擬似優生学社会

政治の世界で小泉チルドレンから小沢チルドレンへと騒がれているが、いい年した大人が「チルドレン」呼ばわりされるのは、当人からするとあまりいい気持ちはしないだろうが、マスコミは面白がってそう呼んでいるフシがある。
ただ世界の現況からすると「○○チルドレン」とは、生身の子供達が追いやられた深刻な事態を指す場合が多いので「チルドレン」という言葉の使用はあまりいい感じがしない。
日本ではようやく「ホームレス中学生」が世間で騒がれるくらいだから、まだまだ子供の環境は世界的に見ると随分恵まれているが、世界には「ストリート・チルドレン」や「マンフォール・チルドレン」と呼ばれる子供達の実態がある
モンゴルは自給自足を基本とした社会主義体制での暮らしが続いたが、急激な市場主義経済に移行する過程で社会が大混乱した
人々はカネが絶対的ウエイトを占める社会体制の変貌に翻弄され、その波に乗れない人々は家族ごど崩壊していった。
多くの子供達は家族の離散とともに路上生活に強いられ、マンフォールを生活の拠点とし「マンフォール・チルドレン」という言葉が生まれた。
今の日本で問題化している「幼児虐待」等も行き過ぎた市場経済や社会的価値観の崩壊と無関係ではないと思われる。
またルーマニアでは、チャウシェスクの独裁下での人口増加政策にもとづき、避妊や中絶手術が禁止され、最低4人の子どもをもうけると食料などの配給がもらえることから、たくさんの子どもたちが生み落とされることになった。
しかし独裁政権が倒れ食料の配給もなくなった時、そうして誕生した子ども達は都市に捨てられることになったのである。 彼らは「チャウシェスクの子供達」とよばれている。

日本でも終戦直後、いわゆる戦災孤児が街にあふれた時代があった。GHQの兵隊にチューインガムやチョコレートをもらう姿を時々写真で見る事ができる。そんな時代の朝日新聞に 「偽札つくり」の小さな記事が人々の目をひいた。
長男に戦死され、自分は神経症で働けなくなった54歳の図案工が、激しいインフレの中、家族を養うために手書きのニセ百円札を作った。
一家は、ふとんも家具も売りつくし、燃料も買えずに、冬の夜を押入れの中で抱き合って耐えていたという。
にせ札作りといっても、描く枚数は本当に生きる為の最低限のためだけものだった。
作っていたニセ札約百枚のナンバーは、戦死をとげた長男へひたすらわびる言葉「二三四七九七」(兄さんよ泣くな)と「七九七四ニ三」(泣くなよ兄さん)ばかりだったという。
図案工が作ったこの偽札が実用に耐えうるものかは知らないが、新聞の口調からするとこの男の偽札つくりを弾劾するというものではなかったことは明らかだった。
新聞はむしろ、無名の人の生活苦の訴えをこうしたエピソードの中に込めたというものだった。
戦争中は国策として「産めよ増えよ」のスローガンで、その分多くのを養わなければならない人々の生活は苦しくなっていった。終戦直後の「偽札」つくりの人々もこうした国策の犠牲となった人々であった
この「産めよ増えよ」の時代に山本宣二という一人の生物学者が「産児制限」を訴えた
山本は、統計にあらわれる職工などの貧困に注目し、都市にあふれる塗炭の苦しみをつぶさにに調査した。そして、国の救済が事実上存在しない以上は、人々が貧困から免れるためには「産児制限」の考えを啓蒙していく他はないと考えた。
そして山本は日本で初めて性科学を研究し「産児制限」を訴えるためにその成果を全国に講演してまわった。 ところが1924年、鳥取での講演中に、内容が猥褻にあたる畏れありとして警官に引きずり降ろされ、京大講師を依願退職する羽目に陥る。
その後、山本宣二の活動は労働者や農民の生活を向上をはかった無産運動と結びつき、山本は日本初の普通選挙で労農党から立候補することになった。
ところが1929年の普通選挙では、同時に社会主義弾圧のために治安維持法がつくられていた。治安維持法により労農党は結党後一か月で解散を命じられ、山本は落選した。
しかしそれにもめげずに山本は講演活動を続けたが、1925年神田の旅館で右翼によって刺殺された。山本の墓碑銘には「山宣一人孤塁を守る」とある。

