マナとしての脳死

人間の活動の中で一部をとりだして、他人の支配下で働き、それに対して給与が支払われるという極めて特異なこと、つまり「労働力の商品化」が広範に拡がるのは産業革命以後であるが、その特異なことはそれ以前からぼつぼつと起こってはいた。
例えば江戸時代、東海道五十三次の旅の過程で、大井川は軍事的な理由から橋がかけられず箱根の山とともに難所の一つであった。
川を泳いで渡った旅人も多かったが、川越を人夫に依頼して行う場合には金を払わなければならなかった。肩に跨る、連台に乗る、駕籠に乗る、駕籠をそのままのせる大高欄連台に乗るなどがあった。
肩にまたがり川を渡る場合、その時々の「水かさ」によって人夫に支払う値段が異なり、アダム・スミスのいう「労働価値説」そのものであった
水かさと値段を股通48文、帯下通52文、帯通58文、帯上通68文、脇下通88文、脇通94文というように示し、同じ川を渡るでも人夫の労力をそのまま反映して値段が決まっていた。水カサが脇以上となると川留めとなった。
ファーストクラスといってよい駕籠に乗って川を渡る場合には、現在の相場に換算して1万円ほど支払ったから、江戸の旅は結構な金を要したといえる。
大井川の川渡の話は「人間労働の値段」を素朴な形で教えてくれるが、「人の命」の価値を素朴に教えてくる尺度はないだろうかと思った
「人の命」の価値など誰に決められるわけではないが、様々な事故の際して支払われる補償額というものがあり、これをこの世における「人の命」の価値尺度のひとつとみることもできる。
古いデータであまり参考にならないが、「お金雑学事典」という本でみると、1954年青函連絡船「洞爺丸」沈没事故で一人56万5千円、1966年の全日空機羽田沖墜落事故で一人500万円、1975年の青木湖バス転落事故で一人2810万円である。
保険会社は「人の命」価値の算定基準は、基本的にはその人が事故に遭わなければ得られたであろう収入(家族全体分の何分の一か)プラス賠償額プラス葬儀代ということになる。
結局「人の命」の価値を考えるのは結局その人の年齢や年収などに大きく左右される。仮に「人の命」の価値を1億円とみて交通事故(死亡事故)を考えると、自賠責保険は支払われる最高限度額が2000万円程度だから、任意の自動車保険で8千万円程度支払の保険にはいるのが望ましいことになる。
ところで「人の命」の価値を調べるうちに、人間の体の一部(パーツ)を損傷した時の事故の補償額を示す「後遺障害別等級表」なるものが存在することを知った
例えば「指の値段」からみると、親指と人差し指を失った場合が第七級で1051万円、中指薬指を失った場合が第十一級で331万円、小指を失った場合が第十三級で139万円が支払われる。
その他面白かったのは、女子の「外貌に著しい醜状を残すもの」が第七級で1051万円、男子の「外貌に著しい醜状を残すもの」が第十四級で75万円と男女でかなり格差がある。ちなみに男子の第七級には、「両方の睾丸を失ったもの」となっており、「女性の顔と男性の睾丸が同じ価値」をもつことになっている。

