海老名弾正と熊本バンド


ものごとに座標軸のごときものを与えればすっきりと見えてくるということはある。
最近、鹿島茂という大学教授が「人間の歴史はド−ダの歴史である」と主張され、「ド−ダ学」なるものを提唱されている。(教授はド−ダ学は東海林さだおの漫画に啓発されたとも告白されている。)
教授が提唱するところの「ド−ダ学」とは、人間のコミュニケ−ションのほとんどは、「ド−ダ おれ(わたし)はすごいだろう、ド−ダ、マイったか」という自慢や自己愛の表現であるという観点に立ち、ここから社会のあらゆる事象を分析しようとする学問、なのだそうだ。
ド−ダとは「自己愛に源を発するすべての表現行為である」と定義され、画家でも音楽家でも表現者といわれる人々は、結局、朝から晩までド−ダすることを考え、ド−ダしたくてしょうがない「ド−ダ人間」なのだ。
またピアス・刺青・スプリットタンなどをよそおう若者は、それによって他者との差異化を図ろうとする、つまりオレはお前達とは違うんだゾ意識の表現者であり、これもド−ダ人間の行動類型にいれてよい、と考えられる。
またド−ダ人間は、おばあちゃん子であったり一人っ子だったりして自己愛が損なわれることなく肥大化しているケ−スが多く、自分がかなわない課題などに直面した時などには、自己愛が傷つくことを恐れてか、諦めや撤退がとても早いのも特徴である。
またアキバ系などにみる通り一点集中主義ド−ダ、高級車愛好者などのように一点豪華主義ド−ダなどのエピゴ−ネンもいる。
となると、人間は必ずどこかにド−ダ心を秘めている生き物だが、「ド−ダ人間」となるとそれとは別格で、芸術家などの表現者や歴史を動かした人物などにその類型を見出すことができる。
特に戦国期や幕末期などに同時多発的にド−ダ人間が出現するといってよい。
つまり誰しもがド−ダ心を秘めているとしても、世間一般に「ド−ダ人間」が溢れているわけではない。
人間には「ド−ダ、すごいだろう」とリキんで生きる人達ばかりではなく、「どーぞ」と相手に一歩譲ったり、相手の話を聞いたり、奉仕したり、要するに相手を活かすことに自らの生きがいを見出す人達もたくさんいるからである。
「ド−ダ」と言い得るほどの才なき普通の人々の強さと賢さは、まさにこの「ど−ぞ」の姿勢を知っていることにあるのかも知れない、と思うのである。
というわけで「ド−ダ」軸に加えもう一本「どーぞ」軸を引いて人間や社会を見てみたいと思います。

旧約聖書の中には「ド−ダ」、「どーぞ」の座標軸をあてはめると、それぞれに思い当たる人物がでてきて、なお面白く感じることができる。
神は人間の類型として「ド−ダ」、「ど-ぞ」のどちらか一方のタイプを愛するなどというようなことはなく、それぞれに愛を示されている。 聖書を読むと、神は人間を訓育するにせよ鍛えるにせよ、けしてサイボ−グにしたりしてはしないで、ゆっくりと人間の変化(成長)を見守っているかんじです。
人間の方が自ら「気づく」まで。
そして神の偉大なる業に携わる人間は、ほぼ「どーぞ」人間であり、「ド−ダ」人間も「どーぞ」人間に転じるに至るまで様々な試練や鍛錬をうけているように見えます。
その典型例はモ−セで、「ド−ダ」人間から「どーぞ」人間に転じた時に、神はモ−セを「出エジプト」という大事業に導いている。
エジプトのファラオの命により人口が増えたイスラエルの子は殺されることになり、モ−セはひそかに葦の箱に入れられてナイル川に流されたが、それを拾ったエジプト女の機転でエジプトの王子として育てられた。
ある日、自分の出自を知ったモーセは、たとえ奴隷の身であっても世の享楽のふけるよりも神の選民として生きたいと、エジプト人の下に酷使されていたイスラエル人の中に身を投じる。ここまではモ−セの信仰の偉大の片鱗を見る思いがするが、王子として育てられたモ−セは「ド−ダ」気質はやみがたく、イスラエル人の喧嘩の仲裁に入ったまではいいが、人を殺めてしまう。
このことを目撃した人に攻められイスラエル人の中にさえ身をおくことさえできずに、ミデアンの荒野をさまよい当地の娘と結婚しごく平凡な落人ライフを送り、そのままその身を彼の地に埋もらせるやに思われた。
ここでの生活は単調であり、エジプト王宮の幻やイスラエル人の奴隷の叫びもモ−セの脳裏を何度も横ぎったことであろう。そして晩年を迎えたモ−セに突然のように神からの声がかかる。エジプトの地よりイスラエル人をカナンの地に導けという声であった。
モ−セはその頃、「ど−ぞ」人間の特徴である「聞く」態度を充分に身につけていたにちがいないが、それでもその声と我とわが身を疑ったことであろう。ちょうど受胎告知をうけたマリアのように。
そして紅海が分かれるシ−ンで有名な「出エジプト」の旅が始まるのであるが、モ−セを見る限り、「ド−ダ」人間のままでは神につかってはもらえなかった、ということを教えられる気がする。

