海老名弾正と熊本バンド


今から数年前、私はバスに乗って中央高速道を走り松本にむかっていた。いまだバスが東京都内を走っていた夕暮れ時、ピ−ンと背筋を伸ばした私の心を占めていた思いはただひとつ、果たして松任谷由美の歌「中央フリ−ウエイ」どおりの風景が本当に展開するかという、とってもオトメチックな思いであった。
気になる歌詞の部分は次のようになっている。
「中央フリ−ウエイ 右に見える競馬場 左はビ−ル工場 この道はまるで滑走路 夜空に続く」
そして期待どおりの風景展開にトキメキを抱きつつも、飛び込んできた調布競馬場(東京競馬場)に掲げられた「有馬記念」というオヤジ臭のする文字が気になった。
競馬の中継で頻繁に聞く「有馬記念」とは、一体何を、あるいは誰を、記念するものなのか、ということである。家に帰って調べたところ、「有馬記念」が私の生まれ故郷・久留米市と関係のあるものであることを知り、マジッスカ、と独り言もついタメグチ調(T調言葉)になってしまった。
久留米藩十二代・頼万(よりつむ)の子・有馬頼寧(よりやす)は、農民運動や水平社運動に理解を示した融和運動家として知られ、戦後は中央競馬会の理事を務めた。競馬の有馬記念は有馬頼寧の功績を記念してできたものである、ということを知った。

旧筑後国久留米藩主有馬家当主で伯爵有馬頼万の長男として東京に生まれた。東京帝国大学農科(現農学部)を卒業後、農商務省に入省して農政に携わり、東京帝国大学農科講師、助教授となり母校で教鞭をとった。
1924年に立憲政友会から衆議院に出馬して当選し、1937年に第1次近衛内閣の農林大臣となった。日中戦争が拡大する中で近衛の側近として大政翼賛会の設立に関わり、1940年に翼賛会初代事務局長に就任するが、翌年の翼賛会の改組により辞任、これを機に公職を退いた。
第二次世界大戦(大東亜戦争)の終戦後、GHQよりA級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに拘置されるが無罪と認められ釈放、その後は引退生活を送った。
実は、有馬の農林大臣時代の秘書であったのが有力政治家となる河野一郎である。有馬は河野をとてもかわいがり、河野は農林大臣になったときに恩返しに、有馬を中央競馬会の理事長に推薦したのであった。そして有馬は1955年に農林省に招請され、日本中央競馬会第二代理事長に就任したのである。
有馬は様々な社会活動に理解を示したばかりではなく、スポーツに対する造詣が深かったことでも有名で、職業野球球団「東京セネターズ」のオーナーを務めた。実はその出身者が後に、現・北海道日本ハムファイターズの前身の創設に関わることになる。
後に有馬は、日本野球連盟、日本野球報国会等の相談役を歴任し、1969年には野球殿堂入りした。
また日本中央競馬会史上、もっともファンサービス拡充に努めた理事長として知られている。日本短波放送によるレースの実況放送や、競馬場に家族連れでこられるように、花壇や公園や託児所をつくったり、観覧席も随分きれいにした。
1956年にプロ野球のオールスターゲームを真似て人気投票で出走馬を選ぶ中央競馬のオールスター戦を発案し、競走名を「中山グランプリ」としした。
なお、中山グランプリは第1回を盛況に開催したものの、それから程なく1957年に有馬頼寧が急性肺炎にて逝去したため、第2回からは、交流の深かった河野一郎により、彼の功績を称え「有馬記念」と改称されるに至ったのである。

ところで有馬頼寧の三男として1918年東京市赤坂区青山に生まれたのが、推理作家の有馬頼義(よりちか)である。
有馬頼義は、一時期社会派推理作家として松本清張と並び称された時期があった。
頼寧は野球と小説に熱中し、成蹊高等学校 (旧制)時代を中退する。早稲田第一高等学院在学中に、1937年に短篇集「崩壊」を上梓し、その原稿料を受け取ったことが問題とされて放校処分を受ける。
1940年、兵役に就いて満洲に渡り、3年間の軍隊生活を経て帰国後、同盟通信社社会部記者となる。敗戦後、農相だった父、有馬頼寧が戦犯容疑者として拘禁され、財産差押えを受け貧窮生活に転落し、カストリ雑誌の常連執筆者となる。
1954年には、「終身未決囚」により第31回直木賞受賞し、1959年には、「四万人の目撃者」で日本探偵作家クラブ賞受賞している。
1970年には、「早稲田文学」編集長に就任。1972年5月、川端康成の死に誘発されてガス自殺未遂を起こし、以後筆を断つ。一旦死地に足を踏み入れた精神の回復は難しく以後の8年間は家族からもペンからも遠ざかり、1980年、脳溢血で死去した。
なお有馬頼義に師事し作家となったのが早稲田出身の立松和平である。

なお競馬の世界などには全く縁遠い私ですが、白川道(しらかわとおる)の小説「天国への階段」で、北海道で競馬用の馬を育てる場面や、北海道の草原と競馬のトラックの間に介在する様々な人間模様などに、何か未知の小宇宙と出会ったような新鮮さをおぼえた。
小宇宙とはいっても現実はそう美しものではなく馬主、馬喰(ばくろう)、調教師などを含むそれは、人間の慾や利権や金をめぐる思惑がまとわりついているはずだ。
テレビ化もされたこの話は、牧場を騙し取られ父親を自殺に追い込まれ、最愛の女性を失った男・柏木圭一が、その復讐の為に実業家となり、26年をかけて資産家に復讐を仕掛ける、というものであった。
なお作家の白川道は北京生まれで、投資ジャーナルや豊田商事などとも関わり、インサイダー取引やマネーロンダリング等の違法行為で逮捕、実刑判決を受けた経歴もある。
ところで白川氏はかなりの競輪、マ−ジャン好きはよく知られ、博打うちの心理を描いた「病葉(わくらば)ながれて」が最近、映画化されている。
白川氏は、世間一般の価値基準からすれば、随分とカブイタ人生(注:カブクとは傾くの意味で「歌舞伎」の語源)を歩んでいるかのように思えるのですが、「天国への階段」の主人公に見るとおり、一人の女性への一途な思いは雲を貫く光線のように一貫している。
家政婦は見た、カブキ作家のピュアな一面。