海老名弾正と熊本バンド


アメリカの最近の人気テレビ・ドラマ「ディスパレ−トな妻達」は「崖っぷちの妻達」と訳すそうである。ここでいう「ディアスポラな人達」は、離らされた人々またはその子孫に生まれた人達の話である。

離散した人々と思い起こすのはユダヤ人だが、戦後イスラエルを建国しドイツ政府により多額の賠償金をうけた。ナチスにより600万人のユダヤ人が虐殺された時、同時に50万人のジプシィ−が殺戮されたことはあまり知られていない。そして国をもたないジプシ−に対しては何の賠償も支払われなかった。
ジプシ−に関する資料はあまり多くはない。彼らが話すロマ語には文字がなく、文字としての資料が蓄積されていないからである。彼ら自身はエジプトの太陽の王、ファラオの末裔と名乗り、英語のGypsyはEgyptianからきているそうだ。しかし最近では、ロマ語の言語学的特徴などからインド北西部がその故郷であることが定説となっている。
ヨ-ロッパが戦乱の中世時代に、彼らの持つ鉄砲鍛冶の技術がもてはやされた。しかし、 各国の王の支配が強くなるにつれて、定住せずに放浪するジプシ−たちはなんとも目障りな存在になってくる。
放浪は重罪となり、各国でジプシ−は追放・迫害される身となり、つかまったジプシ−達は、ガレ−船の漕ぎ手や鉱山の坑夫、あるいはアメリカ大陸におくられて終わりのない奴隷生活を強いられることになった。
スペインでは16世紀から18世紀まで、放浪のジプシ−は容赦なく処刑するといった厳しい布令が繰り返され、その結果、ジプシィ−たちは放浪の自由さえも失ってしまった。
フラメンコのあのおさえつけられたような情熱は、自由へのあえぎを結晶させたのではないか。
ジプシィ−翼をもがれ貧しさの中にいながらも、奔放でありおそろしく気位が高い。
ジプシ−はながく雲が流れるように漂白する。彼らはなぜさすらうのか、定住のための家など欲しくはなく、欲しいのはただ自由だけである、という。

ジプシ−のように漂白の民といわれるものを今日の日本で探すことは困難である。ただ大きな戦乱に破れ離散し一時的にそういう生き方を強いられた人々については、いくつか思い起こすことができる。
つまりプチ・ディアスポラな人々のことである。
九州北部には、壇ノ浦の戦いで敗れた平家の落人伝説が多く残っている。なかでも、関門海峡近くの赤間神宮に残る琵琶法師・「耳なし芳一」の話などが最も有名である。耳なし芳一は琵琶の名手で、平家の亡霊により演奏のために呼び出され、気づいた時には平家の墓の中で演奏をしていた。
身の安全のために体中にお経を書いていたが、お経を書き忘れていた耳のみを亡霊に奪われてしまう、という話だったような気がする。
近代においては、戊辰戦争において最後まで幕府と共に戦った会津の人々の運命も、単なる離散というばかりでなく賊軍の汚名を着てしまったがゆえに多くの差別や悲嘆と戦わざるを得なかった、という点ではユダヤ人のディアスポラに幾分近似するものがある、と思う。
会津の人々の離散の経路の幾つかをたどってみると、戊辰戦争後、現在の青森県・斗南という不毛の地に移されそこで開拓に従事させられた。生命をうけつけないような大地で、会津人にとっては塗炭の苦しみが待っていたことには間違いない。
また会津藩に武器を売りにきていた外国人に連れられ、アメリカ・カリフォルニアのゴ−ルドラッシュでわいた地につれて行かれ「若松コロニ−」といわれる日本で最初の移民団として住んだ。非公式の移民であったためにその存在さえも知る者はなく、たまたま日系人ジャ−ナリストにより会津出身の少女「おけいの墓」が発見され、若松コロニ−の存在が明らかにされた。
会津若松城は焼け、かつての藩丁は会津若松から福島に移されたが、藩から秩父山中に流れていき、困民党などの反政府・自由民権運動に加わっていったものもいた。また五日市憲法の制定をした歓農社の人々のなかには仙台藩士も含め会津人も少なからずいた。
官界にはいるものもいたが、当然に出世は見込めなかった。会津藩士の多くは、警視庁に入ったが上層は、薩摩藩士がしめていた。
時代が下ると、第一次世界大戦中に中国青島で捕縛したドイツ人を収容した徳島の坂東収容所の松江豊寿所長なども会津出身である。この松江所長の人道的配慮の下、坂東収容所でベ−ト−ベンの「第九」が日本で始めてドイツ人によって演奏された。

