ダムの住人達

ダムを見に行ってあまり良い気がしたことはない。福岡県南部の矢部川の幽玄な渓谷から日向神ダムを見げて感じたのは、とてつもない無機質の壁ということしでしかない。
ダムは自然の中にあって異様なオブジェであり、あの深い水底に自分の故郷や先祖の墓が没していると思うのはあまり心臓によくない。己の魂までが沈められてしまったかのように思えるからだ。
自分の水没した故郷を探しに乾季にダムを訪れる人も多いと聞く。

最近のホットイシュ-の一つは、群馬県八ッ場ダムの建設とり止め問題である。
800年の歴史をもつ川原温泉の地でそれだけに住民はダム建設反対を続けた処なのだ。補償交渉が進み年ついにダム建設がはじまったが、工事は途中15年も延期されその分、生活の見通しの立たない住民は「宙づり」された時間が延びたといってよい。
八ッ場ダム建設では計画から57年をへて、総事業費4600億円をかけその70%の事業が進んでいるという。
テレビではダムを一目見てあの世に行きたいという高齢者など、住民の多くが工事中止に反対しているが、住民の本当の気持ちは充分によみとれないのが正直な気持ちだ。
石川達三が1957年に書いた「日陰の村」というダム建設により水没する村を描いた実録小説がある。
この小説でわかるのは、ダム建設をめぐる経過は今に至るまで非常に似通っていることだ。
つまりダム建設は、同じ芝居が所と役者を変えて全国至るところで演じられており、初演が、現在の奥多摩湖ダムに沈んでいる小河内村ということになる。
普通人間は自分の生活の永続性を前提に生きている。だから子孫に良い土地を残そうというという気持ちで働く。
しかし水没する村はそこで行き止まりであり、代替地での新しい生活は不透明なものにちがいない。
しかもダム建設がいつまでも始まらない状況が長引き、住民達の心は「生殺し」のような状態に陥っていく。石川達三が芥川賞受賞「蒼眠」の次作品として書いた「日蔭の村」は、そうした住民たちのそうした心理の動きを描いている。

膨張する東京の飲料水確保のために西多摩郡小河内村にダム建設計画が持ち上がったのは1931年のことだった。
「日蔭の村」のタイトルの意味は、東京という大都市の発展につれ大木の日蔭にある草が枯れていくように犠牲となって枯れてゆく村という意味である。
移転計画が具体化して村はダム建設受け入れを了承したのだが、近く村が無くなるという空気の中で、村人の日々の生活は急激に変貌していく
補償金がちらつくし、山林を宅地に替えて補償費のつり上げを図る者まで出くる。疑心暗鬼が進行し人々の絆は失われていく。
養蚕も、炭焼きも、道の補修なども行われなくなり、滅びの萌芽を感じさせる。滅びの予感の中で、人間はそうがんばれるものではない。
さらに1933年6月に転機がおとづれる。調査の結果、断層の存在が明らかになり、ダム建設地点を下流六キロの水根集落にする案が浮上した。この案の受け入れを巡る議論や行政当局の密かな代替ダム案の検討など、さらに2年にわたって不毛な議論が続き、山峡の空気はさらに淀んでいく。
ダム計画直後から生産活動をやめた村の財政は日増しに逼迫し、また個々人の暮らしも補償金を当て込んだ借金とそれを取り巻く不動産ブローカーの暗躍で追いつめられていく。
もともと4457町歩あった土地が 補償交渉締結直前には1630町歩だけを残すのみになっていた。
計画から5年半の間に借金の片に売られたり、あるいは不動産ブローカーに買い占められて少なくなっていたのである。
そのうち建設地点の論議は二の次となり、なにがなんでも早期ダム建設推進こそが主要命題となっていった。1937年12月たまりかねた村民達は、ムシロ旗をかかげ、夜明けとともに押し出していくが、出勤した青梅署の警察官に阻止され、多くの怪我人を出しつつも阻止線を破った百人ちかい村民はついに東京市内に入り内務省などにおしかけ、ダム促進の陳情に成功する。
そして、1938年になって、小河内ダム起工式の運びとなり、村人念願の用地補償交渉が始まる。
しかし2~3年経ても補償交渉は難航した。そんなかで小作・自作の零細農家は娘を売りとばさねばならないような窮地におちいり、足元を見すかされた村民にはきわめて低い補償金しか与えられず、遠くは満州開拓団、あるいは八が岳山麓の開拓団として、根を引き抜かれたように四散していく運命をたどる。
さらにダム建設工事は1943年に戦争で中断し、戦後1948年に工事が再開された9年後の1957年にようやく完成している。
実に計画から26年もの歳月が流れ、945戸の家が湖底に沈んだ。
ちなみに住民が「翻弄されてきた」という八ッ場ダムは、計画から実に58年がたっている。

