作詞家の故郷


日曜日のテレビ東京の番組「ソロモン流」は司会者によると、熱き魂と深い智恵を意味するのだそうだ。
聖書に登場するユダヤ王国・全盛期の王・ソロモン王は智恵に溢れた王で、その智恵は周辺諸国に聞こえた。有名なシバの女王もソロモンの智恵を伺いにユダヤ王国を訪問している。
日本にもソロモンの智恵は、大岡越前守の「大岡裁き」への焼き直しという形で伝えられていたりもする。
わたくし的には「ソロモン流」よりも、ソロモンの父親の方のダビデに学ぶところが多い。
ダビデは道徳的に見る限りけして褒められた人間とはいえないし、栄光も悲劇も味わった人物である。
聖書を読むかぎり、悲運は必ずしも神に捨てられることを意味しないし、神の前には空しい栄光というものもある。
ダビデは悲劇のどん底の中でも、世界中で誰よりも神に深く愛され多く慰めをうけた人物である。
(なにしろダビデの系図からイエス・キリストが誕生するのですから)

聖書にある人物像に聖人などというものは一人もいない。聖書は、人間がなんでも偶像化してしまうという傾向があることをあらかじめ知っているかのように、いつか必ずどこかで過ちとボロを露呈する人間ばかりを呈示している、というよりもそれが人間なのだ、と教えている。
(なのに人間を聖人に列するなどして偶像を増殖させている教会は困ったもんだ)
ただし、聖人はいないないのだが、神によって愛される人間と、恵みを喪失していく人間の姿が赤裸々に描かれている。
創世記にある、映画「エデンの東」の原型となったカインとアベルの物語はその典型である。
聖書を素直に読むかぎり、神は誰に対しても平等ではない。また聖書は道徳教書でもなければ倫理階梯でもない。 道徳的な立派さは、その人に対する神の愛の基準にはならない。それが聖書の奥深さです。
聖書の中で、十字架にむかうイエスを明示的に否定した人間は2人いる。
一人はイエスを売り渡したユダ、もう一人は-イエスを知らないといったペテロ。
ユダは首をくくって死ぬが、紐が切れて内臓が岩に露出したことまでも記載されている。
一方、ペテロについては、イエスの預言どおりにイエスを裏切り、蒼白となり泣き崩れる姿が記載されているが、イエスの復活と出会いキリスト教会の基となっている。
神はその愛そうとするものを愛し、恵もうとするものを恵む。(出エジプト33:19)とある。神が目にとめる人間と、そうではない人間を別つ根拠ははっきりってよくわからないのであるが、「神に愛される」とは、魂に深さがますかのようにの苦しみと同時に慰めが与えられる、ということがわかる。
「Be My Child」へと導かれていく人々のことである。
一方、神の目が留まらないというのは、成功する者であれ失敗する者であれ、放置される、「Be My Guest」(お好きに)ということです。(ちなみに「Be My Baby」ではまったく意味合いが違うので要注意)
神は愛するものを訓練し受け入れるすべての子を鞭打たれる。(ヘブル12:6)

神の目が留まるものと離れさっていくもの、そのことを最もよく教えてくれるのがユダヤ王国初代のサウル王と二代目ダビデ王の話である。
旧約聖書の「詩篇」は多くはダビデによってつくられたが、ダビデが様々な困難や苦悩と出会うたびに神と交わした濃密な対話ややり取りは、信者とは限らず、後世の人々の慰めや信仰の励みとなっている。ダビデの子のソロモンは「深い英知」をもっていたが、ダビデの「魂の深さ」には及ばなかった、といってよい。
ダビデは我らと同じように過ち多き人であった。というよりも普通人よりもさらに大きな過ちを犯したといってよい。
部下の家来の妻が気に入り自分のものとして、さらにその旦那を戦場の最前線に送り込み、結果として殺してしまうのである。もちろんダビデの行為は神を大いに怒らせそのことにより大きな試練を経験する。
なんと、幼子の一人を失い、息子の一人が王位を奪おうと反乱をおこすのです。ダビデはその反乱に追い詰められるのですが、その息子が事故で死ぬやだれも慰めるものがいないほどに号泣するのです。
しかしながらダビデがなおも深く神に愛された理由は、その過ちが元でどんな苦しみを受けても、それをまっすぐに受けとめる信仰や生き方にあるように思えるのです。その意味でダビデの信仰は天才的にあった、といえるかもしれません。
人間はエデンの園から追放された時のように罪を犯したときには、神からのがれよう、顔をそむけようとするのですが、ダビデは逃げも隠れもせずに真っ直ぐに神の前に立つ、といういさぎよさがあります。

