作詞家の故郷


1950年代ごろの結核患者の生活条件は、受刑者のそれとどこかと似ていないか、そんなことを朝日訴訟について知るうちに思った。
病人と受刑者を同列に扱うなと叱られるかもしれないが、あくまでも生活条件としては以下のような共通点がある、と思う。
第一に最悪のレッテル、第二に一般生活からの隔離、第三に劣悪な生活環境、またそうした問題に対する戦う術がない、つまるところ、「人間として扱われていない」、ということである。
ここまで書いて、精神病棟を描いたアメリカの衝撃映画「カッコ−の巣の上で」を思い出した。病院側にいいように支配され本物の「非人間」に貶められていく、きわめて「人間的」な精神病患者の姿を描いた映画で、現代の管理社会を痛烈に批判した映画であった。
朝日訴訟は1957年、結核患者である朝日茂氏が、当時の生活保護基準が憲法25条に反すると訴えた日本裁判史に残る注目の裁判であった。
まずは、国を相手に裁判をおこすという発想自体が珍しいことであった。そして、ほとんど身寄りもない病床にある老人が国を相手に裁判をおこしたこと自体一つの事件でもある。訴訟内容は、当時の月々の生活保護支給額では憲法25条の「健康で文化的な生活を営む」ことができない、というものである。
月額600円の支給額は、肌着2年に一着、パンツ1年に1枚、足袋は1年に一足、ちり紙は1日に1枚半といった生活を想定して支給された金額なのだ。
朝日茂氏はぎりぎりの病院生活の中、ようやく所在が分かった兄からの仕送りを喜んでいたところ、その余裕分はすべて病院代にまわすよう命じられ、あいかわらず月額600円で暮らせと、裁定されたことに怒りが爆発したのである。
しかしよく考えてみれば結核病棟が劣悪な条件であったにせよ、その頃「健康で文化的な生活」をしていた日本人がいったいどれほどいたであろうかと考えてみれば、朝日茂氏の訴えは、日本国民全体の問いかけであったといえないか。
この裁判に日本全国の注目が集まらないはずがない。なぜなら裁判に勝てば多くの人々の生活実態が改善の方向に向かう可能性があるからだ。(ここでは最高裁判所の判決内容の話はしません)
つまり朝日氏の訴えは、憲法25条の条文はどんな意義があるのか、ただの「絵に描いた餅」にすぎないのかと、という問いかけでもあった。
ただ調べるうちに、病身の患者が一人裁判を起こしたという従来より私が抱いていた朝日訴訟のイメ−ジは、訂正せざるをえなかった。そこには患者組合の連帯というものが背景にあったのだ。
私が誤解していたように、朝日茂氏は当初一人立ち上がり孤軍奮闘したのではなく、実は患者組合の連帯さらには共産党の細胞(支部)の支えが背景としてあったということを知ったのである。
朝日茂氏が入院していた国立岡山療養所では、反戦主義者の名の下に警察に検挙された経歴の持ち主を中心として患者組合がつくられていたのである。 それは病院側につぎのような要求をだしている。

事務長は責任をとって辞職せよ。患者の人権を無視した官僚独善のの運営を改め、民主的に運営せよ。患者配給物資の抜き取りや横流しをやめよ。

病人はいずれ退院するものだし、患者組合の組織化ということを意外に思ったが、考えてみれば結核は当時としては不治の病であり、病院サイドにいいように扱われる可能性がある弱者なのだ。病院内で患者による組合の組織化はむしろ必然というべきものであろう。
ついでにいうと、死亡により訴えの利益が失われ裁判が途絶しないように、朝日茂氏の死亡後、支援者の一人が朝日氏茂氏の養子となって最高裁へと続く訴訟が継続されたという事実も銘記してしかるべきであろう。

