元寇神社(西新)

1274年10月19日、元軍は博多湾に姿を見せ翌20日、博多湾の西部・百道浜や今津から上陸した。
そして福岡平野における合戦がはじまる。
元軍は船から下り、馬に乗り旗をあげて日本軍に攻めかかった。元軍は太鼓をたたき、銅鑼をうち、紙 砲・鉄砲を放って戦闘の開始をつげた。
紙砲・鉄砲とは火薬を用いた飛び道具である。日本軍と元軍とでは合戦の作法がまったく異なっていた。日本の武士達の戦いは一騎打ちでお互いが名乗り合い、相手を確認して合戦におよぶ。
元軍の戦いは大将の指揮による集団戦である。日本軍はいまだ経験したことがない戦い方にとまどい、多くの武士が討たれた。また元軍は射殺された馬を食らい、腹を満たしたという。
博多湾西部から上陸した元軍は麁原や別府といった高台に軍陣をかまえ、赤坂方面に進撃した。 そして鳥飼や赤坂あたりで激しい戦闘を繰り広げられた。
こうした日本の武士達の活躍にもかかわらず、元軍が優勢で日本軍は退却し、太宰府の水城まで退却した。
ところが翌10月21日の朝、日本軍が海の方つまり水城から博多方面を見渡したところ、元の船は皆いなくなっていた。

西新

元寇防塁の最も初期に発掘されたのが西新地区である。 1920年に教育勅語発布30周年を記念して発掘された。発掘にあたったのが小学校の児童である。 1999年9月西南大学の構内の発掘調査がなされ、大学側はその遺構を積極的に活用した。校舎の位置は動かせないものの、校舎の中庭に高さ2.4メートルの高さまで復元し2001年4月に元寇防塁跡としてオープンした。

麁原

百道原から上陸した蒙古軍は赤坂で菊池武房の軍勢に撃退され二手に分かれ、大勢は麁原に向かってしりぞき、小勢は別府の塚原に退いた。
そして元軍は麁原に陣を構えた。
麁原は30mほどの小高い丘陵で福岡市街の見晴らしがよく、現在は祖原公園とよばれている。 中央の石碑は祖原公園に建つ「元寇麁原戦跡」の石碑である。

麁原の陣

祖原公園には元寇遺跡の石碑がたつ。「蒙古襲来絵詞」の絵には、麁原の陣が描かれている。 網代を組んだ楯が並び、異様の兵士は長い鉾を構えて騎馬にまたがる兵もみえる。
蒙古兵は鎧が軽く馬によくのり力強く命をおしまずに勇猛であった様が描かれている。乱鉦やドラも絵詞の中にみられる。

塩屋橋


有名な肥後の御家人竹崎季長を描いた「蒙古襲来絵詞」は鳥飼で奮戦する季長の姿を 印象的に描いている。3人のモンゴル兵に囲まれた竹崎季長の姿は最も有名で教科書にかならずでてくる場面である。 鳥飼の汐干潟は現在そこを流れる樋井川の両岸にあたる。
現在、鳥飼付近の樋井川には塩屋橋という橋がかかっている。

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