日本の外来文化や技術は殆どが中国、朝鮮半島からのものからだと言われてきた。
表面上はそうであっても、アジアの周辺諸国には見られない日本独自の文化や精神が一体何処から来たものなのか。
日本文化や精神形成の核心部分に想像以上にユダヤ・キリスト教的な影響があったのではないだろうか。
日本では一般に1549年イエズス会のフランシスコ・ザビエルによりキリスト教が伝来したといわれている。しかしそれはあくまでローマカトリックの伝来であって、それよりはるか以前から日本の伝統的な風習や儀式の中に多くのユダヤ・キリスト教的要素が含まれていたのである。
 エルサレムから東に伝わった東方教会はローマ・カトリックとは対照的にユダヤ的な要素つまり原始キリスト教の要素を多く保持したキリスト教であった。

こうしたユダヤ・キリスト教的要素が「イスラエルの失われた10部族」や原始キリスト教団もしくは景教の影響を強くうけた集団によってもたらされ、日本文化や精神の形成に強い影響を与えたのではないか。その証拠と思われるものを「日本・ユダヤ封印の古代史」(ラビ・マーヴィン・トケイヤー著)を参考に列挙したい。


正倉院


京都(平安京)に都が移る前に、都は約100キロ南の奈良(平城京)にあった。 平城京の正倉院はシルクロードの終着点ともよばれるところで、シルクロードを伝わってきたと思われる文物が多くおさめられている。その中には中国や朝鮮からの伝来のものばかりではなく中央アジアや中近東から伝来したものが多くおさめられている。
ここはシルクロードの終着点とよばれるのにふさわしい場所で、朝鮮や中国のはるか西方からの文物がいかに多く日本に伝えられたかという動かしがたい重大な証拠がここの御物なのである。
下の絵ははるか西の文化が日本に伝わっていること鮮やかなに示している。


エジプトのピラミッドで発掘された壁画

日本の福岡県の古墳で発掘された壁画

 私が住む福岡市では6月に神輿をかついだ男達が登場する山笠祭が開かれるが,こうした祭りに 使われる神輿は、古代イスラエルの十戒を刻んだ石を入れた契約の箱を連想させる。
 神輿の形そのものも契約の箱に似ており、またその大きさもほぼ同じである。
イスラエルの契約の箱ではその箱の頭上に天使の姿をかたどったケルビムをつけるが、日本では神輿の頭上に想像上の鳥である鳳凰をつける。
イスラエルの契約の箱は全体を金でおおうが、日本の神輿も全体か部分的に金でおおう。
   イスラエル人は棒を通して契約の箱をかついだが日本人も同じように棒をとおして神輿をかつぐ。
聖書の歴代志上15章にダビデが契約の箱をエルサレムに持ち込んだ時のことが記されている。
「ダビデはまた亜麻布のエポデを着ていた。こうしてイスラエルは皆、声をあげ、角笛を吹きならし 、ラッパとシンバルと竪琴と琴をもって打ちはやして主の契約の箱をかき上った。」
ここでダビデ王は人々とともに契約の箱の前で楽器の演奏とともに歌い踊っているが、 日本人も祭りの時に神輿のまえで同じように歌い踊る。

日本では神輿をかつぐ前に人々は身をきよめるが、これはイスラエルの習慣と同じである。
日本では神輿をかつぐことに選ばれた男達は1週間ほどともに一つの家で過ごし卑俗にならないようにする。
またお神輿をかつぐ時には海水で身を清め、これは契約の箱をかついだイスラエルの習慣と同じである。
下右の写真は山口県粭島(すくめじま)の海を神輿で渡る祭りであるが、契約の箱をかついでヨルダン川を渡ったイスラエル人(左写真)を彷彿させる姿ではないだろうか。




