精神の医者・魯迅

近代中国にとって最大の疾病は、その古い文化と中国こそ世界の冠たる国であるという 過剰な自信であった。
いったいなぜ中国のほうが変化しなければならないのか。これが人々の偽らざる気持ちだった。 西洋列強に国土を蹂躙されながらも、この自信は儒教の思想と人類の文明の真髄は中国にあるという 凝り固まった考え方に支えられて肥大の一途をたどっていた。
魯迅は人々のこうした心の壁に立ち向かうべく「精神の医者」となることを決意した。
それは日本の仙台にある東北大学医学部での幻灯室での出来事であった。


魯迅、本名は周樹人、1881年9月25日の生まれで、生誕地は紹興である。
詔興は詔強酒で有名なところでもとの名前が会稽、春秋時代には復讐と雪辱の郷として知られている。
魯迅の名は38歳で小説を書き始めてからの名前であるが、「魯鈍」の「魯」と「迅速」の「迅」を合わせた名前である。
周家はむかしから科挙の合格者を多く出した名門であったが、父は科挙の第一関門である郷試にどうしても合格できなかった。
魯迅が15歳のとき父は結核により36歳で亡くなった。この後、一家は急速に没落していく。
その後魯迅は親戚の家に預けられ、苦しい日々を送りながらも江南水路学堂で学んだ。これは西洋風教育にもとづいた軍学校であった。
その後礦路学堂で西洋の学問に刺激をうけ、明治維新を達成して日清戦争に勝利した日本に学ぶことを決意する。
礦路学堂を卒業した魯迅は、中国政府援助のもとに1902年3月、南京から日本へと向かい、中国人留学生のための予備校・弘文学院(新宿区西五軒町)に入学した。この頃神田の古書店街で多くの書物にふれ清国学生会館にも顔をだす。
この時期より、満州人を宮廷からおいだし中国人による政府をつくり、日本に学んで西洋の学問をとりいれるべきであると考えるようになった。
そして、魯迅は、清朝に屈服する証の弁髪を切ったのである。
弁髪を切ってしまえば故郷にもどっても役人としての出世はないが、弁髪をそのままにしておくわけにはいかなかった。
東京にいる中国人達の中で、清国を倒し中国に革命をおこそうという声が高くなっっていた。孫文とも会い同郷の留学生を中心として「光復会」とういうグループをつくった。
1904年弘文学院を卒業した魯迅に清国政府は、彼に東京大学工学部で学ぶように命じたが、それを断りひとり東北にむかい、仙台医学専門学校に学んだ。
温和しくて真面目な印象を学友に与えていた魯迅に決定的な出来事が起こった。
細菌学の講義で映し出された日露戦争のスライドでロシア軍の間諜として日本軍に捕らえられた清国人が銃殺される場面を目の当たりにした。
この時幻灯室の、日本人学生達は「万歳!万歳!」と叫んでいた。しかしスライドの中の見物している清国人は同胞が殺されるのに別に怒りをしめすわけでもなく、かといって悲しそうなそぶりを見せるわけでもなかった。
多くの中国人のぼんやりとみているだけであった。その中国人の表情に魯迅の心の深いところで悲しみや怒りや恥ずかしさを通りこした感情が広がっていった。
魯迅はこの時、医者として病気を癒すよりも民族の病患を治療することが必要であることを悟り、精神の改造に役立つものとして文芸に向かう決心をしたのである。

また、仙台での日々の中でもうひとつ忘れられないことがあった。
それは魯迅の指導にあたった藤野厳九郎教授であり、教授の写真を常に座右に置いてその恩を生涯忘れなかった。
1906年3月、魯迅は仙台を去り結婚のために帰国するもすぐに東京に舞い戻って文芸活動に打ち込み始めた。そして弟の周作人と協力して『域外小説集』を発表するなど、文芸の場に着実に一歩を踏み出していった。
魯迅は1907年7月に帰国し、数々の学校で教鞭をとるもすぐに辞職する。
1911年に辛亥革命が起こり、彼は初級師範学堂の校長に任命されるがまもなく辞任し、南京政府の教育部に勤めた。だが権力を握った袁世凱の教育部への監視は厳しく、教育改革を目指した彼は閉塞状態に陥ってしまう。
しかし彼は1918年4月に陳独秀によって発刊された文学革命の中核雑誌『新青年』に「狂人日記」を執筆し、創作に活路を見出しその後「故郷」、「阿Q正伝」等を次々と発表している。

