兵庫県赤穂市にある瀬戸内海の入り江・坂越は、瀬戸内海の海上交通の要地として栄えた。 坂越は秦氏が上陸した場所といわれるところである。
播磨国赤穂郡は近世入浜塩田発祥の地として有名であるが、このあたりは秦氏の勢力 が強く及んだ地域である。そして秦氏の一族には奈良時代に塩田開発をしたと思われる者もある。
また赤穂郡内には秦河勝や秦酒公を祭る大避神社がいくつもあって、秦河勝をはじめ秦氏にまつわる 伝承もすくなくない。

東儀秀樹氏の言葉より
10年以上雅楽師として活動している僕にとって、とても重要な経験をした。東儀家は1300年以上も雅楽を世襲の仕事としてきた楽家(がっけ)で、その祖は聖徳太子の参謀だった秦河勝(はたのかわかつ)である。秦河勝という人物は帰化人らしく、多くの大陸の文化を伝え、定着させた人物で、文化人でも政治家でもあった。しかし聖徳太子が世を去ったあと、京都太秦を本拠地としていた河勝は蘇我氏の迫害をさけ、兵庫県の瀬戸内海に面した坂越(さこし)という地にたどり着き、80余年の一生を終える。坂越には大避(おおさけ)神社という立派な社があり、そこでは毎年10月12日に大きな祭りが行われている。10月12日というのは秦河勝の命日と伝えられている。そして同じ10月12日、僕は生まれた。 雅楽を自分の道であると意識してからは、いつもこの秦河勝という人物のことが気になっていた。京都の広隆寺をはじめ、彼の建立したとされる多くの神社、仏閣にはずいぶん参拝を重ねたりしたのだが、彼の眠る墓前には訪れたことがなかった。行くべき時がくれば行くのだろうと思っていたところ、なんと今年は1350年という節目の年となり、祭りの規模もかなり大きくなるというので、舞の奉納をさせてほしいと申し入れ、実現したのだ。

坂越の町並み

赤穂沖で上荷船から赤穂塩を積み込んだ廻船は天然の良港である坂越港に回航され、この港で塩待ち・ 風待ちして髪型や江戸や北陸へ船出していった。また千種川地域の幕府領の年貢米の積みだし港になっていたので、高瀬舟により運ばれた米や産物はこの港で船積みされ、上方へ運ばれた。 坂越浦廻船の発展と諸国廻船の出入りの増加とともに物資補給や船乗りを相手とする商人も増え、港町としての機能も整備されていった。今も随所に当時の面影を残している。

千種川

赤穂市内を流れ坂越湾に流れる千種川。秦河勝は千種川の流域の開拓をすすめ、川周辺には大避神社が点在する。聖徳太子のブレーン・秦河勝は蘇我氏をのがれ坂越につきこの地でなくなった。秦河勝の御霊は神仙化とし、村人が朝廷に願い出、祠を築き祀ったのが大避神社である。 赤穂藩主はもとより熊本藩主細川候も江戸参勤の途中坂越湾に船をと千種川沿いにある大避神社に参詣している。

大避神社

秦河勝が聖徳太子亡き後、蘇我入鹿の迫害をさけ、坂越にやってきた。村人の朝廷への願い出により、創建されたのが大避神社である。なお秦河勝が、弓月国からもってきた胡王面がこの神社にあり、それには天使ケルビムの像が彫られている。この胡王面は雅楽の面として使用され、その鼻は非常に高くセム的な鼻である。雅楽そのものもも中近東から伝わったものである。ここに秦氏は古代基督教会を建てたとう説もある。

坂越の船祭り

大避神社内の境内には、船絵馬や坂越浦を出入りした塩廻船がおいてある。 この船は国撰択無形民族文化財「船渡御祭」に使用されたもので楽人が乗り渡御の間雅楽を奏でる役目をした。現在は復元船が使用されている。祭種船12隻の中でこの船だけが屋形を有している。 大避神社祭神と雅楽の関係は深く祭神を祖と仰ぐ雅楽家には東儀・岡・薗・林の四家があり雅楽を伝承活躍されている。「坂越の船祭り」は瀬戸内海三大船祭りに数えられ、平成4年には国の無形文化財に選択され、また用いる船も兵庫県の有形民族文化財に指定されている。

生 島

大避神社前方坂越湾に浮かぶ周囲2キロあまりの小島が生島である。。 生島(いきしま)の名は秦河勝が生きてこのちに着いたので名づけられたと伝えられている。また生島には秦河勝の墓がある。生島は、古来、生島は神地であって、樹木を伐ることはもちろん島内に入ることも恐れられ、江戸時代から今日でも幾話かの祟り伝承が里人に信じられている。 こうした信仰に守られ樹木が原始林としてそのままに育ち瀬戸内海でも貴重な植生をもち大正13年に 国の特別天然記念物に、さらに国立公園特別保護区に指定されている。