星野黒光は仙台藩の漢学者・星雄記の孫として1785年、広瀬川の畔に生まれた。 本名を良という。高等小学校の時代にキリスト教に触れ、上京して横浜のフェリス女学校、そして 東京麹町の明治女学校で学んでいる。なお黒光の名前は、「光というものは控えめであってこそうけいれられる」という戒めをこめ、明治女学校の師が当時文学を志していた良にペンネームとして与えたものである。 1987年キリスト教会を通じて知り合った長野県安曇野の旧家の生まれの相馬愛蔵と結婚した。 都会の生活に嫌気がさしていた黒光は長野の自然の中での生活に憧れ、信州穂高にむかった。 しかし慣れない山国の風土と家風のために黒光は健康を害し、夫とともに上京し、東京本郷でパン屋を開き後に新宿に店を移した。 1908年穂高時代に交流があった荻原守衛(碌山)がロダンに学んで帰国し、新宿西口にアトリエを建て、新宿中村屋に通った。 そして荻原守衛ほか柳敬助・中村彝、中原悌二郎が中村屋に美術家・文学者などが出入りし芸術的雰囲気が広がり中村屋はサロンの様相を呈し始める。 1910年 碌山は友人柳のために中村屋裏の古洋館をアトリエに改造するが、傑作「女」を完成した後喀血し息を引き取る。 柳が中村屋のアトリエの隣に碌山のアトリエを移して2階建てとし、碌山の遺作を公開した。 大正期のはじめ、黒光は中村屋の2階でロシア語とロシア文学研究の会をもち、早稲田大学教授の片上伸らと定期研究会を開く。 また早稲田大学教授島村抱月主催の「芸術座」のメンバーと親交を結び松井須磨子等らと親しみ、翻訳劇、近代劇の普及に一役買う。 1915年にインド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボーズを匿いロシアの盲目の詩人エロシェンコが食客となる。 1918年以前中村彝との結婚を断った長女俊子がボーズと結婚する。 この年漂泊のロシア人ニンツァが中村屋をおとずれ、中原悌二郎作の「若きカフカス人」という彫刻のモデルとなる。 ロシアの盲人エロシェンコをモデルとして、中村彝、鶴田吾郎が彼をモデルにした油絵を製作した。 またロシア歌劇団の来日に尽力し、その成功に協力しこれに感激した歌劇団の花形女優ブルースカヤの一行が、中村屋に答礼のため訪問する。 1919年3.1独立運動に関わった朝鮮人は林圭を匿う。 1922年インドの詩聖タゴール来日し黒光が会談し、日印親善のため女子学生の交歓を約束した。 大正12年中村屋サロン脚本朗読会メンバーの希望を取り入れ、麹町平河町の相馬私邸内に土蔵劇場を開設、先駆座と命名した。
|