「日陰の村」で哀しいのは、ダム建設が遅れ宙に浮いたような状態の住民たちが最後に国にコビを売っていかねばならなくなったということである。
これとは対照的に、熊本県と大分県の県境の下筌ダム建設につき国との交渉を断固拒否し、木札で「面会断り」と掲げた山林地主・室原和幸の下筌ダム反対の戦いは、今後の公共事業の在り方へ根本的な問いを投げかけることになった。
下流の久留米が大水害に見舞われており、室原は最初からこの地のダム建設に強く反対したわけではなかった。
しかし、ダム建設の為にこの地を訪問する役人達の態度は室原の矜持を著しく傷つけたといってよい。
例えば、「建設省は地球のお医者さんです。信頼して任せて下さい」といった小学生を諭すような言い方をするかと思えば、「日本は戦争に負けたんです。それを思えばこれくらいの犠牲を忍ぶことが何ですか」といった高飛車な威嚇をする。
そうした横柄さの一つ一つが室原の逆鱗に触れたこといっていよい。
早稲田法学部卒業の室原は、地元では「大学様」とよばれていた。すでに60歳を超えていたが、国との戦いに備え自宅にこもり六法全書を片手に憲法、土地収用法、河川法、多目的ダム法、電源開発促進法、民事訴訟法、行政訴訟法までをも跋渉した。
最新の雑誌にも目を通し、国との間での訴訟は75件を数えるに至った。
室原は国との戦いで知謀の限りをつくした。たとえば国は土地収用法14条の適用にあたり、測量に当たって已むをえない必要があれば障害となる伐徐を県知事の認可で出来ることを定めているが、その障害物を「植物若しくは垣、柵等」と限定している。
これを字義どおり解釈すれば、小屋は厳然たる構築物として伐除の対象外となるはずだと考えた。
住民等は民法上の権利を設定すべく、居住性を具備した小屋をますます増やしていく戦術にでた。
つまり実用よりも法的戦術のために小屋をつくりはじめ、いつしか黒澤明の「蜘蛛の巣城」にちなんで「蜂の巣城」とよばれた
国側(建設省)は、小屋を法的に除去できるか解釈論が分かれたが、ふと河川予定地制限令という明治以来埃をかぶって埋もれていた重宝な法令を思い出した。
ただちに国は、標高338mのダム湛水予定線下の全域を河川予定地として制限令の適用区域とすることを告示した。つまりこれらの小屋を河川敷内の違反物件として除去できるからだ。
国はしてやったりの思いであったろうが、室原はこの法令は河川工事によって新たに河川となるべき区域に適用すべきことを明確にしているが、ダム建設工事がはたしてこの河川工事の範囲に属するかという反論を出して応戦した。
下筌ダム建設期間中、建設大臣は三人変わったが、変わるたびに室原知幸に会見を申し入れることが恒例になった。国にコビを売るどころか、逆に国側が室原にコビを売った感さえする
もちろんこれは、この地で北里柴三郎を生んだ北里家と並ぶ室原家の山林地主としての財産がそれを可能にしたともいえる。
しかし裁判費用は室原一人の拠出であったにせよ、一般の村民は監視小屋につめることなどにより、その間働くことさえできず、長期の闘争は日稼ぎに頼っている者にとっては深刻だった。
この巨大化し過ぎた戦いの決着がいつどのような形でつくかという不安が増し、住民達が生活の糧をこの地以外に求めるにつれて、蜂の巣城も縮小して室原の孤軍奮闘の様相を呈していった。
森を守るためのダム建設反対の費用捻出の為に山林を売らなければならなかったのは、皮肉なことであった
こうした蜂の巣城主・室原に会うこと自体困難であったが、国側の人物として室原が唯一語りあえたのは、後に室原に決定的な敗訴を言い渡す高等裁判所判事・石田哲一であった。
蒋介石との戦いで延安の洞窟にこもった毛沢東と世界で初めて単独インタビューに成功したエドガ-・スノ-を思い出すが、この場合、係争中の裁判の判事との会食(原鶴温泉)をするという異例のものだった。
裁判の主要なポイントは、室原側は筑後川の治水のためには上流ダムよりも下流の河道拡幅や堤防高上げなどの整備こそ効果的と主張したのに対して、国側はすでに改修は進んでおりそれだけでは目的果たすことができないと主張した。
作家の松下竜一は「砦による」の中で、石田裁判長は室原側に敗訴を言い渡す判決文で「室原に勝たせたいが、勝たせてあげられない」苦衷がにじみ出ていたという
「裁判官の独立」は教科書的な建前であっって、現実の裁判、特に行政裁判では政治判断が作用する。
何しろ下筌ダムの建設の成否は、全国のダム建設の成否に関わるだけではなく、高度成長を下から支える土建行政をも根底から揺るがしかねないからだ。
後に、裁判官・石田一哲は室原邸を訪れ判決につき謝りにきたというから、破天荒な裁判官だったとも、それだけ室原に心服していたともいえる。
敗訴後、室原はダム現場に訪問に来たものに「ダム反対」を逆に「対反ムダ」(大半無駄)と読ませたが、室原が築いた人々の内側に築いた「砦」はけして崩れはしなかった。
室原が語った「公共事業は法にかない、理にかない。 情にかなわなければならない」は、その後の行政闘争の灯火として生かされていった。

*ここでダム建設問題について書いたのは、公共事業の問題に興味があったというよりも、ダム建設により水没し、未来への展望を遮られてしまった住民達の姿が、どこか日本人全体ひいては人間界(Mandom)の縮図のようにも映ったからです