相馬愛蔵・黒光夫妻がパン屋に転身した1901年より死ぬまでの約55年間、中村屋の仕事を貫き通した業績はおおきい。
古い封建時代の商習慣をうちやぶって、他のどこにもない優秀で斬新な商品をそろえ安く売る正札主義の商法で、みごと成功したのである。
昭和初期の新宿は発展地とはいえ喫茶店のような店は一軒もなかった。
1926年10月、三越が新宿に進出し、新宿一帯に大きな刺激を与えた。土地が次第に賑やかさを増すにつれ、中村屋に対し得意先から一休みできる程度の喫茶部を開設してほしいという要望が度々でた。
 相馬夫妻の娘婿のボーズは日本人のインドに対する認識が誤りがちなのを嘆き、中村屋で喫茶部を開くならば純インド風のものを味わってもらいたいと希望していた。
このときすでに相馬夫妻は、ボーズに嫁いだ長女・俊子を心労のために失っていたが、インドに対する親愛の情はひとしお強く、ボーズの案に心が動き、1927年6月ついに喫茶部「レガル」が開設した。

日本ではライスカレーはハイカラな食品ではあったが、次第に安い材料を用いるようになり経済料理の一種として広まっていた。ボーズはインド貴族の食するカリー・ライスなるものは最上級の鶏肉を用い最上のバターと10数種の香料を加えていると本場仕込みの料理法を中村屋に伝えた。
なお中村屋の看板や包装紙でおなじみの六朝風の文字は太平洋画会の中村不折の作品である。
大正15年春、突然一人の修道士が中村屋を訪れる。北海道トラピスト修道院の教頭をしていた和田武夫と名乗り、教義上のことでローマ法王と争い破門されたと伝えた。和田氏は牧畜の知識を伝えこれがきっかけとなり東京仙川に中村屋牧場が開かれる。
またこれが機縁で修道院製造のバター・チーズ・タニュールなどを中村屋が扱うことになる。 またエロシェンコをかくまったことも縁となり、ロシア料理のボルシチをメニューに入れ、ピロシキやロシアチョコレートを売りに出した。
メニューの中には今でも「碌山」や「黒光」と名付けた和菓子を売っている。
エロシェンコは盲学校に学ぶために日本にきたが,その後に起こったロシアの革命騒ぎで送金が絶えて 困っていた。
その彼を相馬夫妻は、かつてボーズを匿っていた書室に住まわせ家人同様に不自由な彼の身のまわりの世話などをしてやった。
エロシェンコは常にルバシカを着ていた。 中村屋では、ルバシカが洋服よりもはるかに便利でかつ経済的であることを知り、店の制服として採用した。
相馬愛蔵・黒光夫妻は、同郷であった荻原碌山(荻原守衛)や中村彜や柳敬助らと交流があり、近くにはアトリエも設けていた。
上階のレストラン「レガル」には、中村屋ゆかりの美術家の作品が飾られ、食事をしながら、絵を楽しむことができる。
1937年には中村屋店員の人格向上のために研成学院を創立する。

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