一般的にいって、結核患者がたった一人で何らかの形で自分達の要求を病院側に訴えるということは、大変な勇気がいる行為であり、社会的弱者として、多くはなき寝入りというのが実情ではなかったか、と思う。
受刑者もやはり一人では刑務所側と戦うすべもない弱者なのだ。処遇はすべて密室化しており、まさか囚人組合を組織化するわけにはいかないであろうし、結核患者以上に弱者といえないか。一人の受刑者が刑務所サイドと戦う道は、「脱獄」というストライキを行う以外にないのではないか。
1930年代後半から40年代、一人の受刑者が、生死さえも問題とされていないような生活環境の刑務所に反抗するかのように何度も脱獄をはかっている。
吉村昭は「破獄」という実話を基にした小説には、白鳥由栄(「破獄」では佐久間清太郎)という超人的な「脱獄囚」について描かれている。戦中の日本の食糧事情の悪化は刑務所にも影響し、人不足は看守の質の低下を招いた。冬期の厳しい寒さは凍傷によって体調を崩した囚人が大勢おり、時として非人道的な扱いを受けていた。
そして白鳥は1936年から11年間に4度の脱獄を実行したのである。緻密な頭脳と超人的な体力を併せ持ち、その脱獄の手口は大胆且つ繊細である。3度めに収容された網走刑務所は、建物の造りも堅牢だったが過去に一度も脱獄の例がなかったが、白鳥はその脱獄にも成功した。
脱獄に必要な体力は日々涵養に励んだ。風呂の熱ででふやけ手に、錠をおしつけて型をとるなどして手錠の合い鍵を作るのはお手のもの。また刑務所側に挑戦するかのように、はずした手錠をきちんと廊下に並べ看守達を驚愕せしめた。床下からトンネルを掘ったりもした。なんといっても脱獄法の圧巻は、味噌汁を毎日手錠に吹きかけ腐らせていった点、そして貧乏ゆすりのふりをして膝に挟んだ食器の破片で毎日床板を切り取った点などであった。
しかも、この白鳥、刑務所脱獄後、逮捕収監される度にベ−ブル−スの「ホ-ムラン」予告のごとく「脱獄宣言」を行い、そして脱獄を実行した。小説「破獄」には、その辺のところが次のように描かれている。

白鳥は布団をか頭からかぶって寝るのを常としていたが、看守が規則を守らぬ白鳥に苛立ち頭を出すように注意すると、子供の頃からの癖だから大見に見てくださいという。さらに看守が声を荒げて規則厳守を要求すると、「そんな非人情なあつかいをしていいんですか。痛い目にあいますよ。あんたの当直日に逃げられると困るんじゃないですか」という。そのうち看守が根負けするのである。

白鳥という男に、人権意識といったものがあったのかどうか知らないが、とにかく自分を人間として扱わない刑務所に対して「脱獄」という形でストライキしているのである。
しかし脱獄はしても、逃げおおせるというのは白鳥といえどもなかなか難しかった。網走刑務所脱獄後は、熊に喰われたのではないか、という噂もたった。身を隠しても食糧はなかなか手が入らないし、三食保障つきの刑務所の方がその点では楽であった。
秋田刑務所脱獄後は、2週間ぐらいして知り合いの東京の小菅刑務所の戒護主任のもとに自首してきている。検事が、なぜ戒護主任のもとに自首してきたのかと問うと、白鳥は「主任さんは、私を人間扱いしてくれましたから」と答えている。
さらに秋田刑務所破獄の動機については、看守は横暴で囚人を人間扱いしないので、処遇の改善を司法省に訴えるため破獄し、上京したという。最も酷いあつかいをする看守を窮地におとしいれようとして、その看守の当直の夜を選んで破獄したのだ、とも言った。
4度の脱獄を成功させた白鳥を、戦後、近代的な刑務所設備を備えた府中刑務所が迎え入れた。この白鳥の受け入れについて刑務所は超厳戒態勢であたったといってよい。また脱獄でもされたら、刑務官の昇進やその家族の生活にまでひびいてくるのである。施設の特別強化もはかられていったが、人間とは思えない白鳥の能力を前にして脱獄の不安は消えず、当時の府中刑務所・所長は大英断をくだした。
厳戒態勢を敷くのをやめて、白鳥に対してきわめて人間的な扱い方をほどこしたのである。一般の囚人の中にいれ作業も一緒にさせた。機会としてははるかに脱獄の可能性が増したにもかかわらず、待遇改善後の白鳥は脱獄の兆しすらみせなかったのである。
白鳥は1961年52歳で仮出獄し刑期満了後、1979年、71歳で亡くなっている。
内部から湧き出る反抗のエネルギ−の凄まじさを感じさせる白鳥のことであるから、その方向性が違った方向にむいていたらどんな成功者になっていただろうかなどと考えようとしたが、やめた。
なぜなら、ハ−ドルの高い脱獄にはこの男を刺激するえもいわれぬ魅力が潜んでいたかもしれないし、白鳥は「破獄」に最も情熱をたぎらせる男だったのかも知れない、とも思った。
いずれにせよ、網走刑務所のあまりに重甚な記憶の中で、白鳥由栄の存在こそは最もアンタッチャブルな記憶であることに間違いない。

国立岡山療養所(現・南岡山病院)の傍らには朝日茂氏の戦いを記念して「人間裁判」の石碑が立ち、網走刑務所は今や「博物館」となっている。
いかなる立場に陥った人間でも、「人間として扱え」という訴えの碑でもある。