ところで人間の歴史を振り返ると、人間の活動の一部である「労働力」が売られ給与が支払われるよりも、労働そのものつまり人身売買の方がはるかに古くからあった。
そして最近の特徴として、非合法ながら人間の体の一部「臓器」が売買されることがおき、現代の人身売買は「奴隷化」ではなく、この闇「臓器」売買と関わっている。
もっとも芥川龍之介の「羅生門」でみるとおり平安時代には髪の毛を死体から奪って売ろうとした老婆がいたが、「髪の毛」とちがい「臓器」は人間の生存に関わる不可欠なパーツであり、それを切りだして他者に移し替える行為は、人間の生命観や死生観との関わりで非常に本質的な問いを投げかけることになる。
人間は「心臓死」→「脳死」→「呼吸停止」という自然の流れにゆだね「呼吸停止」をもって死亡宣告されることが望ましいと思う。(「呼吸停止」は誰しも納得できる確実な「死」である)人間もたとえ病んだとしても自分に与えられた体で一生を送ることが自然なことだと思う。
しかしながら交通事故などで脳を破損して病院に送られた人が先端医学のおかげでたまたま「脳死」の段階で踏みとどまったとする。
しかし「脳死状態」は「植物状態」とは違い再生の可能性は「ほとんど」ない、人工呼吸器を装着することによりどんなに「命の風貌」を保とうと、人工呼吸器をはずせばすぐに自然な死へと移行する状態をいう
新しい臓器がありさえすれば命が助かる人が多くあり臓器移植の技術が実際にある以上、自分の臓器を他人の臓器として使ってもらいたいと思う人、またはその人の親がいることはありうる。
最近「脳死を人の死」とするか(改正)臓器移植法が国会で成立したが、「臓器移植」で一番の問題は、「脳死」と「植物状態」との混乱があるのではないかと思う。
死に直面する人がタイミングよく人工呼吸器をつけられ、全身の組織が死ぬ前に脳幹に代わって呼吸を可能にさせることができる。
逆にいうと人工呼吸器をはずすと人の命は終わってしまう。これが「脳死状態」である。つまり「人工的に」生かされているわけだ。
一方、「植物状態」の場合には脳幹の外側の大脳が破壊された状態で、脳幹そのものは働いており、自分で呼吸もでき、食物も喉まで入れてやると消化し排便もでき、汗もかけば、まばたきもする。ただ意思や感情など自発的な反応ができないというにすぎない。
人が再生可能なのは「植物状態」のことで「脳死状態」のことではない
日本人は死体にメスを入れ傷つけることに対して抵抗観があるようである。キリスト教では霊魂と肉体の分離、あるいは「復活」の信仰があるが、復活は「新しい体」を身に着けるから、死体にメスをいれることにはそれほど大きな抵抗感はないのかもしれない。
改正臓器移植法で「脳死は人の死」としても、別に脳死した人全員が臓器を提供せよといっているのではなく、それを拒否することができるから「脳死は人の死」を無理強いしているわけではない
例えば亡くなった子供の臓器がだれか他の子供の中で生きていると思うことが慰めであり救いと考えうる人だけが「臓器提供」に応じればよいのである。
ただ今度の改正臓器移植法が現行法と違うのは、脳死になった時に臓器を提供しようと考えていたか不明確な人でも、家族の承諾で提供できるようにした点である。
これまで本人の意思を確かめる手立てとして用意された意思表示カードが思うように普及せず、脳死での臓器提供は年に10件前後だった。本人の意思が書面という確かな形で残されているかどうかがポイントであったが、今回の改正はそれをフリーにしたのである
いままで日本で「脳死」による臓器提供が認められていなかったため、手術をうける為に海外渡航する人が増えたが、そのためには相当な金を必要とする。
それだけの経済力がない人、募金に頼るほどの勇気がない人にとっては、現行臓器移植法は経済力による「命の格差」を生むものでしかない。
安さを求めて「闇」に恃む可能性もでてくるし、それが自然で健全な状態とは言い難い。

繰り返すが人は呼吸停止に自然に至る死が摂理であるし、どんなに病んだとしても自分の与えられた体と付き合いながら与えられた命を生きていくのが摂理だと思う。だが一方で宗教的な悟りでもない限り、少しでも長く生きる可能性を求めるやみ難き気持ちがあることを誰も否定することはできないと思う。
脳死は近代医学を学んだ医師達が新たに見出した死、あるいは近代医療機械が生みだした死というべきものである
哲学者・梅原猛氏らが主張するように、脳死は臓器移植のために「作られた死」ではなく、日本の心臓移植第一号「和田移植」の札幌医大の医者であった作家・渡辺淳一氏の主張するようにそれは「発見された死」であり、「臓器移植」の問題はその後に云々されるようになったのである。

「臓器移植」についての記事を読むうちに旧約聖書にでてくる食べ物「マナ」を思い浮かべた。
マナ(Manna)は旧約聖書「出エジプト記」に「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる」(出エジプト記16:4)とあり、イスラエルの民がシンの荒野で飢えた時、神がモーセの祈りに応じて天から降らせた食べ物である。
この時人々は「これは何だろう」と口にし、このことから「これは何だろう」を意味するヘブライ語のマナと呼ばれるようになった。
旧約聖書の記述によると、露が乾いたあとに残る薄い鱗もしくは霜のような外見であり、コエンドロの実のように白く、蜜を入れたせんべいのように甘いとされる。
早朝に各自一定量ずつ採って食べねばならず、気温が上がると溶けてしまう。また余分に採取する事も許されず、食べずに置くとすぐに腐敗して悪臭を放つ。ただし安息日には降ってこないのでその前日には二倍集めることが許されている。カナンの地に着くまでの四十年間、イスラエルの民の食料だったという
マナには様々な自然物が想定されているが、それが生存が難しい過酷な環境で40年間にも亙って群衆を養ったわけだから、何か超自然的なものを感じさせる。
「脳死」という「新たな死」の発見は、新たな臓器がありさえすれば生き延びられる人(ひいては人類)にとっては「マナ」のように与えられた天佑ではないかと思う

「聖なるもの」の傍らにいつも暗黒が寄り添うように存在する。
最近、梁石日作の実録映画「闇の子供達」では、タイで生活苦のために健康な子供を売買するなどの闇の売買の実態が明らかにされている。その人身売買目的は「臓器」の入手のためである。
またアメリカでは「臓器ビジネス」が発達し、距離を得るブローカーや臓器が欲しいが為の殺人事件もおきている。また「臓器移植」が貧困ビジネスとして悪用される可能性もある。
「脳死を人の死とする」ことの一番の問題は、人間の希望と暗黒とを先鋭化しつつ、ついには芥川龍之介が書いた「蜘蛛の糸」のような世界を呈しかねない危うさにある、と思う。