作詞家の故郷


童謡歌手が脚光を浴びた時代がある。大正時代に子供達に文語・教訓ではなくわかりやすい日本語で芸術性のある童話・童謡をつくろうという「赤い鳥」運動がおき、それに多くの文学者や音楽家などが賛同し参加した。
次に歌手の方であるが、プロの大人の歌手が童謡を歌うと重すぎるというので、同じく子供の童謡歌手が求められた。
実は女優・吉永小百合のデビュ−は児童歌手であった。小学校5年生の時、人気ラジオ放送で僕らのナマカ「赤道鈴之助」の児童歌手募集に応じたものであった。オ−ディションがあり後の女優・藤田弓子も吉永とともに「赤道鈴之助」を歌っている。
ちなみに、このラジオ放送のナレ−タ−役は当時中学生だった山東昭子であったから、人材輩出という点では「赤道鈴之助」は、まさに「モンスタ−」ラジオ番組だった。
ところで年、NHKのラジオ番組などに童謡歌手をたくさんに提供した「音羽ゆりかご会」なるものができたのが1933で、音羽の護国寺内の幼稚園にてこの会が誕生したのである。
当時東京音楽学校の学生であった海沼実はアルバイトのつもりで子供達を集めて歌唱の指導をはじめたのであるが、これが日本における児童合唱団のはしりとなった。
ちなみに護国寺というのは、あの犬公方とよばれた徳川綱吉が母親のためにつくったお寺で、音羽という地区は鳩山ファミリ−のお膝元、しばらく前には「お受験殺人」などがおきたところで、教育熱がとてもお高くお母様達がとてもお元気なところです。これは、かつて近くに住んだことのある私の実感です。
この音羽に隣接した街が大塚なのですが、この大塚に1915年に「大塚講話会」なるものができている。これは童話を巡回して子供達に読んで伝えようという口演会で、童謡とは違うが、その精神は「音羽ゆりかご会」に似通っているといってよいでしょう。
この「大塚講話会」を設立したのが、福岡の士族の息子で下市春吉という人物である。下井は東京師範学校の学生時代にこの会の活動を行い、さらに今の東京外語大学でイタリア語を学び、当時日本と友好関係にあったイタリアのナポリにある国立東洋語学校の日本語教授として招かれている。
下井は義勇兵としてイタリア軍に従軍したこともあり、たまたま白虎隊の話をしたところ、交友のある詩人を通じてムッソリ−ニに伝わり、ムッソリ−ニはその話にいたく感動したという。
ムッソリ−ニは、白虎隊の精神を記念して白虎隊の故郷・会津若松に寄贈しようと思いついき、会津若松の飯盛山(白虎隊自刃の地)にイタリアから寄贈のロ-マ時代の柱を象った記念碑がたっているというわけである。
さてこの鶴ケ城落城が大きなモチ−フとなっているのが、日本で最も有名な唱歌「荒城の月」である。東北仙台出身の作詞家・土井晩翠はこの悲劇をイメ−ジして「荒城の月」の作詞をおこなったが、曲の公募に応じて曲をつけたのは大分県竹田出身の瀧廉太郎である。竹田にも岡城の廃墟があり、荒涼とした石垣の上に出ている月をイメ−ジして瀧は「荒城の月」の作曲を行った。
こういう土井と瀧という「滅びの美学」という似通った精神の「主旋律」をもった二人の出会いは、もう一つの出会いを思い起こさせた。
愛知県の伊良湖岬で遠い南の国より流れ着いた椰子の実を発見した柳田国男が、帰京後に友人の島崎藤村に話したところ、藤村が詞をつけて誕生したのが同じく唱歌としてとても有名な「椰子の実」であった。ちなみに「椰子の実」に曲をつけたのが賛美歌など宗教音楽家として知られた大中寅二という人物です。

