NO1 平安京遷都

日本には千年の都とよばれる古都・京都がある。
京都はむかし平安京とよばれ、藤原氏を中心とした貴族文化が栄えた都であった。
8世紀の末の桓武天皇の頃、奈良から京都(平安京)への遷都がなされるがこの遷都に大きな影響力をもったのが藤原氏であった。
   京都は当時山背国葛野つまり山のむこうにある国として必ずしも人々が居住するには適当ではない場所であった。あえてここに新しい都造りがなされた背景には藤原氏とは別の一族の影響力があった。 それは、この地域にはやくから住み着いていた渡来系一族の秦氏である。
   実は、平安京に移る前に一度は長岡という場所に都造りを始めたのであるが、造宮責任者・藤原種継が暗殺されるという事件がおこり、あらためて平安京への遷都がなされたのである。 廃された長岡京の造宮責任者・藤原種継の母親は秦氏であり、また平安京遷都の造宮責任者・藤原小黒麻呂の妻も秦氏であった。
千年の都平安京の中心部、天皇の住居があるあたりは秦氏が所有する土地であった。
 この秦氏は謎に満ちた一族で、当時の渡来系の他の氏族と比較しても途方もなく高い水準の土木技術をもって新都建設の土台を築いたのである。
 この秦氏が葛野(平安京遷都前の呼び方)にあって本拠地といた場所は、太秦(うずまさ)という奇妙な名前の土地であった。
「太秦」の名前の由来を調べ秦氏のルーツを辿っていくと渡来系集団がやってきたと、一般にいわれている朝鮮や中国のはるか西方に栄えた文化と出会うこととなった。

NO2 秦氏のルーツを辿る

秦氏は、中国系渡来人で百済を経由して日本に渡来してきたという説が一昔前までは有力であった。
「日本書記」には、秦氏が百済から渡来してきたことが記載されているし、秦氏自身、自らを秦の始皇帝の子孫と名乗っている。
しかし当時の政治情勢からすると、中国出身と名乗ることは一族のステータスを高めることになるし、日本と友好関係にあった百済から渡来したと名乗るほうが好都合である。
 最近、かつての新羅(辰韓)の蔚珍(ウルチン)郡の発掘から、朝鮮における秦氏の本拠地と思われるところが判明したのである。
 秦氏は実は百済系ではない。秦氏創建の広隆寺にある仏像も新羅系の造りである。そして朝鮮語で彼等は「波旦氏」とよばれていた。
ところでこの「波旦氏」は「秦韓人」である。「秦韓人」(秦人)は、けして中国の秦国を意味するのではなく、「柵外の民」を意味している。
この柵外の民は、中国における運河や万里の長城の建設などに強制的に携わった人々である。
しかし、秦氏はけして朝鮮半島をルーツとした人々ではない。秦氏が日本にもちこんだものを仔細にみると、彼等が朝鮮を経由してはいるものの、はるか西方の文化に繋がっていることがわかる。

NO3 ユダヤ・キリスト教的な痕跡

京都にある秦氏の本拠地「太秦」には秦氏創建の広隆寺があるが、広隆寺はもともと「太秦寺」とよばれていた。
 景教(キリスト教ネストリウス派)研究の世界的権威・佐伯好郎教授はこの「太秦寺」に注目し、中国の唐にあった「大秦寺」と同じものがここにあり、広隆寺はもともと景教寺院であったと主張した。
さらに佐伯教授は秦氏の首長に対して与えられた称号「太秦」をヘブライ語で「光の賜物」と解釈した。佐伯教授の主張は学会の定説とはなっていないが、秦氏が他の渡来系集団とは異なる一族であることは、近くの秦氏創建の木島神社にいくとその感を強くする。
 木島神社は「蚕の社」(かいこのやしろ)とよばれる神社で、世にも奇妙な三角鳥居をみることができる。
この奇妙なオブジェの謎に挑戦した学者のなかには、三角鳥居はキリスト教の三位一体を意味していると主張する人達がいる。さらに、この三角鳥居に隣接してイスラエルの洗礼式場を思わせる「元糺の池」とよばれる小さな池がある。この「元糺の池」の「もとただす」は「罪を明らかに糺すこと」を意味している。
 ところで広隆寺に隣接した場所に秦酒公が創建した大酒神社があるが、その由緒書によると神社の名前はもともと「大辟神社」とよばれていた。「大辟」はで景教ではダビデを意味している「大闢」とよく似ている。
「大避神社」という神社が、秦氏が渡来した際に上陸した瀬戸内海の赤穂市坂越にもあり、千種川沿いに点在している。イエス・キリストは血統のうえでは「ダビデの子孫」としてベツレヘムで生まれ「ダビデの子」と人々によばれていた。
 また秦氏に誘致されたといっても過言ではない新都の名称「平安京」は、イスラエルの首都「エルサレム」と同義である。
またエルサレムの近くに琵琶湖と大きさも形も似た湖ガリラヤ湖がある。ガリラヤ湖は古代には「キテレネ湖」といい、キテレネは琵琶の意味である。

