漢奸とよばれて

1944年 3月3日天津より岐阜県各務原空港に一機の飛行機が降り立った。
この飛行機に搭乗していた重病の床にある人物は、孫文に愛され最もよくその精神をひきついでいたといわれている汪兆銘であった。汪兆銘は迎えの病人用の車に横たわって名古屋帝国大学付属病院に直行した。
日中戦争では日本との和平の道を探り続けたものの、戦争終結後は日本に与した「漢奸」(裏切り者)と呼ばれている人物である。


1912年1月1日、孫文は南京で臨時大総統に就任し同時に列国に向かって中華民国成立の宣言を発表した。この宣言の起草をした人物が当時29歳の汪兆銘であった。

汪兆銘は字を精衛といって、広東省番寓県の人である。
1903年汪兆銘は、清朝の国費留学生として日本の法政大学に入学した。
1905年に同郷の広東人である孫文が来日して中国同盟会が結成されると、汪はその機関紙「民報」の編集にあたり、1910年には幼帝・溥儀の父である摂政王暗殺を企て死刑を宣告されている。
辛亥革命の成功で釈放されてからは孫文の片腕として活躍し重用された。
しかしながら1925年の孫文の死後、頭角を現した若輩の蒋介石に首座を奪われた。
1932年満州事変の後、蒋介石の補佐として首相兼外相に就いたが、汪兆銘の対日平和政策は強い反対をうけた。
北伐戦争中に蒋介石が反共クーデターを起こして南京に国民党右派政権を建てた際には、汪兆銘は武漢左派政権の主席に就任し蒋介石の独裁政権に対して終始批判的立場をとった。
日中戦争がはじまった頃、汪兆銘は国民党副総裁に就任し、徹底抗戦を主張する蒋介石に対し日本との平和交渉の道を探った。
ただし汪兆銘には「一面抵抗、一面平和」という哲学があった。彼は平和交渉のバックには武力による抵抗が必要不可欠だと考え、蒋介石の抗戦を背景に日本との間で和平交渉を行なったのである。
戦局が激しくなり、南京国民政府は重慶に撤退するが、1938年末蒋介石との対立がもとで汪兆銘は重慶からハノイへ脱出し、その後日本の力を背景に蒋介石とは別に新たに南京政権をつくった。
 やがて日中戦争は第二次世界大戦へと拡大し欧米と組んで日本と戦いつづけていた蒋介石は戦勝国側にたち、日本との平和ルートをもとめた汪兆銘は敗戦国側という結果となった。
戦後、汪兆銘は戦争中に敗戦国・日本と手を組んだ裏切り者(漢奸)と呼ばれることになったのである。

汪兆銘の日本の日々


法政大学
汪兆銘は神田神保町の春水館という下宿屋に部屋を借りて、毎日法政大学に通った。
汪兆銘が大学で学んだものは憲法や国家学、法制、経済などの新しい学問であり、郷里の書院で学んだ孔孟の道とは別の世界があった。
そこへさらに民権思想が加わり、彼の世界観は急速に革命的な方向へと向かっていった。
留学の期限は切れたので故国へ帰って清朝の官吏となる義務があったが、もはや帰国の意志を失っていた。日曜日にはよく上野公園に出かけて西郷隆盛の像の下に佇み、飽くことなく仰ぎ見ていた。

清王朝の象徴である北京の紫禁城
孫文と黄興との握手で中国同盟会が結成された。中国同盟会は、牛込新小川町に発行所を置き、機関紙「民報」の発行に踏み切った。 この発行所に一人の女性が訪れた。ペナン島出身の華僑の娘で陳壁君という女性であった。父親が広東省出身で孫文の同郷というところから、孫文の運動を援助していた。中国が異民族である清朝に支配されていることを嘆き、政権を取り返すことを願うのは、南洋の華僑に多く、資金援助もその方面からが多かった。この発行所でであった陳壁君こそ後の汪兆銘夫人である。

名古屋大学医学部
汪兆銘は1935年11月1日、国民党六中全会の開会式で記念撮影をしようとしたとき、写真師に扮した刺客から3発の短銃弾を撃ち込まれた。二発は摘出されたが、両側下肢に運動麻痺がのこり、日本の神経外科の専門家である名古屋帝大の斎藤真教授の手術をうけることになった。 汪兆銘一行は、夫妻の他に子息夫妻、令嬢等3名、主治医、看護婦等3名、秘書、メイド、料理人など30人に及ぶ大集団だった。 一行は名古屋観光ホテルと、汪兆銘の病室に続く名大病院三階の数室に分宿した。

大幸医療センターの裏庭
名古屋帝大に運び込まれた患者が汪兆銘であることは、厳重に秘密とされ、関係者以外が三階に出入りすることも禁止された。 4時間の手術の間、簡素な中国服の汪夫人・陳壁君が、ただ一人、室の片隅に佇立していた。 その後病状は一進一退をくりかえし、1944年11月10日に死亡した。 汪家より名古屋大学医学部に梅の木が送られた。名古屋大学医学部の庭に植えてあった梅は、現在、名古屋ドームすぐ近くの名古屋大学付属大幸医療センターの裏庭に植えられている。

    汪兆銘は清廉高潔な人物として国民的な人気という点では蒋介石にまさっていた。
汪兆銘が重慶を脱出し新政権による「和平救国の宣言」を発した時、蒋介石以下にあるものの汪兆銘と気心の通じた各地の将軍達が馳せ参ずることを期待したが、新政権への見通しへの不安もあってか汪兆銘についていこうとするものはなかった。
また日本の敗戦色の強くなるにつれ蒋介石は汪兆銘から離れてゆき、蒋介石との合意の上での「一面抵抗、一面平和」という汪兆銘の哲学は遂に失敗に終わった。

日本の名古屋病院で病死した汪兆銘の遺体は飛行機で南京に搬送され梅花山に埋葬された。将来、墓があばかれて夫の遺体が傷つけられるのを案じた未亡人の陳璧君は、墓に五トンの鉄鋼粉をまぜたコンクリートを流し込み分厚いシェルを造らせた。
しかし抗日戦勝利のあと、国民党政府は汪の墓を爆破した。
1994年国父・孫文の中山陵園管理事務所は観光客に歴史上の事実をしらしめ、また愛国教育の一環とするために、墓のあった場所に汪兆銘の像を造った。像は北を向きはるかに中山陵に対しているが、周囲を柵でかこみ後ろ手にしばられた汪兆銘が跪いた形で座った石像である。
これをもって汪兆銘が孫中山(孫文)と国民革命を裏切り、国家および民族に罪を犯したことを表している。

ただ歴史は勝者によって書かれるというが、汪兆銘は漢奸という汚名を着せられながらも、誰よりも愛国者でありいちはやく戦争を終結させようとした人物であったことを銘記しておきたい。

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