海老名弾正と熊本バンド


世に学習会(勉強会)なるがいたる所に作られ、しばらく活動が行われ、そして消えていく。多分人々の、学びたい、知りたい、出会いたい、などとの気持ちが合わさって、しばらくは続くのだが、リ−ダ−が仕事が忙しくなったりして自然に散会する、そんなキノコ自然発生的性格の学習会なるものが結構おおいのかもしれません。
学習会のなかで「学ぶ」という要素を少々削って、「趣味」的要素を増せば、それはそれでサ−クル活動に転じたりもするので、その、カメレオン的フレックシブルさがまたよい。
その存在は、もちろん登録が必要なわけではなく、法人でもないので税金がかかるわけでなく、その数さえ誰も把握することができないシャボン玉的はかなさを帯びている。
誰かが「源氏物語」を知りたいと思い、ご近所に暇を持て余している元国語教師にいれば、レクチャ−をお願いして、少しばかり知的な話にかこつけて井戸端会議をしたい人々が集まれば、それで充分なのだ。
1980年代より、カルチャ−・スク−ルなどが流行したが、原点はやはり公民館や、市民センタ−の一室、または誰かの家の居間なんかで、堅苦しくもなく茶菓子もでる程度の自由で陽気な雰囲気があればそれでよい。
以上、私が抱く理想の学習会像を勝手気ままに語ってしまいましたが、もちろん学習会の中には、定期的・長期的に継続することに大きな意義をもつものがあることはいうまでもありません。
現代社会にあって、予期せずにオモ−イ歴史的役割を担ってしまったがゆえに、政治的に利用され本来の姿を見失った学習会が東京・杉並に存在した。
それは「草の根」の活動が国家や政党に取りこまれてしまうという一つの現実があったのですが、歴史的にみて日本人は、行政(またはオカミ)に依存せず自分達の生活を相互連帯をもって守っていこうという気骨、根性つまり「草魂」はそれほどヒヨワなわけじゃない、と思う。

「草の根」「草魂」といって私が思いおこすのは、幕府の弾圧にも関わらず花開いた浮世絵や歌舞伎などの町人文化で、そうした弾圧があったればこそ生まれた「粋」という文化は、あえて人目のつかないところに金をかけてお洒落をしたりするのですから見あげたもんです。私は絶対にそんなことしません。
さらに江戸の消防組織「いろは」組や大阪の八百八橋にみる公共事業などにもそうした「草魂」をみる思いがする。
学習会、つまり同じテ−マをもって学ぼうとするヨコの関係の強い集まりの姿をみて、室町時代の頃よりムラ社会に現れた「講」組織や、江戸時代の「若者組」などを思いおこす。
江戸時代には幕府から領主からムラにいたるまで年貢納入システムが確立され、農民の代表が村方三役として年貢納入や、非キリスト教であることを証明をする宗門改めなどの責任を担っていた。
こういうタテの力学が働いているなか、村人達もヨコの組織をつくり、タテの締め付けの息苦しさをある意味で分散または溶解していた、という見方ができるのではないか、と思う。そのヨコの組織が「講」であり「若者組」であったのだ。そしてこうした組織には、信仰を学んだり、大人になるための準備としての様々な知識を学ぶという「学習会」的要素が多分に含まれていたのです。
またユイやモヤイといった、労働交換や相互扶助もヨコの繋がりを示すものです。 ところで、「寺小屋」という庶民教育機関が江戸時代に数多くつくられるのですが、幕府によって奨励されたわけでもなく、税金によって運営されているのではなく、教師は誰かに任命されたものでもなく、いわば自発的・自主的なものであり、「学習会」と共通する要素が多い。
そう考えると「寺小屋」の広がりこそは、日本の草の根の強さの証左であるように思うのですが、いかがでしょう。「寺小屋」こそは日本人の「草魂」の証(あかし)ではないか。なぜそんなこといわないのかな?
寺小屋の名称は、お寺に檀家の子供達が集まって「読み書き」を習っていたことに由来する。、江戸時代中期以降で商人文化が花開きはじめると、読み書き、ソロバンが不可欠となり、これが飛躍的に発展したのである。
教師はお師匠さんとよばれ、町年寄り、庄屋、武士、医者、僧侶、神官などがなり、寺小屋とよばれながらも自宅を教室として使い、男女共学であったことは特筆に価する。
そして寺小屋学習こそが、近代日本の飛躍を可能にした大いなる助走とみてよい。
実際に、1872年の学制により全国に3万近くの小学校が創られたが、これらの多くは寺小屋を衣替えした小学校であったのです。

