漢奸とよばれてこの飛行機に搭乗していた重病の床にある人物は、孫文に愛され最もよくその精神をひきついでいたといわれている汪兆銘であった。汪兆銘は迎えの病人用の車に横たわって名古屋帝国大学付属病院に直行した。 日中戦争では日本との和平の道を探り続けたものの、戦争終結後は日本に与した「漢奸」(裏切り者)と呼ばれている人物である。 1912年1月1日、孫文は南京で臨時大総統に就任し同時に列国に向かって中華民国成立の宣言を発表した。この宣言の起草をした人物が当時29歳の汪兆銘であった。 汪兆銘は字を精衛といって、広東省番寓県の人である。 1903年汪兆銘は、清朝の国費留学生として日本の法政大学に入学した。 1905年に同郷の広東人である孫文が来日して中国同盟会が結成されると、汪はその機関紙「民報」の編集にあたり、1910年には幼帝・溥儀の父である摂政王暗殺を企て死刑を宣告されている。 辛亥革命の成功で釈放されてからは孫文の片腕として活躍し重用された。 しかしながら1925年の孫文の死後、頭角を現した若輩の蒋介石に首座を奪われた。 1932年満州事変の後、蒋介石の補佐として首相兼外相に就いたが、汪兆銘の対日平和政策は強い反対をうけた。 北伐戦争中に蒋介石が反共クーデターを起こして南京に国民党右派政権を建てた際には、汪兆銘は武漢左派政権の主席に就任し蒋介石の独裁政権に対して終始批判的立場をとった。 日中戦争がはじまった頃、汪兆銘は国民党副総裁に就任し、徹底抗戦を主張する蒋介石に対し日本との平和交渉の道を探った。 ただし汪兆銘には「一面抵抗、一面平和」という哲学があった。彼は平和交渉のバックには武力による抵抗が必要不可欠だと考え、蒋介石の抗戦を背景に日本との間で和平交渉を行なったのである。 戦局が激しくなり、南京国民政府は重慶に撤退するが、1938年末蒋介石との対立がもとで汪兆銘は重慶からハノイへ脱出し、その後日本の力を背景に蒋介石とは別に新たに南京政権をつくった。 やがて日中戦争は第二次世界大戦へと拡大し欧米と組んで日本と戦いつづけていた蒋介石は戦勝国側にたち、日本との平和ルートをもとめた汪兆銘は敗戦国側という結果となった。 戦後、汪兆銘は戦争中に敗戦国・日本と手を組んだ裏切り者(漢奸)と呼ばれることになったのである。 汪兆銘の日本の日々
汪兆銘は清廉高潔な人物として国民的な人気という点では蒋介石にまさっていた。 汪兆銘が重慶を脱出し新政権による「和平救国の宣言」を発した時、蒋介石以下にあるものの汪兆銘と気心の通じた各地の将軍達が馳せ参ずることを期待したが、新政権への見通しへの不安もあってか汪兆銘についていこうとするものはなかった。 また日本の敗戦色の強くなるにつれ蒋介石は汪兆銘から離れてゆき、蒋介石との合意の上での「一面抵抗、一面平和」という汪兆銘の哲学は遂に失敗に終わった。 日本の名古屋病院で病死した汪兆銘の遺体は飛行機で南京に搬送され梅花山に埋葬された。将来、墓があばかれて夫の遺体が傷つけられるのを案じた未亡人の陳璧君は、墓に五トンの鉄鋼粉をまぜたコンクリートを流し込み分厚いシェルを造らせた。 しかし抗日戦勝利のあと、国民党政府は汪の墓を爆破した。 1994年国父・孫文の中山陵園管理事務所は観光客に歴史上の事実をしらしめ、また愛国教育の一環とするために、墓のあった場所に汪兆銘の像を造った。像は北を向きはるかに中山陵に対しているが、周囲を柵でかこみ後ろ手にしばられた汪兆銘が跪いた形で座った石像である。 これをもって汪兆銘が孫中山(孫文)と国民革命を裏切り、国家および民族に罪を犯したことを表している。 ただ歴史は勝者によって書かれるというが、汪兆銘は漢奸という汚名を着せられながらも、誰よりも愛国者でありいちはやく戦争を終結させようとした人物であったことを銘記しておきたい。 E-mail to Yoshimura Naohiro. |