日本の神道の建造物は古代イスラエルの神の幕屋の構造とよく似ている。
イスラエルの幕屋は、三方が丈夫な壁で囲まれ門は閉ざされ、天幕におおわれた小さな木造の建物であった。神殿の内部は二つに仕切られ、門に近い最初の部屋は聖所とよばれ、後方にある次の間は至聖所とよばれた。至聖所には金で飾られた小さな木箱があり、イスラエル人が最も神聖とする持ち物「契約の書」が祭られていた。
古代イスラエルの神殿が「聖所」と「至聖所」の二つの部分にわかれていたように日本の神社もふたつの部分に分かれている。
そしてイスラエルでは祭司のみが聖所に入るが、日本の神社でも神主のみが聖所にはいる。
さらに特別な時にだけ祭司は至聖所にはいるが、これも日本の神社と同じである。
古代イスラエルの神殿でもほとんどが木でつくられているのと同じようにすべての神道の神社は木でつくられている。
ただしイスラエルの神殿では天井や床はレボノン杉の木でおおわれていが、神道の神社ではレバノン杉にかわって虫が食わない檜でつくられている。
イスラエルの幕屋は,組みほぐされまた組みたてられる移動神殿であるが、このことは伊勢神宮でみられる式年遷宮を思い起こさせる。
伊勢神宮の神殿は、古来より20年毎に建て替えられることになって いるのである。そのために神殿に隣接した場所は、建て直しのために完全な空き地となっているのである。


伊勢神宮

イスラエルの幕屋

日本の神道では白はもっとも神聖な色であり白装束で神の前に仕える。
ダビデが契約の箱をかついでエルサレムに入った時に白い麻布を着ていたとあるが、イスラエルでは一般の神職がみにつけるエポデは簡素な白い亜麻である。
 日本でも伊勢神宮をはじめとする古い神社では神主は白い衣服を着、一般の人が神輿を担ぐときには白い服を着、仏僧は色彩豊かな衣服を着るのとは対照的である。
日本の神主の服の隅には20センチほどの房がついていおり、これは申命記22章にあるとおりイスラエルでもみられ、これは新約聖書のマタイ福音書23章でイエスがパリサイ人をせめる箇所にもみられる。


大宰府天満宮

伊勢神宮


日本では、神社のような聖なる場と俗界との境界に鳥居が建てられる。鳥居は二本の垂直の柱とそれらをつなぐ水平の柱で作られている。そして鳥居は特に古い神社では赤く塗られていた。これは出エジプトにおける過ぎ越しの際に、イスラエルの民が疫病からまぬがれるために羊の血をかもいにぬった史実を思い起こさせる。こうした入り口は中国や韓国には存在せず日本独自のものである。
さらに日本の神社の入り口近くにあるのが手水屋であるが昔は足も洗っていた。
古代幕屋あるいは、イスラエルの寺院でも入り口近くに手を洗ったり足を洗ったりする蛇口があり原始キリスト教団では洗足式もおこなわれた。


鳥居(京都・松尾大社)

御手洗場(福岡・大宰府天満宮)

日本の山には必ずといっていいほど神社がある。イスラエルでも山は高所といい、崇拝の対象となった 。イスラエルの寺院も山の上に建てられる。山は神に近い場所と考えられたのである。
 宗教的修行者に山伏がいる。山伏は、ちょうどイスラエル人が魔よけを額につけるように黒い箱を額につけている。
 日本では平安時代ごろから修験道が発達した。今日では仏教に属しているがその修行者・山伏の習慣は、仏教以前から存在しており7世紀ぐらいにはいってきたものと考えられる。
こうしたは信仰形態は、中国や朝鮮、インドでは見られない。
 山伏は額にトキンといわれる黒い箱を黒い紐で結び付けている。これは聖所の出エジプト記にみらるようにアロンが身につけていたものに似ている。
 さらにユダヤ人は羊の角で角笛をつくり山伏は法螺貝で非常によく似たものをつくった。山伏は山を聖なる修行の場としているところもイスラエル人と同じである。