魯迅、日本留学の足跡


弘文学院あたり(東京)
1902年魯迅は日本に留学のために来日し東京牛込西五軒町の弘文学院に入学した。
弘文学院は当時、東京高等師範学校の校長をつとめていた嘉納治五郎が、委託をうけて開いた 中国人留学生のための予備校だった。
弘文学院で日本語を教えていた松本亀次郎によると、魯迅は言語感覚において非凡さをみせていた。 松本に「流石に」の適訳がないといって嘆いていたこともあったという。
魯迅の日本文の翻訳は最も精妙を極め原文の意味をそっくり取って訳出しておきながら、訳文 が穏当でかつ明瞭であったあめに、同士間では「魯訳」といって訳文の模範にしていたという。
魯迅はここに2年間在籍した。

仙台医療専門学校跡
(東北大片平キャンパス)
1904年に弘文学院を卒業した魯迅は、6月に仙台医学専門学校に入学手続きをとり、9月の新学期 から講義をうけた。
魯迅が医学を志望したのは、西欧医学の導入が明治維新の原動力のひとつとなったことを深く認識した ためであった。
はるか仙台の地を選んだのは、留学生のいない土地へ行きたかったらしい。

魯迅故居(仙台)
魯迅は医専に近い片平町の佐藤屋という差入屋の二階に下宿し、数ヵ月後に土樋に移った。
広瀬側沿いの高台に建っていて、医専の正門への道に面していた。
この下宿は現在も東北大学片平キャンパス正門前に保存されている。

藤野先生によるノート添削
(東北大資料館)
仙台での孤独な日々の中で、忘れがたい印象を与えられたのが、解剖学の藤野厳九郎教授だった。藤野先生は魯迅のノートを最初のページから最後までびっしりと赤インクで添削した。日本語の文法から解剖図まで細かく誤りが直されている。
魯迅は仙台を去るとき、藤野先生から「惜別」と書いた写真をもらったが、それを生涯座右においてその恩を忘れなかった。
その写真は今でも上海の魯迅の故居に残っている。

階段教室
(東北大片平キャンパス)
魯迅にとって人生の転機となった幻灯をみた階段教室の外観。「阿Q正伝」の最後のシーンで阿Qを見つめる群集の姿こそ、彼がこの部屋でみた幻灯の中の群集の姿であった。

階段教室
(東北大片平キャンパス)
若き魯迅がその幻灯を見た階段教室である。前から3列目の定位置に魯迅は腰を下ろしていた。
このころ旅順陥落、日本海海戦の勝利などがあり、日露戦争が終決したが、細菌学の講義のとき たまたま日露戦争のスライドが映され、ロシア軍のスパイとして日本軍に捕らえられた中国の同胞 が銃殺されるシーンをみた。この時この場所で魯迅の考えが変わったという。
つまり、病気を癒すより、民族の病患を治癒することが必要だとさとり、精神の改造に役立つものとして文芸にむかう決意をした。

内山書店(東京神田)
東京の神保町にはいまでもすずらん通りといって中国語の本屋や中華料理がかたまっている横丁がある。
神田に清国留学生会館があり、中国人の学生が多く住んでいたなごりである。 内山書店は1917年に上海で創立され、1945年に閉鎖された。内山書店は、中国の「五・四」新文化運動の潮流に順応し、日本人が経営する上海の書店の中で最も影響の強い書店で日中文化人が連絡をとりあう「窓口」となった。
魯迅は上海で生活した時期、大多数の日本語の書物は内山書店から購入した。
内山書店の店主内山完造は、全力を尽くして魯迅およびその他中国の革命家に色々と援助の手を差し伸べたのである。
戦後、内山完造は神田に同名の書店をすずらん通りに開店した。現在も主として中国書籍をとりあつかっている。

