作詞家の故郷


我が青春の町バ−クレーといいたいところだが、実は、バ−クレーを彷徨したのは20台の後半であった。
大学のゼミの教授に海外留学をすすめられた。カリフォルニア大学(デイビス校)への推薦状を書いてもらい、Toeflの試験も一応要求基準をクリアしてアメリカに渡った。
大学より入学許可を待つのみではあったが、夏のおわりに受け取った通知は、「You are not admitted」
私の不合格とは関係ないが、貿易摩擦などで反日感情の高まり、日本人に対する許容度が企業や大学で著しく低下している時期ではあった。
さすがにがっくりしたがこれも運命、このまま帰国したのではもったいない、貯金もあったし多少の仕送りもしてもらっていた。アメリカをもう少しは体験したいとそのまま1年間滞在した。帰国後の自分に皆目像が描けず、将来に不安を抱きつつというのが実際だった。
住むハウスは確保したが車はなかったので、いたるところを歩き回った放浪生活という感じなのである。
バ−クレーはよくいわれように学生の街なのである。全米トップ5に入るUCB(カリフォルニア大学バ−クレー校)の街なのだ。
映画「卒業」で、テレグラフストリ−トをダステイン・ホフマンがバスに乗る女学生キャサリン・ロスを走っておっかけるシ−ンが印象的なあの街なのだ。
どこにもありそうなあのシ−ンは、有名な結婚式のラストシ−ンよりずっとよかった。なんか本質的なのだ。
好きになり始めた頃のすれ違いがちで、行き場のない気持ちを、さらにはなんの力も根拠もみいだせないレンアイの純粋さみたいなものを自然に表現していたように思う。
このテレグラフ・ストリ−トが気に入って何度も歩いた。バ−クレーは、世界の若者文化の最先端をいく街なのだ、しっかり瞼に焼き付けておこう、という気持ちもあった。
タコスを買いカフェテラスの野外ベンチに座って乾燥して涼やかな空の下、スケボ−の少年達が見せる技の多彩さに日がな見入ってしまった。カフェつき古本屋によく出入りしてジャンク雑誌を眺めたり、家具屋で売り物と知らずに腰掛けてボックス弁当を開いておこられたり、ウエイトレスにドレッシングの種類が知りたくてホウァットと聞いたら、なぜかロット(たくさんの意味)に聞こえてドサ−と追加されたりもした。
なぜか韓国の人に頻繁に時間を尋ねられたり道を訪ねられたりするので、私は韓国人に見える、というまぎれもない真実をつきつけられた。
バ−クレーには、どれほどの若者のエナジ−が充満した時代があったのだろうか。それは大浪のようにやってきた。映画「イチゴ白書」(舞台はサンフランシスコ大学)、ヒッピ−文化発祥やベトナム反戦運動も中心地としても世に知られた。
私がいた時代に小波がおしよせていた、ストリ−ト・パ−フォ−マンス、特に黒人のブレイク・ダンスが街中にあふれていた。

こういうアメリカ体験も少しばかり印象的出来事からはじまった。サンフランシスコに向かう飛行機で一人の学生が隣にすわった。私は一言も彼に話かけることもなく飛行機をおりたのだが、翌日バ−クレーの安ホテルで再び遭遇した。互いに出会いがしらに何かにぶつかったかのように「アッ!」と声をかけ、話が溢れ出した。
彼の話を聞いてまたまた驚いた。田園調布のセレブの息子で、多くのセレブッ子がドラッグに汚染されているらしく、彼の友人が逮捕され自分の身も危なくなったので、しばしアメリカの地に身を潜めるということであった。こわ!
そういえば彼は、最近大麻事件で有名になったラグビ−の名門大学出身ということであった。
すばらしく話題が豊富で育ちのよさと頭のよさをうかがい知ることができた。彼はアメリカでドラッグの道を究めるといっていた。こわ!その後彼と会うことはなかったが、あれからどうなったのだろう。
アメリカで最初話しかけられた言葉は、ア− ユ− ハッピイ? サンフランシスコ空港の税関の女性が、私が不安げな様子だったのか、そう聞いてきたのだ。その時、わたしは「イエス イエス」と頷くという情けない受け答えをしてしまったが、せめて「アイム ジャスト ファイン」ぐらいは言いたかったものだ。
ス−ツケ−スをころがしながら空港の前にたつと黒人が車に乗れ送ってやるからという。横に奥さんが赤ん坊を抱いている。サンフランシスコの知り合いがいるロンバ−トストリ−トで降りると10ドル要求された。(後で分かったが通常タクシ−の3倍から4倍の値段であった)。こわ!
そういうことだったのか、見知らぬ旅客にアメリカ人がそれほど好意的であるはずもない、妻が赤ん坊を抱いていたのも旅客に安心感を与えるための演出であったのか、アメリカ入国したての最初のレッスンとなった。
学生の街バ−クレーはサンフランシスコから地下鉄バ−トにのって40分ほどでつく。そしてバ−クレーの先述の安ホテルに滞在したが、本当に壁に血のりがついた不気味なホテルだった。こわ!
隣の部屋にカギを亡くしたといって私に話しかけたのは、某国立大学の助教授。一緒に中華レストランで夕食をとることになったが、ノ-ベル賞の福井教授の化学式がいかに美しいかという話をされ、その助教授がたまたま出した実験結果がUCバ−クレ−の教授の理論を支持する結果となり、大学に招かれたのだという。
にもかかわらず、酒がすすむと急降下、自分がいかに学問の世界の落ちこぼれであるかをとても説得力ある論拠をもって力説された。私も心底その説に同意することができた。
学生あがりの私がごときに、いくらでも自慢ができるのに、変わった学者もいたもんだ。
カリフォルニアで一番優秀な学生達が集まるこの街で、彼らの能力の高さは随所で見かけることになった。
カフェで一人延々よどみなく数式を書いていく学生や、バスの中で乗客に政治論を展開する学生、本屋で突然嵐のような議論をはじめ、喧嘩かと思ったら、議論できたことを喜び合い握手で分かれる男女などなど、である。

