海老名弾正と熊本バンド


上野公園に建てられた西郷隆盛の銅像の除幕式にでた妻が、「違う、西郷さんではない」と語ったため周囲の人々 を戸惑わせた。
西郷銅像を建てられたのは1898年、西南の役より21年後のことである。
西郷さんは明治政府への反乱者でありながらも、日露戦争へと向かわんとする時点では日本軍国主義の英雄に仕立て上げられようとしたのだ。
したがって妻の言葉には、たとえその意図はなかったにせよ意味深な内容を含んだものであった。

「硫黄島からの手紙」「父親からの星条旗」をみて、英雄というものを考えさせられた。
アメリカは日本軍との戦いのために戦費を集めるために英雄を必要とした。そこで硫黄島の山を奪い取り、そこに星条旗を立てた男達を英雄に祭り上げようとする。
しかしその写真に写った男達は、実際に山を勝ち取った者たちではなく、後で旗を立て直した男達に過ぎなかったのである。一枚目に写った真の英雄達を写した写真は現像に失敗していたのだ。2枚目の写真に写ったのは、戦場では使い物にならない伝令係、衛生兵、そして差別に生きたインディアンの3人であった。
彼らはそれぞれ英雄として祭り上げられ、歓呼の声に迎えられ様々な式典にも出席し、人々が集まるなかサインを求められる。
これを千載一遇のチャンス到来と思うものもいれば、罪の意識にさいなまれるものもいる、ただひたすら沈黙を守ろうとする者もいる。
そこで思い出したのがナイチンゲ−ルである。
英国上流家庭の娘として生まれたナイチンゲールは、神の声を聞き看護婦になる決意をした。
1854年ロンドンタイムスの特派員によりクリミア戦争の前線での負傷兵の扱いが如何に悲惨な状況であることを伝えられると、事態を重くみた戦時大臣はナイチンゲールに戦地への従軍を依頼する。ナイチンゲールも自ら看護婦として従軍する決意を固めシスター24名、職業看護婦14名の計38名の女性を率いて後方基地と病院のあるスクタリに向かった。
 そして彼女は「ランプを持った天使」の名声を得た。1856年4月29日クリミア戦争は終結し、ナイチンゲールは自分がとまどうほどに国民的英雄として祭り上げられていることを知る。
彼女はこのことを快くは思わず、スミスという偽名を使用して人知れず帰国したほどである。その時37歳、彼女はその後虚脱状態に陥り10年もの間病床で生活をしている。彼女は何かの罪の意識にさいなまれていたという説もあるが、私にはナイチンゲールがとても頑なに沈黙を守り続けた、という印象が残る。
現在、聖トーマス病院にナイチンゲール博物館がある。1910年8月13日永眠。墓石には故人の意思により、ただ「F. N. Born1820. Died 1910」とだけ記された。

ところで、「英雄像」としての最も波乱に富んだ人物として思い描くのは、オルレアンの少女「ジャンヌ・ダルク」である。 ジャンヌ・ダルクは中世後期フランスに登場する救国の少女である。彼女が歴史の舞台に登場するのは、百年戦争においてイングランド軍によりフランスの北半分が奪われ、さらにはフランス王位さえも失ってしまうという、フランス大劣勢の時代であった。
そのなかで、フランス中部に位置するオルレアンは両軍の最前線にあたり、そのオルレアンでさえイギリス軍に包囲され、フランス軍は絶体絶命の窮地にあったのである。
この状況を打開したのが「フランスを救え」という神の声を聞いたジャンヌ・ダルクであった。彼女の登場により一気に士気を高めたフランス軍は、イングランド軍のオルレアン包囲網を次々と解いていく。 さらに勢いづいたジャンヌの一団は、王太子シャルルをフランスへ導き、国王シャルル7世として戴冠させる。この出来事はフランス史のタ−ニング・ポイントとなり、ジャンヌダルクは「救国のヒロイン」となるのである。
しかしヒロインの登場はフランス軍の士気を高めたであろうが、現実の戦いは、それ以後、敗戦と後退が続いていく。 まずイングランド支配下のパリへ侵攻するが、強固な守備の前にあえなく敗退、次にジャンヌは単独でコンビエ−ニュを攻めるがまたもや失敗し、さらには退却の際には敵軍の捕虜となってしまう。
捕らえられたジャンヌの身柄はルアンに移され、司教によって異端尋問に判決が下され、1431年5月異端の判決が下され、火刑により生涯を閉じることになる。
以上の経緯からわかるようにジャンヌが実際に活躍したのは1429年のわずか数ヶ月であるにも関わらず、いまなおフランス救国の国民的ヒロインと呼ばれるのは、実は後にナポレオンがジャンヌを救世主としたことに始まる。
ナポレオンはジャンヌを、フランス王国の危機的状況に奇跡をもたらす偉大な英雄として、自らをジャンヌの行動を正当化したのである。こうしたプロパガンダにより19世紀より次第にジャンヌ像が作り上げられてきたのである。
しかし、ナポレオンに宣伝の他にもうひとつの伏線があった。というのは火刑からわずか6年後の1455年に、ジャンヌ・ダルクの復権裁判が始まるのである。
それは1450年、ジャンヌが処刑されたルアンにおいて、シャルル7世が異端裁判に対して予備尋問を求める勅令を出したことに始まる。そして裁判の形式上の誤りや、判事達の偏見などを明確にするため、27項目の尋問調査がなされた。 ジャンヌに関わった様々な人々の証言が集められた結果、異端裁判による判決は、ジャンヌを魔女に仕立て上げられることで、彼女に助けられたフランス国王の正当性を否定しようとした意図的なものであったことが証明された。
その結果1456年7月、ルアンで、かつての異端尋問による判決が不当なものであり、その後の措置を無効にする、という判決文が読まれた。 この裁判は、ジャンヌの名誉回復とともに、彼女に助けられた国王自身の名誉をも取り戻すための「政治的な」裁判でもあったわけだ。
映画「父親たちの星状旗」の最後の言葉には、
「ヒーローはいない。父は硫黄島の戦いでヒーローとなった。しかし皆、父のような普通の人間だ。父がヒーローと呼ばれるのを嫌がった気持ちが解る。ヒーローとは人間が必要にかられて作るものだ。そうでもしないと命を犠牲にする行為は理解しがたいからだ。しかし、父と戦友たちが危険を犯し、傷を負ったのは仲間のためだ。国の戦いでも死ぬのは友のため、共に戦った友人のためだ。」

ジャヌ・ダルクの生前と死後の経緯を見ると、英雄とは人々の必要性によって生み出される、ということがよくわかる。必要がなくなれば徹底的に「偶像の破壊」が行われるということだ。
でもこんなこと今更いうまでにもおよばない。テレビ、新聞、雑誌、ラジオで毎日行われていることだ。日々プチ・ヒ−ロ−やヒロインが生み出され、日々叩き落されている。 劇場でもない芝居小屋でもない、我々の日常身近におきていることだ。
英雄が必要によって生み出されるならば、「スケ−プ・ゴ−ト」も必要によって生み出される。
ただ英雄に仕立てあげられることにも、またそこからはたき落とされることにも負けないだけの耐性を身に着けている人間はそうざらにはいない。そこで悲劇がおきる。
いずれにせよ、政治権力の手垢にかぎらず、民衆願望などの手垢を含め、「手垢」がついていない歴史上の人間像というものはありえない。
手垢ベタベタのむこうに真実を見るなんてできそうもないが、「手垢の存在」ぐらいには気づいていたいものである。