<戦争への道>
 日米が太平洋戦争にいたる背景には、満州への進出し権益をこの地域の利権を独占しようとする日本軍と、中国における門戸開放・機会均等を主張するアメリカとの対立があった。
1930年代 日本が陥った経済的不況と過剰人口といった国内問題を解決するために軍人たちは、資源豊で大きな市場を提供する満州に侵攻することを主張した。
中国では孫文そして彼の死後は国民党の蒋介石が国民党を握り、軍閥によって分断された中国の統一に乗り出す。こうした国民党の勢力の拡大に、日本の権益が奪われることを懸念した指導者層、特に軍人達は、力でこうした権益を守るべきこを主張する。
 1927年田中義一首相は、中国関係の高官達を東京に集め東方会議を開き、今後の日本の外向政策についての話し合いをおこなった。この会議はその後の日本外交政策を決定づける重要な会議となった。
その後1931年9月18日、満州の奉天郊外の柳条溝で日本が建設した南満州鉄道で爆発事件がおきた。被害は軽微であったものの南満州鉄道を警備していた日本の関東軍はすばやく行動を開始し満州軍閥の本拠を攻撃し満州全土を軍事制圧することに成功した。
この爆破事件自体、日本軍の周到な計画のもとに行なわれたものであった。
 日本政府はこの出来事に驚き、当初「不拡大方針」をとるが、最終的には軍の強硬派におされて関東軍の行動ひいては日本の傀儡国家としての満州国成立を承認することになる。
 こうした日本軍の行動は世界中で非難を巻き起こし国際連盟はリットン調査団を現地に送り込む。日本は1933年国際連盟から離脱して国際的に孤立していく。

東京九段の靖国神社は皇居の西側に面したところにあり、明治維新から日清・日露戦争さらに太平洋戦争にいたる過程で亡くなられた戦没者の霊を祭ってある。この神社への首相や閣僚の参拝には戦前の軍国主義の復活と見る国内勢力やアジア諸国からの批判もある。一方で国のために命を落とした人々を政府が慰霊を行なうことは当然のことと考える人々もいる。
政府公人の靖国神社参拝問題は、日本古来の死者への弔い方といった文化的に微妙な問題をはらみ議論が絶えない。
写真は戦後、昭和20年9月から27年7月迄、連合国総司令部として接収された旧第一生命ビルである。連合国軍・司令官のD・マッカーサーの執務室が6階にあり、当時のままに保存されている。
現在は、隣接している農林中金ビルとの共同開発で名称も「DNタワー21」として、後ろに高層ビルを抱えるような形に変貌している。 この工事の中で、前面の建物である第一生命館は列柱の並ぶ古典様式を取り入れた戦前の建物として外観がそのまま保存されている。
現在、陸上自衛隊の市ヶ谷駐屯地がある市ヶ谷は戦争中に陸軍士官学校があったところでした。 しかし、陸軍士官学校はその数年後に座間(相武台)・朝霞などに移転し1941年12月までに陸軍省参謀本部が市ヶ谷に移り太平洋戦争時の陸軍の中枢部がおかれ主要な作戦指導が行われていたのである。
戦後、米軍に接収され1946年5月から1948年11月まで、極東国際軍事裁判(東京裁判)の法廷として使われ1959年に日本に返還され、自衛隊の施設として使われることになった。 2000年防衛庁が港区から市ヶ谷に移転することが決まったため解体され跡地には新しい防衛庁の庁舎が建設された。1970年世界的文学者三島由紀夫がこの建物のバルコニー上で演説を終えた後割腹自殺を遂げたところでもある。
現在のサンシャインシティがある場所は旧東京拘置所の跡地。  戦時中にはゾルゲ事件のゾルゲと尾崎秀実の死刑執行、戦後は一時期進駐軍に接収され、巣鴨プリズンと名称を変え、極東国際軍事裁判でのA級戦犯者と指定された旧軍人東条英機元首相ら7人の処刑場となった。 その任務を終えた1952年、再び拘置所に戻ったが、急速に近代都市に生まれ変わる池袋では移転促進運動がおこり、1971年小菅に移転した。  現在、その跡地にはサンシャインシティがそびえ、その一角の東池袋中央公園には、かつてここが巣鴨プリズンだっったことを伝える石碑がある。
江戸時代に将軍の城であった江戸城は、幕府が倒れたことにより明治時代になると天皇を京都からむかえ皇居となりった。東京都心に広大な面積をしめる皇居広場には、1945年天皇御自身のラジオ放送で敗戦を知った多くの人々がここに集まり泣き伏した。
なお連合国軍総司令部は、この皇居の向かいの第一生命ビルにD・マッカーサーの執務室を置いた。
第一生命ビル内の事務室は当時のまま保存されている。なお写真は皇居前広場から見える二重橋あたりである。

<太平洋戦争>
 1939年の溝橋事件をきっかけに、戦争は中国本土にも広がり、予想以上の中国の抵抗に合い戦争が長引くと、日本は戦争を優位にすすめるためには南方の資源を確保することが必要であるという主張が海軍を中心になされるようになった。
一方、日本の真の敵はソビエトであり中国との戦争にいつまでも関わるべきではなく北方に軍を集めるべきだという主張がなされた。
 しかし日本は1941年にソビエトとの間に平和条約を結び北方を固めた上で、南方に進出し大東亜共栄圏の実現にむかうと太平洋上に多くの利権をもつアメリカと激しく対立するようになった。
日本の南部仏印進駐に対してアメリカは対日資産の凍結、石油輸出の全面禁止などによって日本を経済的に孤立化させていく。
 そして日米対立の外交的解決のめどはたたぬまま1941年真珠湾攻撃によって日米開戦つまり太平洋戦争へと突入する。
 日本軍の真珠湾攻撃は宣戦布告のない奇襲攻撃といわれているが、布告は事務的な事情で遅れたがアメリカ側は暗号を解読しあらかじめ攻撃を予想していたといわれている。
 戦争初期、日本軍は東南アジアや南太平洋ににおいて華々しい戦果をあげた。日本軍はビルマからインド国境近くまたオーソラリアの北の島々まで進撃していった。
しかしアメリカ軍は、ミッドウェイの戦いを契機に反撃に転じ、1942年8月には潜水艦部隊が南太平洋のガダルカナル島に上陸した。アメリカ軍は完全に太平洋上の制海権を握りサイパン島、硫黄島、沖縄と攻略して日本の勢力圏を狭めていった。
日本の敗戦が色濃くなった沖縄戦のころ、爆弾を積んだまま敵のアメリカ艦船に体当たりするという特攻隊による攻撃が行なわれた。
1945年B29による本土攻撃が行なわれ8月に広島・長崎に原子爆弾が落とされ、ソビエトも不可侵条約を無視して満州国境をやぶった。1945年8月15日、天皇自身のラジオ放送による声明により、日本軍は連合軍に敗れ、太平洋戦争は終結した。
 

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