ダビデは、神に導かれて戦いに勝利しエルサレムに凱旋するのですが、踊るように、歌うように、恥じることなく神を賛美して帰ってくる。その姿を見た妻が王として恥ずかしくて見ていられないと告げたところ、どうして神を賛美することを恥じることがあるのか、と妻のいうことを退けるのです。
こういう神に対する包み隠さぬ子供のようなストレ−トさは、ダビデの最大の特徴です。妻はこのことにより子を産まなかったと聖書にあります。
また神が立てた(聖なる)ものや聖域に対しては、絶対に自らの感情や都合により、絶対に手をかけたり触れようとしないことです。 「サウルは千人をうち、ダビデは万人をうつ」という言葉が広まると、ちょうど源頼朝が義経の命をつけねらったように、頭が狂い始めたサウルにより終始命を狙われ、原野を逃げ惑うこともおきるのですが、サウルを殺すチャンス が二度ほどあったにもかかわらず「神が立てたもの」に自ら手をかけることはしません。
またサウルが死んだ後、サウル王の一族で親友でもあったヨナタンの障害をもつ子を常に自分の食卓において面倒をみたりする義理堅さもあるのです。
ダビデ王はサウル王より王位を受け継ぐが、ダビデが一線敗地にまみれると、ダビデはサウル一族の血に呪われている、と言いふらして歩く一人の男と出会うのである。部下があの男を殺して黙らせましょうかというと、その「呪い」の言葉でさえも、神がそう言わせているのだからほおっておけ、と命じるのです。
ただ、聖書のサムエル記下17章に見るとおり、呪いを祝福に変える神、あるいは呪われれば呪われるほど、それを打ち消すかのように祝福を増す神の力を知っていたのです。
つまり自分に対する誹謗や中傷でさえも祝福に転じる神を信じゆだね、言わせておくという態度を貫くのです。
またダビデは別の問題をおこし神にせめられた時、3つの選択肢を神によって提示されるのです。
「敵に3ヶ月おわれるか」、「3年の飢饉か」、「3日の疫病か」、ということですが、ダビデの選択は、どうせ落ちるのなら、人の手に落ちるよりも神の手に落ちることを選ぶのです。
そして疫病がダビデの地を襲うのですが、 その過程でダビデは何の罪もない牛や羊が殺されるのはなぜかと神に問い、災いはダビデの家にのみむけて欲しいという祈りに、神は疫病を下したことを後悔したとあります。そしてダビデは祭壇を築き、神はそれ以上の災いを思いとどまるのです。
このように神の心さえも動かすダビデの信仰は、いわば神の前では見事なまでに「まな板に鯉」的状態になり、神の憐れみを求める以外、その裁きを全的に神にゆだねるところにあります。
聖書には、時として受けられるだけの辱めをうけよ、という言葉もあります。神に対しては、煮て食おうが焼いて食おうがいかようにも、といういさぎよい態度なのです。
「神の手に落ちる」という生き方は結局、人の目から見て、堕ちそうちそう堕でちない、引きずり落とされてもなかなか落ちない、倒れそうで倒れない、という最も堅固な生き方なのです。
「神はわが岩、わが城、わが高きやぐら」(詩篇)
ダビデが過ちから窮地に立った時、いかなる攻撃をうけても、敵意や責めをけして他人にむけずあくまでも自分自身にむけ、あとは神にすべてをゆだねているのである。
その姿勢は終始一貫している、といってよいでしょう。

ユダヤ王国の国王・ダビデは、「神への最大のささげ物は砕かれた魂である」(詩篇51篇)と歌っているが、国王ともあろうものが、そんな言葉が吐露できるほどに見事に神の手に落ちたといってよい。
つまり神の術中に「はまった」、というよりも「飛び込んだ」というべきでしょうか。