人心掌握の人・周恩来


周恩来は1898年3月5日、江蘇省淮安県の県城で生まれた。周家はもともと魯迅と同じ浙江省紹興を祖籍とする旧家で祖父の代に淮安に移っている。
家が没落し周恩来は叔父のもとにあずけられ極度に貧しい生活を送った。高校時代、美丈夫の周恩来は新劇ではいつも女形を演じた。
その後アメリカの援助で新設された南開大学に進学し,その充実した教育内容や優れた教授陣は若い周の性格形成に強い影響を及ぼした。
南開大学卒業後、当時の愛国青年と同様、祖国を救う道を探すという強い希望に燃えてフランスに留学し、急速に共産主義思想に目覚めていった。


周恩来は毛沢東に継ぐ中国共産党の実力者として絶対的な信望を集め、膨大な行政機構を掌握し縦横に動かした。
多くの人々が、周の卓越した記憶力と人をそらさぬ話題の豊富さなどの魅力を語っている。
人心の機微をつかむという周恩来の本領が最も良く発揮されたのが、日中戦争の分岐点ともなった西安事件である。
孫文の死後、蒋介石は孫文の遺志を無視して中国南部の共産党根拠地に対して大規模な攻勢にでた。そして共産党の根拠地は、国民党の軍隊の重圧下に置かれた。
東北地方には日本軍の謀略により父張作霖を殺された張学良があった。張学良は満州の帝王になるべき人物であったが日本軍と戦うために蒋介石の軍門にくだる。しかし蒋介石はそんな張学良に対して日本軍ではなく共産党に対する討伐を命じた。
しかし、張学良も配下の東北軍も、日本と戦おうとしている共産党と戦う気はなく共産党に対する討伐は遅々としてすすまなかった。業を煮やした蒋介石は1936年12月自ら西安に赴いて共産党への攻撃を監督しようとした。
しかしその蒋介石を張学良が逮捕監禁し、ほどなくして蒋介石と共産党の周恩来との会談が実現した。
蒋介石と周恩来といえば孫文がつくった黄埔軍官学校の同僚である。 1998年のNHKの番組で張学良(2001年死去)は,この会談の内容や経過についての質問に対しては「これ以上質問しないでください。」と答えている。
この後蒋介石は「一致抗日」を受け入れ第二次国共合作が実現するのである。 世界はこの時の周恩来という人物の外交手腕と説得力をはじめて知ることになった。
周恩来は、中国共産党の毛沢東の下で主に外交を中心に大きな役割を果たしてきた。
日中戦争中は南京や重慶など国民党の監視下で、国民党や米国との交渉にあたり、日中戦争終了後の国共重慶会議にも出席、新中国成立からまもない1950年にはモスクワにかけつけ、難航する中ソ会談で毛沢東主席の力となった。
周恩来は、中国が初参加した国際会議である1954年ジュネーブ会議に臨んだのをはじめ、新中国の対外交渉のほとんどすべての案件を手がけてきた。
そして毛沢東夫人の江青との激しい権力抗争や文化大革命による失脚の危機を乗り越えていった。
周恩来は1976年1月8日78歳で死去する。人々は周恩来の死をいかなる英雄の死よりも悼んだ。

周恩来の日本留学時代

周恩来も日本に留学していた一人である。周恩来が住んでいた場所を特定化する資料は少ないが、海外の研究書、最近の伝記などの記録を総合すると、早稲田周辺、それも江戸川橋あたりに住んでいたのは確かなようだ。
三菱銀行江戸川支店支店長の調査によると、現在の山吹町298番地の旧牛込文化センター あたりの食堂「やまぶき」あたりといわれている。
ここに周恩来が食事にきていたとのことである。(「松本亀次郎の生涯」早稲田大学出版部より)
地下鉄江戸川橋から牛込方面に歩くと周恩来などが生活した山吹町界隈につく。
山吹町あたりは細い路地が迷路のように重なりあった所で路地をぬけたところが神楽坂である。 神楽坂には中国留学生達が集まり中国革命同盟会の機関紙「民報」などが発行された。
この周辺は若き中国留学生達が革命への血をたぎらせた場所でもあった。
1998年は日中平和友好条約締結二十周年であり、日中国交正常化に尽力した故周恩来総理の生誕百年にあたる。東亜高等予備学校の創立者松本亀次郎氏の日中友好の理念の下、周恩来が1917年から19年までの間ここで日本語を中心に学んだ。
千代田区日中友好協会は、東亜高等予備学校の跡地(神田神保町2−21)の愛全公園内に記念碑を建立した。
 建立された石碑には、「周恩来ここに学ぶ―東亜高等予備学校跡―」と記され、さらに周恩来が千代田区で学んだ事跡を記した碑が建てられている。
1919年南開大学への進学を決意した周恩来は日本からの帰国のために神戸に向かうがその途中、京都に立ち寄りしばしの観光を楽しんだ。周恩来は嵐山と円山公園を幾度か訪れ、満開の桜と緑鮮やかな山河を目にした感動を4篇の漢詩に詠っている。周恩来のこの時の漢詩は京都嵐山の亀山公園にある「雨中嵐山」の碑に残されている。
写真「の「雨中嵐山」の碑は,京都の日中友好関係団体により日中平和友好条約の締結を記念して建立されたものである。
1979年4月、亡き夫の遺志を継いで日本を初訪問したケ穎超女子は、京都を訪れ、この[雨中嵐山」の碑の除幕式に出席している。
漢陽楼は周恩来ゆかりの中華料理店で 神田小川町にあり神保町駅より徒歩4分のところにある。 中国からの留学生にふるさとの味をと1911年に始めた店で、当時19歳の留学生、周恩来もここに通っていた。周恩来が好んでいた「小龍包」は今も人気メニューである。
漢陽楼は現在東京都千代田区 神田小川町3−14−2にあり、元々あった猿楽町からは少し西に位置している。  
周恩来が一時下宿した思い出の場所である東京中野の赤羽克巳氏の書生部屋あたりは現在、マンションがたつ。赤羽克巳氏は、ももとも満州鉄道理事で、このあたりは華州園とよばれた高級住宅街であった。創価学会の中野文化会館のすぐ近くであり、中野文化会館内には周恩来の在日留学をとどめる記念展示が常設されている。周恩来は1972年9月、日中国交正常化の共同声明調印の際に同行の日本人記者に「中野もだいぶ変わったでしょうね。若い頃、柏木(現在の東中野)に下宿したことがあるんです。川が流れていて」と語っている。この川は近くを流れる神田川である。 
      

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