海老名弾正と熊本バンド


2年ほど前に「エリザベス・タウン」というアメリカ映画をみた。「すべてを失った僕を、待っている場所があった」というサブ・タイトルであった。
新進気鋭のシュ−ズ・デザイナ−が、会社で大きな損失をだす失敗をして会社を首になり、恋人にも別れを告げられる。死を考えていたところ父の訃報が届く。
自分が生まれ育った自然豊かなケンタッキ−の山懐にあるエリザベスタウンに帰郷したところ、思わぬ人々の暖かさにふれる。帰省の途中で飛行機の中、フライトアテンダントの新たな恋人とも出会いもあり励まされる。失意の男が、心癒されていく奇跡の6日間を描いたという映画であった。
エリザベス・タウンの人々誰もがその男を癒そうなど思っていないし、励まそうとも思っていない自然さがある。つまり男は故郷の治癒力に身をゆだねたのだ。

日本の明治期、過剰人口にあった地方農村青年が東京に出て行くという新しい人々の移動が起きていた。地方からでて大志を抱いて東京にでたものの多くは夢破れたり、煩悶の中に過ごしていくものも多くいた。立身出世を夢見て東京に出て行った青年達は、故郷に帰ることを夢見る一方で、それは自分の敗北を受け入れることを意味し、そうおめおめと帰れるものではない。
明治時代に、福岡県(現)朝倉市出身で「帰省」という本を書いた人がいる。むしろ詩人としての名前の方が知られている宮崎湖処子である。
「帰省」は当時の大学生で読まぬものはいないといわれたベストセラ−となり、「帰省」の前に「帰省」なく、「帰省」の後に「帰省」なし、といわれたほどに賞賛された。
この作品は当時の上京し挫折した若者の気持ちを代弁していたからだ。
朝倉三奈木の富農に生まれた宮崎は東京専門学校(早稲田)の政治学科に入学する。
しかし東京は同じ野心をもつ地方青年らで溢れ、志の転換を余儀なくされて精神的経済的危機に陥った宮崎は、その救いを求めてしばらくの間、英語教師兼家庭教師として現在の千葉県流山市の豪農宅に身を寄せた。田舎の自然に慰められたり、住み込んだ家の暖かい人情に接したりして、都会生活に疲れた心から一時的に解放される体験をする。
 そこで宮崎は、エリザベス・タウンの青年と同じく、父の死去を知るのだがそれでも帰郷せず、父の一周忌に、兄の強い催促でようやく帰省した。帰省にあたって脳裏を掠めた不安は、政治家になることを夢みて上京した自分が、今の自分を人々に晒した時に、果たして家族をはじめ親戚知人はどのように迎えてくれるか、という不安であった。
 しかし、不安とは裏腹に人情と平和のすめる故郷があり、都会とは別世界の田園の理想像桃源郷の故郷が存在したのである。さらに幼馴染の女性の優しいもてなしをうけ、その女性が後の宮崎夫人ともなる。6年ぶりの帰郷は、湖処子の心に故郷礼讃を育くみ、その体験が「帰省」を書く契機となった。
1890年6月「帰省」として民友社より刊行され、故郷を賛美する田園文学の最高峰として絶賛をあびたのである。
宮崎の故郷に近い甘木公園内に立つ宮崎湖処子の詩碑は、現皇大后陛下が皇太子妃時代、湖処子の詩「おもひ子」に曲をつけられた「子守り歌」の記念碑である。

実は私がこの宮崎湖処子というそれまで聞いたこともない郷土出身の作家を知ったのは、アメリカの作家ワシントン・ア−ヴィングを調べていく過程で知ったのである。
ア−ヴィングは19世紀前半のアメリカ合衆国の作家で「スケッチブック」という本を書いている。
私個人の話ですが中学時代、英語の授業で先生が列ごとに難しくもない英語の質問をしていくのだが、反応のよくない私はいつも答えをハズシして教師に呆れられ、自分でも呆れすっかり英語嫌いになっておりました。
ところが高校1年の夏、宿題でア−ヴィングの「スケッチブック」を読んだのがきっかけで英語大好き高校生になったという経緯があります。言葉で即座に反応できなくても、ゆっくり英文を読むことはとても楽しいという体験をしたのです。
「スケッチブック」の中の短編「リップバン・ウインクル」をひと夏かかって英訳した。
リップバン・ウインクルという男が、山へ狩りに行き小人に会い酒をご馳走になり夢心地となり、どんな狩りでも許されるという素晴らしい夢を見た。ところがその夢がクライマックスに達した頃に、惜しいことに目が覚めてしまった。辺りを見回すと小人はおらず、森の様子も変わっていた。ウインクルは慌てて妻に会うために村へ戻ったが、妻はとっくの昔に死んで、村の様子も全然変わってしまっていた。
つまりウインクルが一眠りしてる間に何十年もの歳月が経っており、すべてが変わってしまっていたのだ。アメリカ版「浦島太郎物語」といってよい話であるが、ウインクルは故郷喪失者となったことになる。
ここまで書いて、寺山修司監督の映画「田園に死す」のワンシ−ンを思い出した。田舎の家屋で母子が向かい合って寂しく食事をしている。突然に壁や屋根がまるで舞台装置のように取り払われ、新宿歩行者天国のど真ん中で母子が食事をとっているというシ−ンへと大転換するのである。
印象的なシ−ンではあるが、寺山氏が故郷喪失を表現しようとしたのか、よくわからないでいた。
或る時、寺山氏の次のような文章にであった。「私は何でも捨てるのが好きである。少年時代には親を捨て、一人の出奔の汽車に乗ったし、長じては故郷を捨て、また一緒に暮らしていた女との生活をすてた。旅するとはいわば風景を捨てることだと思うことがある」
これは寺山が故郷・喪失者であるというよりもむしろ故郷・遺棄者であるということを示す。

実は宮崎湖処子は「日本情交之変遷」という評論のなかでア−ヴィングの以下のような涙の悲恋実話を紹介しているのである。

ア−ヴィングは恩師の遺児である踊り子を青年時代にあずかり、同じ屋根の下で生活するうちに、2人は愛しあうようになった。ア−ヴィング家は格式ばった家柄であり、妻が踊り子では困ると思い恋人に仕事をやめさせた。 ある日、踊り子の友人から連絡が入り、母親が急病で倒れたために、急遽代役の申し出があった。
舞台をやめた許婚が再び踊っている姿を発見された時、踊り子はア−ヴィングに責められ、弁解の言葉も残さずに家出する。ア−ビングは深まりゆく愛情と自責の念に苦しみながら許婚を探すが、行方不明のまま十年の歳月が流れていった。
ア−ビングはスペインに公使として赴任していた時に、腸チフスにかかって尼院から特志看護婦が訪れ、その献身的努力で九死に一生を得た。この女性こそ初恋の女性だった。彼女は名も告げずに立ち去り、ア−ビングは退院後、やっとその女性を探し出すと、彼女は看病中に腸チフスが感染し病床についていた。しかしア−ビングの看病もむなしく亡くなった。
ア−ビングはこの出来事以来、独身を守り続けたという。


多くの人々がこの悲恋の実話に涙を流した。ア−ヴィングの悲恋に感動した人は社会主義者の安部磯雄をはじめ、黒岩涙香は「人情美」という小説に翻訳し、徳富蘇峰は「断腸」を書き、永井荷風は「歓楽」という作品に利用した。

私の英語の恩人ア−ビングが自身の悲恋話を通じて、知られざる故郷の作家・宮崎湖処子に出会わせてくれた。ワシントン・ア−ヴィングに、もうひとつ恩をこうむったことになる。