求が、以上のような問題に新たな地平を拓こうとは、柳田自身が予想できたものかどうか、私にはよくわかりません。