秦氏は弓月君に率いられてまず九州北部へ渡来し、その後全国に広がっていたものと考えられいる。秦氏に関する資料はは全国的に存在し大規模な氏族集団であったことがわかるが、特に九州北部の宇佐地域や山城地方に多く関係資料が残されている。彼らはもともと遊牧民であったから、広い範囲にわたって移動し、日本全土に様々な技術をもたらせた。
彼らがもたらした技術の中には、新羅系の精銅技術があり九州北部・近畿の銅山などとの関係も深いとみられる。また記紀・新撰姓氏録の伝承などから秦氏と養蚕や絹織物との関わりも強いとみられている。
さらに東漢氏同様、朝廷内の大蔵・内蔵官人職との関わりが強く、文筆業・算術などにも長けていた。
 諸国に分散し、他の有力氏に駆使されていた秦の民が、雄略天皇の時代の秦酒公の時に集められてその支配下におかれた。秦酒公は秦の民を率いて養蚕を行い、調・庸として貢進したために、その貢進物が膨大な量にのぼり、朝廷にうず高く積まれたために、新たに朝廷内に大蔵を設け秦酒公を大蔵の長官として、秦氏がその出納の任にあたった。
 推古天皇の時代の秦河勝の頃から秦氏の歴史的活動がさらに活発化する。秦河勝が広隆寺を造った8世紀には日本の国家統一事業がほぼ完成した。 その後の長岡京・平安京など宮都建設に関し秦氏が多く関わり秦氏とその土木技術が大きく影響を及ぼした。
秦氏が半島から携えてきた技術は、土木灌漑・養蚕・機織・酒造にわたり驚くほど水準が 高く桂川に大堰をつくって流水量を調整しえた技術は他の諸氏族をよせつけなかった。

ドイツの哲学者・ヤスパースの言葉より
私は今まで哲学者として、人間存在の最高に完成された姿の表徴として、色々のモデルに接してきました。古代ギリシアの神々の彫像も見たし、ローマ時代に作られた多くのすぐれた彫刻もみたことがあります。しかしながらそれ等のどれにも、まだ完全に超克されきっていない地上的人間的なものの臭みが残っていました。理知と美の理想を表現した古代ギリシアの神々の彫像にも、地上的な汚れと人間的な感情が、まだどこかに残されていた。キリスト教的な愛を表現するローマ時代の宗教的な彫像にも、人間存在の本当に浄化されきった喜びというものが完全に表現されてはいないと思います。それ等のいずれも、程度の差はあっても、まだ地上的な感情の汚れを残した人間の表現であって、本当に人間実存の奥底にまで達しえた者の姿の表徴ではないのです。然るに、この広隆寺の弥勒像には、真に完成され切った人間実存の最高の理念が、あますところなく表現され尽くしています。それは地上に於けるすべての時間的なもの、束縛を越えて達し得た人間の存在の最も清浄な、最も円満な、最も永遠な、姿のシンボルであると思います。私は今日まで何十年かの哲学者としての生涯の中で、これほど人間実存の本当の平和な姿を具現した芸術品をいまだかつてありませんでした。この仏像は我々人間の持つ心の永遠の平和の理想を真にあますところなく最高度に表徴しているものです。

広隆寺

聖徳太子・推古天皇の時代に生きた秦河勝は、秦氏伝承の中心的・始祖的人物であり推古十一年に聖徳太子が、仏像を得て、それを秦河勝が進んで奉斉することを引き受けている。その仏像奉斉のためにつくられたのが峰岡寺つまり後代の広隆寺とされる。

広隆寺本堂

秦氏の人々が多く住んだ京都・太秦(ウズマサ)の広隆寺本堂には阿弥陀観音如来像や弥勒菩薩像をはじめ多くの国宝が保管されている。 広隆寺はももともは景教(中国にわたったキリスト教)の寺であったという説がある。

大酒神社

広隆寺すぐ近くにある秦氏創建の大酒神社。その由緒書に、神社の名前はもともと「大辟神社」とあり、「大辟」は中国ではダビデを意味している。秦氏の先祖は、古代イスラエルの王であったダビデをしのんで建てた神社なのか。

木島神社

太秦にある「蚕の社」または「木島坐天照御魂神社」。由緒書に「ここは景教(ネストリウス派キリスト教)が渡来し、秦氏と関連があったことの名残をとどめる遺跡として伝えられる」とある。

三柱鳥居

「蚕の社」(木島神社)には全国でもめずらしい「三柱鳥居」がある。鳥居ではあっても門ではなく 池の真ん中に立てられている。学者は秦氏が信仰していた三位一体の神を象徴するものだといわれている。

蚕の社

木島神社は秦氏創建の寺である。秦氏一族は当初養蚕と絹織物業にたずさわる人々でした。 シルクロードにおける絹の交易はユダヤ人やキリスト教徒が独占していたが、秦氏が日本にやってきて 機織(ハタ織り)という言葉が使われるようになった。

元糺の池

山柱鳥居の立つすぐ横の池は境内に伸びている。ここは三位一体の神への信仰を表明するものが 洗礼をうける洗礼池となっていた。この池は「元糺の池」(もとただすのいけ)とよばれ、改悛と信仰 の意味をこめたものであるといわれている。

蛇 塚

巨石が全部で20個ほどつみかさねられている場所が広隆寺のすぐ近くにある。
これが秦氏の首長を葬ったといわれる横穴式の前方後円墳である。 もちろん建設当時は石室の上部に墳土が盛り上がっていたのが、雨水に洗い流され いまはただ石室だけが露出している。
かなり以前、石室の中には蛇が群棲していて、それが蛇塚という名のおこりとなったものらしい。

松尾大社

また松尾大社は秦氏の氏社であり、およびその松尾大神は古事記に山末之大神として挿入されて見えることなども注目すべきである。あと雅楽との関わりも深く、中世の文献にも四天王寺などと関連して秦氏との関連が強くみられる。境内には酒造資料館があり、江戸時代のころからの酒造に使った道具などが展示してあり、右写真のような「日本酒造第一の神」の石碑は、秦氏と酒造との関係を示しています。

葛野大堰

葛野川は上流を保津川・桂川といい京都の西を流れる。秦氏が6世紀のころ大堰をつくって嵯峨野を 開発した。平安京造都に際しては、丹波山国地方の材木が保津川・大堰川を利用して運ばれた。 江戸時代の角倉了以は1606年3月、丹波との舟運を通じるために大堰川開鑿工事に着手、8月完成した。

宇美八幡宮


斎明天皇の子・応神天皇の生誕地にある福岡県粕屋郡宇美町の宇美八幡宮。 応神天皇は、秦氏を受け入れた時の天皇である。 秦氏の故郷・弓月は「天山山脈」ちかくにあり、天山という地名は九州各地にある。 応神天皇の時代より古墳が巨大化し、秦氏の土木技術が関係しているとも考えられる。