山伏衣装

山伏が吹く法螺貝

日本の典型的な神道の神社の入り口には、参道の両端に狛犬が守り神としておかれている。
狛犬はライオンに似ているが、日本にはライオンは存在せずただライオンらしき像のみが古くから日本の神社におかれていた。
聖書の列王記上7章によるとイスラエルの寺院やソロモンの宮殿にはライオンの像やレリーフがあったと伝えている。狛犬などは中東から伝えられたというのがほぼ定説となっている。
イスラエルには穢れと浄めはしばしばでてくる。 モーセがシナイ山で10戒を与えられた時、イスラエル人が近かないように境界を定めた。
日本の神道には、聖所を注連縄で囲む習慣がある。注連縄はロープに白い紙をはさみ境界を定める。 さらに塩で清めることは日本人共通の習慣である。 ヨーロッパとアメリカ人はこの概念となじみがないが、日本人はそれを理解する。
日本人の神道の中心的な概念は、清めと不浄を分かつことである。 日本人は清めの時に塩をつかうが、この習慣は古代イスラエルのそれと同じである。
聖書の士師記の9章アビメレクは、敵の町を攻略した時には塩をまいたが、 日本人ならこれを町を浄化したと解釈する。
日本のレストランやホテルなどでは今でも入り口の前に塩をおくところが多い。 日本では忌中の家にも塩をおき、葬式から家に帰ると塩を自分と家にまく。 これは神道では葬式や死者にふれたものは不浄だると信じるからである。
日本では力士は、塩を土俵にまく。ヨーロッパやアメリカの人々は不思議に思うが、ユダヤ人は即座にその意味を理解する。
日本人は宗教的な儀式を行なう時に塩をまく。これはイスラエルと同じ習慣で聖書のレビ記2章13節に、すべてのささげものと塩をささげなさいとある。
エゼキエル16章には古代イスラエル人は子供をやさしく塩をまぶした後に新生児を洗ったとあるが、日本人は古代に最初の子供に塩をつける習慣があった。


狛犬

注連縄

日本人は、その記憶を遡りうるかぎり神道という自然の神秘にもどづいた宗教を実践してきた。 日本人の神道に対する執着は、日本の島々に働く様々な自然の力を考える時、それほど驚くにはあたらない。
吹きすさぶ台風や襲う津波、爆発する火山、そして頻発する地震は、見えない力として日本人の生活を支配してきたのである。
こうした原因が定かではない自然の破壊力をコントロールするために、日本人は神道を実践してきたのである。そうして日本人はこうした目に見えぬ力を神とよんだ。
自然のすべてのふるまいが恐怖や畏れ、崇拝や愛をよびおこしたのである。説明のつかない物事はすべて畏敬の念をもってむかえられ、自然の中でどれひとつとして神から切り離すことができなかったのである。
もともと神道の信者は自然の中の神を崇拝したのである。今日、仏教の影響もあって神は神社の中で参拝されている。
仏教ではブッダや他の神々の形にほった偶像が多くあるが日本の神道ではユダヤ教と同じように偶像がない。
ただ神道の神社の至聖所には、鏡・刀・勾玉がある。しかしながら、神道の信者はこれらのものを偶像としてではなく目に見えぬ神がおりてくる聖なる場所を示す器としか認識していないのである。
古代イスラエルの契約の箱には、10戒のきざまれた石、マナを入れた器、そしてアロンの杖がはいっていた。こうしたものもやはり神そのものではなく神がおりてくるものとして考えられたのである。 日本の神社における鏡・刀・勾玉なども同じような性格のものである。

日本には子供の成長を祝う伝統的行事があり誕生後、男子は30日、女子は31日して神社に連れてゆかれる。一般的に母親の家族が衣装を用意して父方の祖母が子供を抱く。
聖書の中の「ルカによる福音書」によると、イスラエルの民は、子供が誕生後、特定の日にエルサレムの神殿に神を崇拝するために子供をつれていった。
さらに日本では、女の子は3歳と7歳の時に男子は五歳の時に晴れ着を着て子供の成長と健康を祈るために神社に参る習慣がある。


キリスト教ネストリウス派は431年エフェソスの宗教会議として異端とされた排斥され東方のシベリア・ペルシアに流伝し中国に伝わり景教とよばれた。
長安に波斯寺(のち大秦寺と改称)をたて781年には大秦景教流行碑がつくられた。
日本で死者を弔う際に用いられる「位牌」にも景教の影響があり仏教の寺では人が亡くなった時、その戒名と日付を書いた「位牌」を用いる。
この風習はもともとは景教のもので仏教になかったものである。
景教は昔、洗礼を受けた人々に洗礼名を授けていたが、仏教徒はこの習慣を仏教に取り入れた。

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