夏目漱石旧居跡
(明治村)
 魯迅は1906年、仙台の医学校を退学して、一旦帰国し、その秋、弟・周作人を伴い再び日本に渡り、改めて文学を志した。
はじめ本郷湯島二丁目の伏見館という下宿屋、ついで東竹町(今の本郷一丁目)の中越館に移り、1908年4月8日には本郷西片町十番地ろノ七号の、もと夏目漱石が住んでいた家を友人五人で借り、「伍舎」と名づけて共同生活を営んだ。
同じ家に住んだという偶然が働いたかどうかはわからないが、やがて魯迅は漱石が書いた本を2つ3つ翻訳することになる。なお夏目漱石旧家は愛知県犬山市の明治村に復元されている。


魯迅は中国に実際にある人食いの習慣を頭の片隅において「狂人日記」を描いた。
しかし「狂人日記」で大切なことは人間が食べられるということだけではない。 誰でもがそれをよく知っていながらも、お互いに約束しあったかのようにそれについて絶対にしゃべらないということであった。
魯迅がなぜこの小説の主人公を狂人としたのか。 世の中が狂っているときには、かえって狂人のほうが正常な精神をもっていることがしばしばあるからである。いま自分が自分しか知らない真理を世間に向かって大声で説いたとしても、彼らは自分をばかにして狂人あつかいするにちがいあるまい。魯迅のそうした孤独の気持ちが「狂人日記」にこめられている。
「阿Q正伝」の中の阿Qは貧しい農民というよりは、浮浪者であり自分の名前さえ漢字で書けない。 他人にいつも馬鹿にされている彼が編み出した勝利の方法が「精神勝利法」であり心の中で相手に対して一方的に勝利を宣言するというものである。
阿Qのこの有様はまさしく、19世紀以来の中国の欧米に対する姿勢そのものであった。
欧米に敗北しておきながら、中華思想から脱しきれず、欧米に対する精神的優位に浸ろうとする中国。魯迅は阿Qという奴隷根性をもった農民を描くことで、中国の近代史が背負ってきた奴隷根情をも告発した。

魯迅はペンを取るだけの人ではなかった。
彼は生活の為に多くの学校の講師を務めていた。その中の一つ、北京女子師範大学で国恥記念日のデモへの生徒の参加を禁止したため学生と学校との対立が始まり、魯迅は学生側を支持し、学校側支持者と大論戦を繰り広げ勝利した。
1926年3月、国民軍と日本軍と組んだ段祺瑞政府に戦端が開かれると、北京市民は国民軍を守るべく天安門前で抗議集会を行うが衛兵の包囲攻撃により数十人が殺害される。
その中に魯迅が教えていた女師大の生徒がいた為、魯迅に逮捕状が出され逃亡生活を余儀なくされてしまった。
4月には張作霖内閣が立つが反動政治はさらに強まり、彼は8月18日に北京を去り、厦門大学の文科教授になるが、すぐに職を辞し、広州に移り孫文の名にちなんだ中山大学教授としてむかえられる。
しかしまもなく蒋介石の四・一クーデターを機に反共の嵐が吹き荒び、中山大学でも四十余人の学生が逮捕された。魯迅は学生の救出に奔走するが国民党寄りの教授達の賛同を得られず、3ヶ月で辞任して「野草」等の編纂に没頭する。
そして1927年10月に生涯の住処となる上海に恋人・許広平と移り論争等に多くの時間を費やした。
上海は当時、最も西洋文化に開けたところであり、中国共産党が結成された場所でもあった。ここで内山書店の内山完三とも知り合う。
魯迅はその後、共産党の指導する中国革命互済会に入会し、その後、国民党によって圧迫され、名を変え居場所をかえ身を隠さねばならなくなった。
上海は蒋介石ひきいる国民革命軍によって「反共クーデター」が大々的にくりひろげられていた直後で左翼系人物への弾圧が徹底的に行なわれていたからである。
1931年1月には秘密会議中であった彼の同志の共産党員が一斉検挙される事件が起こり、彼らの救出に尽力するも力及ばず、最も信頼した若手作家・柔石ら23名は処刑されてしまう。その後1931年9月には満州事変が起こり、国民党に加えて日本による弾圧が強まったが、彼はそれらに対して一歩も引かぬ抵抗を示す。
しかし諸々の戦いがしだいに彼の体をむしばんでいた。終に1936年10月18日早暁、56歳でなくなった。
魯迅は死んだ。しかし彼の精神は多くの者たちに受け継がれ、民族革命の大きな原動力となっていく。魯迅は正に文学を通じて中国の新たなる時代の扉を開いたのであった。

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