安ホテルに滞在しながら1週間後にどうやらシェアハウスをみつけた。このシェアハウスはレストランを経営しているインド人がオーナ−であった。アメリカ人・フランス人・日本人3人の計5人で大きな家の部屋を分け合って暮らすのである。共同生活なのではあるが、特別な時以外には皆で顔をあわせることはなく充分にプライバシ−は守られている。
バ−クレ−の町を歩いて一番印象に残ったことは道行く人の中に車椅子の人が実に多いことであった。アメリカななんと障害者が多いのだろう、ベトナム戦争のためかなどと思っていた。しかし自分の無知が分かったのは、帰国後テレビでバ−クレ−の町がバリアフリ−発祥地でもあることを知ってからだ。もうこの時代に、公共施設には緩やかなスロ−プがついていたことを思い出す。
すべてのバスには車椅子をもちあげる機械が備え付けてあり、障害者が乗り込む時には、運転手は機敏に運転台をはなれて必ず乗客4〜5人が自発的に車椅子を機械まで持ち上げるのを手伝う、ということを行う。
かといって障害者が杖をもってあまりに定まらぬ歩き方を見た時、日本人ならつい手助けをしたり誘導もしたくなるが、そういう時には助けたりはしない。その障害者の歩行能力の段階にまかせているのである。
というか、好意的な人間ばかりとは限らない社会で、へたに誘導なんかすることは相手にかえって不安を与える結果になるのかもしれない、と思った。
いずれにせよバ−クレ−で感心したのは、障害者の支援と自立が絶妙に按配されている、ということであった。
バ−クレ−のシンボルはカリフオルニア大学バークレー校のキャンパスと聳え立つ時計台である。バ−クレ−校は、ノ−ベル賞学者を30人以上も出した超名門大学であり、孫正義もこの大学を卒業している。
この街は学生街らしく映画館がいくつかあり、私はここの映画館のひとつで映画「卒業」をみたのだが、サンフランシスコとオ−クランドやバ−クレ−を結ぶベイブッリジや映画館の周辺が、この映画の中の風景として登場するため、館内のいたるところから口笛が鳴り止まない。
また別の映画上映で、高校生達が映画シ−ンと全く同じいでたちで、同時進行でステ−ジで生で劇を上演ずるなど、「ビバリ−ヒルズ青春白書」さながら青春を楽しんでいた。
その当時テレビドラマ「Shogun」が大ヒットして、日本のサムライに対する関心が高まっていたのか、意外なことに日本映画「赤穂浪士」なども見ることができた。この映画を見るアメリカ人の反応がとても興味深かったし、私の方は、カリフォルニアで見る「赤穂浪士」にとても感動してしまった。

週末はサンフランシスコのダウンタウンを歩いた。ビクトリア調の家並みと急勾配の坂、海に浮かぶアルカトラズ島、ケーブルカーに飛び乗る人々の姿など、この街には絵になる風景がいくもある。夕闇迫る頃、ユニオン・スクエアあたりで聞くジャズの音色はビルの狭間という音響効果のせいか五臓六腑にしみわたる。
アメリカにきてこんなにジャズが好きになるとは思わなかった。
私がこの街で一番「アメリカ」を感じたのがエンバカデロセンター内のハイアット・リージェンシー・ホテルの吹き抜けのビルディングであった。たまたま迷いこんたビルのレストランから見上げた時の壮観さに感動した。 後にこの建物が映画「タワーリング・インフェルノ」の撮影に使用されたと聞いて映画に登場した宙吊りになった総ガラスばりのエレベーターのシーンを思い浮かべた。
ところでエンバカデロは、サンフランシスコ名物のケーブル・カーの終点となっている。運転手が回転台で一人車体を方向転換させる姿はどこかアメリカの開拓者を思い起こさせる。
そしてフィッシャーマンズ・ワーフの漁師達の腕に彫られた碇のタトゥーが脳裏をかすめた。そうだ開拓者達は黄金卿をもとめてのこの地を訪れそして西部劇よろしく殺戮をおこないこの美しい町を築いたのだ。
サンフランシスコを黄金と鯨を求めてやってきた人々の町とよぶにはこの町の風情は、あまりに多くの詩情を湛えているように思えた。
突然のように半島を襲うすべてを隠匿するような霧の濃さ、そしてゴ−ルデン・ゲ−ト・ブリッジの霧に突き出た赤を背景にヨットが風を切る姿の美しさは、世界のどこにも見られない風景だろう。