また「ど−ぞ」人間の典型を示す出来事を信仰の父・アブラハムにみる。アブラハムには、とりあえずは相手に「ど−ぞ」と優先権を与えるという信仰上の流儀があった。
疾風怒濤、魑魅魍魎、先手必勝、弱肉強食の現代社会なら、何をヨユウかましてるんだ、と怒髪衝天の上司に大目玉を食らいそうなのだが、「信仰の人」は違っていた。
アブラハムには、相手に「選択の権」を与えてることによってむしろ自分を神がどこに導こうとしているのかを探ろうとしていた、ように見えるのです。アブラハムにはその導かれた地にて神が自分を祝福されるのを確信していたのである。
話は遡るが、信仰の父・アブラハムは、カルデアの地ウルよりカナンの地に行けという命を受けるのであるが、カナンの地にはいるころ一族の数が増えて、家畜などをめぐり甥であるロトの一族と争いが絶えなかった。アブラハムは自分の一族とロトの一族とが分かれて生活をすることを提案する。
そしてアブラハムは丘にのぼり見渡す原野を前のどちらの道に行くかを道をロトに選択させるのである。つまりこの時に選択の優先権をロトに与えるという「どーぞ」の態度を表すが、ロトはその時点で見た目が豊かで麗しく見えた低地を選んだ。
そしてアブラハムの一族は山地で暮らすのであるが、その地で神より星の数ほどアブラハムの子孫が繁栄していくという契約をうけるのである。
しばらくの年月が経るに従い、ロトが住んだ場所は、ソドム・ゴモラという悪徳の町が栄え、ロトも訪問中の神の使いを守るために彼の娘を獣のような男達に差し出すという悲痛を味あわせられている。ついに神の怒りは爆発し、ソドム・ゴモラの町が怒りの火で滅ぼされる中、神の恩寵によりロトの一族のみが助け出されるのである。しかしロトの妻は滅び行く町を振り返ったために「塩の柱」になったというエピソ−ドが残っている。
ところで、マタイによる福音書の「イエスキリストの系図」で、アブラハムの次はイサクであるが、アブラハムが生贄として息子イサクを捧げよという声を聞き、いまやナイフを息子に振り下ろさんとした時に、神より「待て」の声がかかりアブラハムはその信仰を神に認められというエピソ−ドが有名です。
この場面を見る限り、いそいそと生贄の台上にのぼり自ら身をゆだねるイサクの姿がとてもとても不思議なくらいで「どーぞ」人間の典型を見る思いがする。
そのせいかイサクの人生は波風少なく、リベカという美しい妻と一生をそいとげている。生まれながらの「ど−ぞ」人間イサクの最大の試練は幼児期にあり、あとは平穏な人生を歩いているように見える。
だがしかし、イサクとリベカの間にできたヤコブは、「ド−ダ」人間の典型で、ある日神の使いがヤコブに現れヤコブは自分を祝福しないかぎり離さないとしがみつき、神の使いに骨の一部を奪い取られることがあった。実はこの出来事がきっかけでヤコブはイスラエルつまり「神と争う」という名前をいただくのである
神はこの「ド−ダ」人間・ヤコブの産業を祝福しヤコブは一財産を築くのであるが、その人生は波乱万丈で、特に晩年は多くの悲哀をなめている。
最終的にヤコブが「どーぞ」人間になり得たかどうかは定かではないが、ヤコブの生涯を見ると、神の愛(神の扱い)は、人間の幸福や不幸の次元では捉えることはできない、といつも思うのである。