NO4 秦氏がもちこんだもの

秦氏が日本に渡来した時の天皇は、15代応神天皇であるが、この応神天皇のあたりから日本の古墳が巨大化する。16代仁徳天皇陵とともに、古墳の規模は秦の始皇帝陵やエジプトのクフ王のピラミッドを凌いで世界最大規模である。これは世界的に注目すべきことである。
 秦氏は、かつて葛野とよばれた複雑な地形をもつ京都を開発した高い土木技術をもっている。  もし秦氏の祖先が万里の長城や巨大運河の建設にたずさわったとするならば、その高い建築・土木技術はうなずけるものである。
 また秦氏は養蚕技術や後に雅楽とよばれる伎楽を日本にもちこんでいる。こうした分野は一般にシルクロードを伝わってきたといわれており、秦氏がシルクロードをたどってきた集団でありまたその交易と深く関係していた可能性も考えられる。
 さて日本書紀には、秦氏渡来について弓月君が百済より127県の人々を率いてやってきたと記載があるが、「弓月君」という名前は、シルクロードの通り道にあり中央アジアに栄えた「弓月国」と関連しているのではないだろうか。
ところで「資治通鑑」によると「弓月国」は「三カ月国」ともよばれており、「弓月国」は3世紀から6世紀ごろに栄えた「キリスト教国」だったのである。
この弓月国周辺には、ユダヤ人コミュニティが点在しており、キリスト教徒とユダヤ人が絹の貿易を独占していたのである。
秦氏はこうしたユダヤ人コミュニティとの深い関連が予想される。
さてこうしたシルクロード周辺のユダヤ人コミュニティはどのようにして形成されたのだろうか。

NO5 失われたイスラエルの10部族

旧約聖書の系図では、アブラハム・イサク・ヤコブと続き、ヤコブの子供達は12部族を形成していた。この12部族によって形成されたヘブライ王国は、ソロモン王の死後分裂し、地中海の東岸のパレスチナには、紀元前10世紀頃、イスラエル王国(10部族)と南のユダ王国(2部族)という2つのユダヤ人国家が存在していた。
 紀元前8世紀ごろにはアッシリア王国が勢力を伸ばし、紀元前721年にイスラエル王国の人々はアッシリアに捕囚となって連れ去られた。
ところがそのアッシリアも新しく台頭してきた新バビロニア王国によって滅ぼされ、北イスラエルを形成していた10部族はその行方を歴史の彼方に消してしまう。
当時、信頼できる歴史家ヨセフ・ファルビスという信頼できる1世紀のユダヤ人歴史家は、10部族は今日までユーフラテス川の東岸に住んでおり、その他はユーフラテスのはるか東方に移動したという記録を残している。
そしてシルクロード周辺にはイスラエルの失われた10部族の行方を示すいくつかの足跡を確認することができる。
例えば、アフガニスタンの「ユスフザイ人」、ミャンマーの「メナシェ族」中国の「チアン・ミン族」とよばれる人々はイスラエルの古い習慣と思われるものを保有している。  さてパレスチナからシルクロードにいたる人々の流れの中で注目すべきことは、こうした10部族の足跡ばかりではない。
イエス・キリストの死後成立した原始キリスト教団の活動である。
なかでもトマスやバルトマイによる東方伝道によってひろがったキリスト教は、ローマにひろがっていったキリスト教とは違い、かなりユダヤ的性格を保持したまま東方教会を成立させていく。後に中国にも伝わり景教とよばれる。
キリスト教伝道の主な使命は異邦人への伝道であったが、先に離散して成立していたユダヤ人コミュニティにも伝えられ、ユダヤ教徒からキリスト教への改宗者も多く現われた。 そうしたユダヤ人コミュニティを基礎として生まれた国のひとつが、秦氏との関連が予測される「弓月国」だったのである。

NO6 厩屋戸皇子

シルクロードをさらに東方に伸ばすとそこに日本がある。
日本におけるキリスト教は1549年にイエズス会のフランシスコ・ザビエルによって伝えられたとされる。 しかしキリスト教(景教)の影響やユダヤ的風習は、それよりはるか以前からみられるのである。 応神天皇の時代に多く日本にやってきた秦氏は、その後日本全国に離散していたが、秦河勝のもとに統率された。 秦河勝は、603年に太秦の地に広隆寺を創建し、当時最も有力な皇位継承候補者・聖徳太子のブレーンとなった。 聖徳太子の別名は「厩屋戸皇子」(馬屋で生まれた皇子)といい、イエス・キリスト生誕を思わせる名前である。 聖徳太子は、世界遺産ともなっている世界最古の木造建築・法隆寺の創建者でもある。
  この人物は日本における仏教の大成者と一般的にかんがえられているが、その事跡を仔細にみると意外なことにキリスト教の影響が強くみられる。
聖徳太子は大阪に四天王寺を創建したが、そこには「四箇院」とよばれる福祉施設が付属していた。敬田院(宗教・学芸・音楽の伝道)・施薬院(無料の薬局)・療病院(無料の病院)・悲田院(身寄りのない人の保護施設)の4つで、こうした施設における福祉的活動はキリスト教の影響をぬきに語ることができない。
聖徳太子によってはじめられた福祉的活動は、その死後、聖武天皇夫人の光明皇后によって引き継がれていく。
こうした活動は周辺諸国の仏教徒の間では行なわれておらず、シルクロードの景教徒の間でなされていたことである。  聖徳太子の死後、太子の后はその死を悼み「天寿国繍帳」をつくらせるが、この天寿国の構図はキリスト教の「天国」であり、仏教のものとは明らかに異なっている。
 そしてこの「天寿国繍帳」の構図をつくったのが秦久麻であった。
後世にまで伝わる聖徳太子像は、実権を握った蘇我氏などの仏教推進派により、仏教の大成者という形で確立していったが、当時すでに伝わっていたキリスト教の影響を消し去ることはできない。