唱歌誕生には、色んなめぐり合わせがあって興味深いが、伝え聞いた「赤い靴をはいた女の子」を元に書いた北海道のテレビ局員のノンフィクションのモデル探しの中で、新聞投稿に「それは私の姉である」と寄稿した女性の交友範囲に、作詞家・野口雨情がいたことが、「赤い靴」誕生のきっかけとなった。
「異人さんにつれられて行ってしまった」という意味深長な表現を含む歌詞もそうだけれども、童謡・唱歌にはドッキリするような社会の哀感が秘められていることを知ったのはつい最近のことです。
「はないちもんめ」の「あの子が欲しい、あの子じゃわからん」は、生活苦のために吉原に売られていく子供達を歌い、「島原の子守唄」の「唐は何処ん在所、海の果てばよ」フレ−ズは、同じく生活苦のために東南アジアに売られた「唐ゆきさん」をうたった詞を含んでいます。「唐ゆきさん」の話は山崎朋子原作で映画化された「サンダカン八番娼館」に紹介されています。
さらにドッキリ唱歌といえば、「シャボン玉」のなかの「生まれてすぐに、こわれて消えた」は作詞家・野口雨情が生まれて八日で亡くした長女、および二歳で亡くなった次女のことをシャボン玉に託したという説が有力である。
また、言葉の解釈が難しい熊本の「五木の子守唄」は、被差別民の歌、源平合戦で敗れた平家落人の歌、朝鮮からつれてこられた陶工達の望郷の歌などの様々な解釈がある。
ちなみに、福岡県大川出身の古賀政雄の代表曲「酒は涙か溜息か」や「影を慕いて」の代表曲、そして「王将」などは「酒場の唱歌」といっていいほどに大衆に愛されているのだが、古賀の音楽活動は、古賀が青年期を暮らした韓国と切り離して考えることはできない。
(私実際に、居酒屋であった大学のゼミのコンパで皆と「王将」を合唱しました。テノ−ルあたりの担当でした。)
韓国の民謡が古賀メロディ−にとても近いことは在日韓国人の方からも指摘されることである。古賀政雄は7歳の時に兄を頼って母と一緒に韓国に渡り、ソウルの商業高校を卒業するまで多情多感な青年期を韓国ですごしている。古賀の哀切をひめたギタ−の旋律に韓国人も涙するという。
なお古賀政雄に師事したのが中国青島生まれの中村八大である。福岡県久留米の明善高校卒業後早稲田大学に進学、戦後はアメリカ軍キャンプを回りながら、ジャズ・ピアニストとして活躍した。
そして、いずみたくとのコンビで「上を向いて歩こう」、「こんにちは赤ちゃん」、「遠くへ行きたい」、などジャズのティストを含んだ大衆歌謡の名曲をつくったのである。

さて私の記憶で昭和の大ヒットとなった童謡といえば「およげ たいやきくん」であるが、鋳型にはめられて鉄板で焼かれる姿が、「花より単語」と小さい頃から路端の花の名前も知らずに単語帳をおぼえつつ塾通いさせられる子供達の心情に訴えたともいわれたが、あの歌を歌っていた子供達のすがしい顔を思い浮かべると、それも考えすぎだったかな、と当時を思い起こす。
「黒猫のタンゴ」の中には「時々ツメを出す」「気まぐれな」「僕の心を悩ませる」などとオマセな内容の歌詞もふくんでおり、童謡もついに「赤い鳥」路線を踏み越えたのか、そういう意味で画期的な童謡だったのか、いや違う、これは童謡といえるしろものではない、などと今更ながら僕の心を悩ませるのです。
ちなみに「黒猫のタンゴ」の、一体どこがオマセなんだ、という輩はニブイ人です。顔を洗って出直していらっしゃい、または木魚でも叩いていなさい
もっとも、そのころの僕が心を悩ませていたのは、「黒猫のタンゴ」などではなくて、必死マメタンで憶えた「赤尾の単語」本の方でしたけれどネ。
大正の「赤い鳥」運動が先鞭をつけた童話・唱歌誕生には、人々の「めぐりあわせ」というものを強く感じさせるものがある。子供達の歌・誕生を願う素朴で熱い大人達の思いが、どこかで無意識に手を握り、繋ぎあって名曲が生まれたように思えるのです。
そういう時代からすると、「お受験」とか「ステ−ジ ママ」とか、さらには「モンスタ−ペアレント」とかいわれる昨今の社会的記号が、冷やしソ−メンの中のサクランボのように異様にに浮き出て見えるのです。

教育再生の奇策として、童話・唱歌の復権・復活・充実に大きなプライオリティーを置くというのはどうでしょうか。そしてそのスロ−ガンを「Return to Red Bird」とするではいかがでしょう。