海老名弾正と熊本バンド


皇居周辺では歴史的な大事件がおきている。桜田門外の変や虎ノ門事件、竹橋事件である。
竹橋事件は日本史の教科書の欄外扱いまたは掲載さえされていないが、澤地久枝の「火はわが胸中にあり」を読むと、その重大さにあらためて驚かせられる。
1878年(明治11年)8月23日の近衛兵の反乱、これを竹橋事件と呼ぶが、その後の推移を見ると、教科書欄外扱いは不当にして心外なほどで、この乱こそ、日本の近現代史を決定付けた、といっても過言ではないのです。
要するに皇居を守るべき精鋭であるはずの「近衛兵団」が、西南戦争の恩賞に対する不満と俸給減額への不満から、皇居内に向け大砲を砲火した、ということである。澎湃とおこりつつあった自由民権運動の影響を受けた兵隊もいた。
昭和において、陸軍内部の派閥抗争から一気に軍の主導権を握ろうとして、皇道派・若手将校を中心に多くの政府要人を殺した226事件の重大さと比肩できる。
ただ226事件は、兵士達の天皇に対する熱い「片思い」であって、天皇が「自ら兵をもって鎮圧せん」と宣言した途端に、その意図は完全に打ち砕かれたのである。
真に悪いやつは、彼ら青年将校の混じりけなき真情を利用して権力の中枢に居座ろうとした真崎ら皇道派の首魁らだ。(真崎らの加担は不明だが、少なくとも一度は青年将校らの行為に理解をしめすなどした、という意味で)
それと比較して、竹橋事件は、参加者の意図が充分解明されていないにせよ、大砲を皇居にむかってブチこんだという点で「天皇に対する反乱」と見なされ、軽かろうはずのない大事件である。
最高権力者「直属」には、女王陛下の007からナチスのゲシュタポ、足利将軍の奉公衆までいろいろあるが、その「直属」集団が最高権力者に反乱を起すというのは、世界の歴史でも未曾有なことであろう。
あえて言えばロシアのデカブリストの反乱(処刑5名)があるが、竹橋事件の参加者が時の権力者にいかに憎悪されたか、ということは、以下にまとめる通りその処分の早さと重さでよくわかる。

@8ヶ月にわたる西南の役の叛徒は、禁固以上で1767人に及ぶ中、斬罪に処せられたもの22人に対し、竹橋事件では53人の銃殺。しかも事件から2ヶ月たたないうちでの処刑だった。
A竹橋事件の処刑者は、後に大赦となり賊名は消えたが靖国神社の名簿にはない。(衆知のように極東軍事裁判のA級戦犯は名簿にアリ)。
B竹橋事件の処刑者の墓は、なんと100回忌にあたる1977年になって、ようやく所在が確かめられた。 皮肉なことに、裁いた側の代表である乃木希典のすぐ側に埋葬されていた。

竹橋事件の参加者は、日本国における「名簿外の人々」の扱いを受けた、ということですが、以上のような処分の厳しさの背景には次のような事情があった。
竹橋事件は、兵士達の西南戦争における待遇の不平等という瑣末に思えることがきっかけであったが、兵営内の待遇はもとより、徴兵制度の根本を問うた事件であった
また、他の砲兵大隊と統一行動をとり空前の武装蜂起となりうる可能性もあり、自由民権運動にも繋がり、その後の歴史がどうなるのか、予断を許さぬ因子が含まれていた。
しかし226事件後の統制派の興隆がそうであったように、竹橋事件の本当の重大さは、花火のように終わったその乱そのものではなく、その事件を結果的に利用した側が生み出したことがら、にあるのだ。
竹橋事件を利用し尽くしたのは、当時より日参する政治家が多かった御殿の主で、(田中真紀子さんの父たる、目白御殿の主・田中角栄元首相によく似ている)、日本陸軍の生みの親、大村益次郎の後継者である、山縣有朋である。
山縣の大邸宅は、目白に近い椿山という高台の上にあり、現在は椿山荘フォ−シンズという、日本でもっとも格式が高いといってよいホテル・結婚式場となっている。
ところで、竹橋事件の重大さを物語るその後の推移は次の通りである。

竹橋事件の密議に並行するように執筆された「軍人訓誡」は、「忠実、勇敢、服従」を主眼としている。 特に、軍人の政治活動(自由民権運動など)への参加を誡めている。
最終起案者・山縣有朋で、「軍人訓誡」の配布は処刑直前の10月12日、この訓誡にそむく兵士がいかなる末路を辿るかを 極めて効果的な形で証明することになる。「軍人訓誡」はのちに「軍人勅諭」として全国の兵士に下賜される。
それに先立つ10月8日、山縣有朋によって「参謀本部の設置」が建議され、12月5日に実施をみる。初代参謀本部長は、山縣有朋である。
参謀本部の独立は、統帥権いっさいを天皇の直属させ、政府の介入を許さない、いわゆる「統帥権の独立」の布石となった。
ついでに軍事予算削減(竹橋事件は給与問題からおきた)が、おそるべき事件をまねく結果になることを示した、という形でも山縣によって利用されることになった。

徴兵制度に対する疑問と不満をかかえて反乱をおこした平均年齢24歳弱の男達は、結果において徴兵制度を完成させ、兵士に対する鉄のしめつけをするための「みせしめ」として利用された。
武装して天皇に強訴を企てるなどもってのほか、帝国陸軍にとってあり得べからず存在であった。
男達は汚名を着せられ殺され消され、以後、兵士の反乱は昭和にいたるまで沈静化する。ただし疑問はおろか不満さえも表すことが許されない非人間的な内務生活が短い間に創られていった。
そうして兵士たちの内にむかっては抑圧された鬱屈したエネルギ−が後の時代になって、外に向かっては非人間的な残虐さをもって表出していくのである。