ところで、日本の原水禁運動の基点となったのは、「杉の子会」という一つの学習会なのです。杉の子会は、当時、杉並区の公民館館長であった安井郁(元・東大教授)をリ−ダ−に、社会科学書をテキストとした、地域の主婦中心の読書会としてスタ−とした。
1954年におきたアメリカのビキニ水爆実験と第五福竜丸の被爆という出来事は、この学習会にとって運命的な出来事であった。この出来事に対する彼女達の反応のすばやさは、読書会で社会科学書を読み進めていたことも一つの要因であった。
そして、被爆におけるマグロの汚染という出来事は、彼女達にとって政治や外交や思想の問題ではなく、生活の問題であったのだ。毎日に市場通いの中で彼女達は、何かウスヨゴレたものを感じるようになったのである。そしてわずか1年間の間に国内3000万人、全世界で7億の原水禁の署名を集めるのである。
日本の市民による最初の公害反対運動であった、とみることもできるのだが、同時にこうした運動を革新政党が無視しえくなり、運動の主導権を握ろうとして接近し始めたのが、やがてこの会を分裂に追い込んでいく。
杉並区という小さな地域に住む彼女達が、国内だけでなく、世界の市民力をあわせてと署名を集めることができたのは、彼女達が日本という国家や政府ではなく、杉並区という地域に生きる住民を代表していたからである。 なにしろ冷戦下の世界、彼女達の署名運動は、国家の壁をこえる行動の形をとっていたのである。それは政党や革新団体が、特定の国家や政府との結びつきから脱却できずにいるのと対照的な姿であった。
しかし原水協理事長として原水禁運動の「顔」となった安井は、1963年の第9回原水禁大会で、「いかなる国のいかなる核実験にも反対」という表現をめぐって露になった安保議論や、運動の党派的対立のなかで身動きがとれなくなり、しだいに杉の子会メンバ−にも動揺と混乱おこり、ついに1964年4月の機関誌の発行をもって事実上終止符がうたれた。
それによって、最盛期には100名をこえるメンバ−を超えるにいたった杉の子会も、東京山の手、杉並区の中流階級の「奥様方の集まり」という最終評価を免れることができなかったのですから〜、ザンネン。

京都生まれの上野英信は「民族協和」の理念に憧れ、満州国の大学に学ぶが、厳然と存在した民族差別にむきあった体験をし、また学徒召集によって転属先の広島で被爆し多くの死者を目にした体験は、戦後編入した京大でそのまま学業に専念することを拒ませた。
上野は、朝鮮・中国人・沖縄終身者が流れ込んだ炭鉱に引き込まれるようにむかった。
1964年、上野英信が家族とともに、筑豊炭田の一隅、福岡県鞍手に移り住み、崩壊寸前の鉱夫長屋を補修して、集会所と図書室、事務室、居間を備えた筑豊文庫が発足する。
その宣言文で、筑豊文庫は、「筑豊が暗黒と汚辱の廃墟として滅びることを拒み、未来の真に人間的なるものの光明と英智の火種であることを欲する人々によって創立された」としている。
上野はその宣言文どうり、隣人のための仲裁者や相談相手として、あるときは筑豊を訪れる人びとの案内者として奔走するかたわら、国内の中小炭鉱の実態だけでなく、高度成長期の繁栄の陰で中南米にまで追いやられていった炭鉱離職者を追って、その記録を結実させた。
こういう上野英信の砦であった筑豊文庫は、地域の人達が集まる公民館であり、スラ、テポなどの道具類から薄っぺらな炭券一枚までを大切に保存する資料館また、美術館でもあり、学習会の場であり合宿所でもあったのだ。
上野英信らの記録が世に出るにつれ、マスコミや一般人、学生などがこの筑豊文庫を多く訪れるようになり、地域の人々から浮きがったのもやむをえない状況もあったが、それを黙って軌道修正した上野英信の妻・晴子が果たした役割もけして軽視することはできない。

原水禁運動の発祥の地・荻窪公民館は現在はなく、同じ場所に荻窪体育館が建っている。この場所は東京裁判が開かれる直前に毒をあおいで自決した首相・近衛文麿の邸宅も近く、私は大学時代に何度も通ったことのある道です。
道の傍らの原水禁運動の記念碑「オ−ロラ」の存在さえ認知せずに通りすごしてきた学生でありましたが、上野英信らの自ら選んで泥や汗にまみれた現場主義の人々を思うにつけ、草の根をよくかき分ければまだまだ本当に偉い人達がいる、という思いを強くしました。