ところで世の中に自分の優秀さを自覚する人は多くいるが、その優秀な種を世のためにたくさん残そうとまで考える人はそう多くはいないと思う。
私の知る限りではノーベル賞経済学者サムエルソンは十人ぐらいの子だくさんである。
サムエルソンの息子はも一人のノーベル賞経済学者アローの娘と結婚したところを見ると、二人に真実の愛があったかどうかはよく知らないが、些少ながら優生学的発想を垣間見るような気がするのです。
日本では幕末の兵法学者・佐久間象山も露骨にそういう人であった
象山は、開国か攘夷かで国論を二分した時代に一貫して「開国論」をとなえたために優れた先覚者の一人に数えられ、尊王の志士達からすればカリスマ的存在だった。その象山は1864年、テロにあいあえなく亡くなってしまう。
象山は、その先祖が越後上杉家二十四将の一人で智将といわれた斎藤昌信であることを無上の誇りとしていた。
象山は日本人は世界で最も頭が良いと考え、さらに自分を最高の頭脳の持ち主だと思っていたようだ。そのせいで自分の種をたくさん残すことが社会貢献と考え、知人に健康な子を作るために妾を周旋してもらっている。
象山が知人に書いた手紙には「西洋では衛生・生理の学問が発達し、また優生学や遺伝子などというものがあって、それによると健康な子供は健康な母体に宿るとなっているのに、日本では婦人の体格のことなど全く閑却して顧みないためため、年々弱小化して行くのはまことに憂うべきだ。
それにつけても、自分は体格、精神ともに立派な子供を得たいが、容貌の美醜などは二の次でよろしい、まず体格優秀な婦人で、特に臀部の発達した女性を世話していほしい」とある。
合理的といえば合理的で、「増産」先生とでも呼びたくなります。
佐久間象山は三人の妾をもち、合計で三男一女の子供が生まれるが、皮肉なことに一男以外はすべて病気で早逝している。一人残った男の子も凡才であることが早くから判明し、象山の期待通りには育たなかったようだ。

優生学は、「劣った遺伝子」を排除して優秀な民族と国民を作り出すために発達した学問である。
日本では1948年に制定された優生学的な色彩を帯びた優生保護法があった。
しかし「優生保護法」とはなんと不吉な言葉の響きでしょう
この法をもとにハンセン氏病患者の隔離政策が行われてきた。そういう人権侵害の反省をこめてか、優生保護法は改正され1996年母体保護法となった。
今日の少子化傾向には様々な要因があるが、子供は優秀でなければ生きにくいとか、子供は強くなければ苛められるのではとかいう気持ちが、子供をもつことへの桎梏となっているのかもしれない。
そういう自主規制が働くところでは、結果的に擬似的な「優生学」社会が実現しつつある気もするのです
またDNAの問題だけではなく、子供を優秀で強く育てる為には、相当な金がかかるということもある。
社会(or 国)全体で優れた子供作りのプロジェクトみたいな「優生学的」発想がひろがっていくと、結果、擬似「優生学」社会を作っているのかもしれない。
しかしそうして育った子供が必ずしも社会的適応者とは言えないし、また「劣った遺伝子」を拡大解釈するととんでもない社会が生み出される
幼児からの「天才教育」は天才をうむかもしれないが、鬼子を生みだすかもしれない。
理系ばなれをくい止めたいのはヨシとしても、「ス-パ-・サイエンス・クラス」とは、少々不気味な響きのある名称ではありませんか。