また、会津落城の悲運を体験した会津人の中から時代と戦うべき新しい信仰者が数多く出現した。
藩を奪われ理想を失った藩士の中には、キリスト教に改宗するものが多く、学問や教育の世界で名をなしたものが多くいたのが会津プチ・ディアスポラの大きな特徴に思われる。
デフォレストという会津伝道に忘れてはならない宣教師がいたし、 同志社の山本覚馬、明治学院の井深梶之助、津田英学塾を援助した山川捨松、フェリス女学校の若松賎子、東北学院の梶原長八郎、関東学院の坂田祐がそれにあたる。
明治の女子教育に生きた若松賎子の場合、彼女が翻訳した「小公子」が日本で知られていったが、特に彼女の人生と重なり合って興味深かった。
若松賎子は戦後、父は行方不明(後に帰る)、母は病死して妹とともに戦争孤児となtった時に、横浜の商人に養女にもらわれていった。そこから通学したミス・ギルダ−の学校が、後にフェリス女学院となり、彼女はその第一回卒業生になるのだが、彼女の出発点は戦争孤児ということであった。
もともと会津は松平容保はじめ学問が盛んなちである。彼らが学問や技術の世界で非常に高名になっているものが数多くいた。白虎隊士から東大総長となった山川健次郎などがその代表であろう。世間を賑わせた「千里眼事件」で千里眼に疑義を唱えたあの物理学者である。
会津若松城の籠城戦を経験し、会津藩だけでなく敵方の薩摩および長州の藩士の期待を一身に集め、朝敵(新政府軍)から異例の出世を遂げた男の名は山川健次郎である。
山川健次郎の妹・咲子(捨松)は会津戦争の時8歳であったが、母や妹達と一緒に鶴ケ城に籠城した。 彼女はこの時のことを述懐している。
「不思議なことに将来私の夫となる人が敵軍の中にいて、大砲の弾丸を城中の味方の陣へ撃ってくる砲兵隊長の一人であろうとは、夢にもおもいませんでした。」
山川捨松は後に鹿鳴館の華とうたわれた大山巌元帥夫人である。

ところで、日本のフラメンコの第一人者の長峰やす子も会津出身である。
会津出身の長峰やす子が踊るのがジプシ−の踊りフラメンコ、そしてフラメンコの代表が「カルメン」である。 長峰やす子は3歳の頃からモダンバレエを学び、19歳の時、スペイン舞踊に進む。
1960年、在学中の青山学院を中退し、単身マドリッドに留学する。血みどろの修行を経て、スペイン随一といわれるタブラオ・コラル・デ・ラ・モレリアに日本人として初めて出演し、絶賛を浴びる。
実はこの長峰をスペイン舞踏に導いたきっかけは、絵本の中に真っ赤なドレスを着た人形で、真赤なドレスを着たいと夢見ながら育ち、高校でカルメンの話を聞き、偶然にフラメンコの音楽を聞いた。
踊るならば絶対にフラメンコと必死にフラメンコの先生を探し弟子入りした。
留学先のスペインではフラメンコの芸人に、自分達の世界に外人なんてとんでもないと、ギターを間違って弾くとか、フラメンコ手拍子を外したり、客から届いたバラの花を隠したりなどのイジメにもあった。
ちょうど秋吉敏子が黒人の音楽ジャズと日本の古典音楽を融合させたように、長峰もフラメンコと日本の古典芸能とを融合し 独自の創作舞踊の世界を築きあげてきた。
50人の僧侶による声明をバックに、人間の原罪と救済を追及した「曼陀羅」を上演し、ニューヨークで大反響を巻き起こした。
長峰にとってのこうした創作芸能の原点は戦争にある。もちろん戊辰戦争ではなく太平洋戦争が直接の体験である。6歳の時には、あちらこちらに兵舎があり傷痍軍人の慰問にいって踊りを踊ったりした。
長峰は祖母に育てられ、会津若松の冬は雪深く遊ぶものも一切無く、祖母より会津の昔話を聞いて育った。祖母の昔話の中には当然、戊辰戦争のなまなましい体験が含まれていた。
そしてお経というものの得体の知れない恐ろしさに魅せられ、お経をいつのまにか音楽としてとらえていたのである。スペインから帰国後しばらく、新宿のエル・フラメンコという店でジプシ−のダンサ−と共に踊ったが、 あるプロデユーサーから、もともとフラメンコは裸足で踊っていたのだから裸足で踊りなさいとアド バイスをうけた。
長峰は、カーネギーホールやNHKホールの舞台よりも、大地の上でお経で踊ることが最高であるという。その時自分が宇宙の一点となり、踊ることが「祈り」にも近くなっていく。

実は私がこのペ−ジを書こうと思ったのは、「会津女」と「ジプシ−の踊り」という結びつきにあった。
「離散したの人」が踊る「漂白民の踊り」という結びつきにハットしたからである。
その時一瞬脳裏をかすめたのは、会津若松に立ち昇る炎の燎原に舞うフラメンコでした。