失敗の英雄・孫文


中国革命の父といわれる孫文は、1866年、広東省香山県翠享村の貧しい農家に生まれた。
14歳のとき、母に連れられ、ハワイで成功をおさめていた長兄の招きで渡航し学校にはいるが、キリスト教徒となったために長兄の怒りを買い、郷里にもどって農業に従事する。
しかし彼の才能を惜しむ郷里の人々の助力で、広東と香港の医学校に学ぶ。 1892年孫文は香港の医学校を首席で卒業し、澳門・広州で医院を開き医師としての名声をえる。
孫文は日清戦争勃発により清朝政権のもとでの改革に望みを断ち、兄のいるハワイにわたり1894年1月ハワイで革命結社・興中会を組織し、広東で挙兵した。
しかし武装蜂起計画が事前にもれて失敗し、孫文の首に懸賞金がつけられ清朝から追いまわされる 反逆者となった。孫文は1895年11月日本に密航して難をのがれた。 横浜で孫文は辮髪を切り、清朝に対する絶縁の意を公然と示した。
出発の際、孫文は陳少白を日本に残して日本での興中会活動にあたらせた。

この陳少白が後に、宮崎滔天、平山周ら日本人志士を孫文に引き合わせることになる。
その後ハワイ経由でイギリスにわたり、約10ヶ月ロンドンに滞在し、毎日のように大英博物館の図書室に通って革命理論を学ぶ。
イギリスで清朝の官吏におわれた孫文は、再び来日し陳少白の家に身を置いた後、中国革命同盟会を組織する。中国革命同盟会は東京に本部を置き、国内に5つの支部、海外に4つの支部、各省ごとに分会をもうけ、活発な革命活動を展開した。
その後恵州で二度目の挙兵を行うがこの挙兵も失敗した。 しかし孫文は失敗のたびにごとに本来の面目を発揮し、いかなる暗黒の中にも曙光を見出す生まれながらの革命家であった。
当時から孫文は「成功の英雄ではなく、失敗の英雄だ」と人々から評されていた。 孫文は失敗のたびごとに立ち上がりついで同盟会組織の再編と革命資金の調達のために欧米を遊説して回り「三民主義」を唱えた。


孫文ゆかりの地

東京神楽坂

約一万人の中国人留学生の中には、黄興を指導者と仰ぐ湖南省出身者と孫文を中心とする広東人のグループが大きな勢力をもっていた。
孫文は宮崎滔天の勧めで神楽坂の中華料理店鳳楽園で黄興と会うことになった。そして黄興の呼びかけで留学生が飯田河岸の富士見楼に集まり、孫文歓迎会が開かれた。
孫文の来日で、中国人留学生の中に革命気運が一気に高まり、中国同盟会が結成される。
そしてこうしたニュースは欧米各地の中国人留学生に広がった。
梅田庄吉邸あたり
 
中国革命の父・孫文は、日本では頭山満や犬養毅などのほか東京で映画事業(日活)を興していた梅田庄吉らの政治的支援を受けていた。孫文と宋家三姉妹の次女・宋慶齢は、梅屋庄吉邸(新宿区百人町2−23)で結婚式をあげた。現在この跡地は現在、スポーツ会館や学生の家及びJR大久保寮となっている。
 梅田庄吉は1868年、長崎の貿易商の跡継として誕生し若年より東南アジア各国に雄飛し、1895年、香港で孫文と邂逅して義兄弟の盟約を結び、辛亥革命を支援した。 また革命の志士達に憩いの場を提供すべく別荘を購入したりした。
移情館
 
孫文は1924年は神戸のかつての旧商工会議所で「大アジア主義」と題して講演をおこなっている。 その中でアジアの全民族が連合して全アジアの民族独立運動に従事すべきこと、また日本と中国がこの運動の原動力たるべきことを主張した。
その神戸に孫文記念館ができた。明石大橋のたもとJRの舞子駅から徒歩20分です。

清朝に対する武装反乱は中国国内で燎原の火のように広がっていき、清朝政府はしだいに無力化していった。 そこで清王朝は、摂政王に憎まれ郷里の河南に隠棲していた政界の巨頭袁世凱に出馬を求めた。
袁世凱は保守派の政治家としてはじめ皇帝支持の立場を明らかにし、革命軍討伐の旗印をかかげた。
しかし袁世凱は清王朝を裏切り孫文と提携し、革命軍は17省の新政権の代表者を集めて1912年元旦、孫文を臨時大総統とする中華民国が南京で成立した。
しかし中華民国の成立は、そのまま中国における民主共和国の創設を意味するものではなかった。  わずか3ヵ月後には、早くも清朝を手玉にとり孫文ら革命派をまるめこんだ軍閥の巨頭・袁世凱が孫文にかわり、臨時大総統の職についた。  革命軍共和派は一時的に優勢を誇っているがもともと軍事的に訓練されていなければ組織化もされておらず、北洋軍閥の巨頭・袁世凱の軍隊を相手にすればひとたまりもなかったからである。
 ただし交換条件として、首都を南京におき、袁世凱を常駐させて、参議院で彼が民主主義から逸脱しないように監視した。
 しかし袁世凱は、国会を解散させ国民党所属の議員から資格を剥奪するなど、帝政への準備を着々と進めていった。
孫文はここでも袁世凱に裏切られるという失敗をする。
 しかし日本からの21か条要求の受け入れなどもあり共和制支持の声が高まり、袁世凱政権からかつての支持者もしだいに離反し袁は煩悶惑乱の中急死する。
その後孫文は、ソ連との連合・国共合作・黄埔軍学校(校長・蒋介石)の設立などを行い中国の平和的な統一をはかり国民革命の完成をざす。
孫文は1925年、59歳で北京で死去する。
「失敗の英雄」といわれた孫文の最後の遺言は「革命いまだ成功せず。」


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