次に、日本史上の人物や出来事をみると「ド−ダ」人間の数は枚挙に暇がないが、「どーぞ」人間を探すのは難しい。ただ徳川家の歴史のなかで、「どーぞ」のケ−スが二例ほど思い浮かんだ。
徳川家康の江戸入府と、徳川慶喜の大政奉還である。これらは、歴史に残る「どーぞ」ともいってよい。
織田信長亡き後、織田の後継者を任じる「ド−ダ」豊臣秀吉は、五大老の筆頭格である徳川家康に三河の地より江戸の地に国替えを命じる。江戸には武蔵野という原野が広がり人間が住む地としてはほとんど未開の地といってもよかったが、家康は秀吉に匹敵する(実際、小牧・長久手の戦いで顔合わせしている)実力を充分に持っていたが、あえてことを構えずに「どーぞ」と秀吉の言葉に従うという表明をする。つまり家康は秀吉の命令通りに三河から江戸へと国替えする。
先を見越した戦略的「ど−ぞ」などとは後から言えることで、並々ならぬ決断であったでろう。この決断により徳川270年の継続と江戸・東京の大発展に繋がったとはいえる。
人間は目先や鼻先や口先の風向きに弱いけれど、家康の決断は後世からみると結果的に正しかったように見える。
また大政奉還は、幕府打倒を狙う薩摩長州に機先を制し肩透かしをくらわせるように、幕府側が天皇への政権返上を申し出るのである。幕府方から朝廷側に、「ど−ぞ」、と政権を返上するが、幕府方の狙いは政権を名目の上で朝廷に返せば、薩長方としては倒幕の名目を失ってしまうのである。これは戦乱を避けると同時に、政権返上後の雄藩による一種の共和政体の下で依然として徳川家が実権を握れることをよんでの高度な政治的決断であったといえる。
いわば徳川家は、朝廷とのニリ−グ制での一方の盟主でなく、一リ−グ制下の事実上の盟主をめざしたのである。
ただ同じ共和政体でも色々な目論見が錯綜し、薩長軍の司令官・西郷は、徳川家ぬきの雄藩対等の共和政体を構想していたの対して、徳川慶喜は将軍の地位をおりて、朝廷の下で自分が摂政関白に匹敵する地位につき実質、独裁制を続けることを構想したのである。
ここで薩長側にくみしていた朝廷内のド−ダ人間・岩倉具視は、そうした徳川家の目論見を潰すために暗躍した。孝明天皇の妹は和宮は徳川家茂にとつぎ、徳川慶喜に非常に親しみを抱いている孝明天皇の下では、そうした慶喜の構想が実現する可能性がきわめて高かったのである。薩長サイドとしては、孝明天皇の存在自体が大きな障壁であった。
ところが薩長サイドとしてはあまりにもタイミングのよい時期に孝明天皇が亡くなった。当然この死には、岩倉らの暗躍が推測できる。 その後、小御所会議での薩長側の徳川家の辞官・納地の要求と、それを拒絶する徳川家の間の戦いである戊辰戦争を経て、それに勝利した薩長土肥前により明治新政府が誕生するのである。
家康の江戸入府にせよ慶喜の大政奉還にせよ、男達の「遠望」または「遠謀」するどい「どーぞ」ではあった。
というわけで、彼らがやったことは戦略的「どーぞ」であり、彼らを人間として真正「どーぞ」に入れるわけにはいかない。しかし西郷隆盛などは少なくともその前半生に限り、大久保・木戸・高杉などの英傑の中にあって、稀有に近い真正「どーぞ」に属するのではないか、と思うのである。
「ド−ダ」人間は総じて饒舌であるが、「どーぞ」人間・西郷は寡黙であり、人を魅了するほどの聞き上手、相手をけして否定しないので、皆が西郷を好きになってしまう。またしばしばいわれることであるが、一度月照という坊さんと入水自殺をはあったこともあり「無私」の境地にも達していた。
目から鼻にぬけるような鋭敏なド−ダ・大久保はけして西郷の上に立つことはできなかった。「どーぞ」型の要素を多分にあわせもつ西郷こそ薩長のリ−ダ−格となったのである。
「ド−ダ」人間はえてして人望がない。人が集まるにせよ、それは一時的な利害の一致の上ということにすぎないから、後々その人望のなさこそが蹉跌の一要因となったりもするのである。

最近話題になったバブル長者やIT長者も「ド−ダ」人間の典型なのだが、ほんのささいな蹉跌から転落してしまうというのも、その溢れる「ド−ダ」心を少しでも「どーぞ」心で制御することができていれば、いい感じの成功者になれたのかもしれない、などと思うのです。
実は、人の心の中には「ド−ダ」心と「どーぞ」心があり、日々シ−ソ−のようにそのバランスを変えいる、というようにも思うのです。
一旦バランスを崩すと修復に大変苦労することがあるので、時々心の中をのぞいてみてはド−ダ。