カオスと出会った人々

一流の学者や芸術家には、幼少より神童の誉れをうけ順風満帆の秀才人生を送った人が多いのだろう。
仮に政治的弾圧などを受けて亡命生活を余儀なくされて波乱の人生を歩んだとしても、それはむしろ「優秀さの勲章」とみてよい。なぜならその人物が弾圧に値するほど影響力があったことを意味するのだから。
だが正味「落第」などというあり難くない勲章をうけた学者や芸術家達も結構いるもので、これは凡人からすればむしろ励みになったりする。しかし彼らが優秀でなかったかというとそうではなく、「通常の尺度では測れない何かをもった人達」であったのかもしれない、と思うのだ。
ある一人の歌好きの大阪商人がカラオケを発明し「世界の夜を変えた」といわれるが、世界の夜を変えた日本人がもう一人いる
現カリフォルニア大学サンタバ-バラ校の教授中村修二氏である。中村氏が開発した「青色ダイオ-ド」はそれまで実現していた赤と緑のダイオ-ドの色の光の調合を変化させることによりすべての色を表現することが可能になった。中村氏は、四国の地方大学から地場産業に就職し、たった一人の開発部で働いていた。
しかし会社に言われた通りの製品を作っても、製品が売れなければ自分のせいにされることについにキレタ。
会社の言うとおりやっても評価されないならば会社の言うとおりにはしない。会社という組織の中にいながら、自分で思い通りの開発をするというトンデモナイ行動に出た。
暗黒混沌の日々が続きそこから脱しようと異常なまでの集中力を傾け、その結果奇跡が起こった。
中村氏は学生時代を通じ決して優秀な研究者ではなかっという。私はこの言葉を謙遜とは受け取らない。
氏は組織と個人の狭間の浅い「カオス」体験を通じて破滅にでもむかうかのように前へと進んでいった。
つまり自分の中で陥ったカオスに近い体験こそが創造の動機となっているということ。なぜならば「カオス」を整序しようという働きこそが新しい理論の枠組みをつくったり、その人にしかない表現法というものを生み出すのではないだろうか
こういうカオスを深めることによって湧出する能力は概して早熟なものではない。様々な養分を吸い込んではじめてチカラ強く奔出するものなのだ。
以下はそうしたカオス体験をチカラへと変換した二人の人物のお話である。

私が尊敬する学者にレオン・ワルラスがいる。ワルラスは1834年フランス生まれのスイスの経済学者である。社会経済が相互依存の世界にあるということをこの人ほど具体的でクリアな形つまり気持ちのいいくらいの数式で示してくれた人はいない。
ワルラスの「一般均衡理論」は、相互依存という意味で形式上は「エコロジ-」の世界とも似通っており、社会経済を全体としての「均衡」として捉えている点では古典派経済学アダム・スミスの延長線上にある。
時に、ワルラスの一体どんな経歴がそうした世界観と理論を育んだのかと思うのである。
ある商品の価格は需要と供給によってきまる、というのは中学生の教科書で習うことであるが、よく考えてみるとある商品の価格は、他の財の需給や価格からは完全に独立ではありえない。他の商品の需給や価格にも様々な形で影響を受けているのだ。
紅茶の需要は、コ-ヒ-の価格にも影響されうる(代替関係)、また砂糖の価格にも影響されうる(補完関係)。とするならば商品はその商品自体の需要と供給によって単独できまるのではなく、様々な他の商品の需給に影響され全体としての価格体系によって決まるのである。
結局、そうした多数の財の需給を同時にクリアさせる価格体系(価格ベクトル)を追求するのが、「一般均衡理論」なのである。
ワルラス以後は、こうした均衡値としての価格体系が実際に「存在するや否や」、均衡から乖離したら元に「戻るや否や」つまり体系が安定的かどうか、などということを数学的手法によって発展的に理論化されていく。
つまりワルラスは経済学の世界に物理学的な手法が持ち込まれるきっかけを作った人物といってよい。
だがワルラスの学者としての人生は、必ずしも順風満帆とは言いがたいものであった。
ワルラスは1834年、フランスのエヴルーに生まれた。フランスのエリ-ト養成校であるエコール・ポリテクニークを受験するものの数度失敗し、パリ国立高等鉱業学校に入学したが間もなく中退した。
授業に興味がもてずむしろ哲学、歴史、文学、芸術に興味をいだき、小説の創作までも行っていたという。
その後、雑誌記者、鉄道書記、信用組合理事、銀行員などの職を転々とし、36歳の時、スイスのローザンヌ大学経済学部の新設に際して募集された経済学教授採用試験に辛うじて合格し、初代教授となった。
ワルラスと同じく経済学に物理学的手法をもちこんだ天才経済学者サムエルソンは、19歳でハ-バ-ド大学を受験した際に、面接官であった当代随一の経済学者シュムペンタ-に「我々は合格したかな」と言わしめるほど早熟であった。
サムエルソンは、晦渋なケインズの「一般理論」を教科書的な図表で説明しケインズ理論を世界的に定着させた。その師・シュムペンタ-が、「最も偉大な経済学者」と評したのが晩成型のワルラスである
ワルラスの学者としてのスタ-トはサムエルソンと比べて極めて遅かったといえる。1892年に教授職を退き、1910年、レマン湖畔のクラランで死去した。
「効率性」を追求する経済学徒にしては、随分と非効率な回り道の人生を生きたように見えるが、ワルラスの能力はレマン湖畔の木々の如くに土の中に長く潜んで肥やしを得なければ芽を出さなかったかもしれない。
ワルラスの中に若くして芽生え年を経るごとに深まった「カオス」こそが、逆にこうした壮大でクリアな世界観を打ち立てたのではないのか。
つまりちっとやそっとの理論では彼固有のカオスを整理できなかったのではないのかと思うのである。

それまでまったく聞いたこともなかった梁石日(ヤンソギル)という作家に初めて興味を抱いたのは「血と骨」というビ-トたけし主演の映画を見て以来であった。
「血と骨」は1930年代の大阪を舞台とし、作者の実父をモデルに、その体躯と凶暴性で極道からも畏れられた在日朝鮮人・金俊平の、蒲鉾製造業と高利貸しによる事業の成功やその裏での実の家族に対する暴力、そして愛人との結婚による転落、遂には「故郷」である北朝鮮での孤独な死までを描いた小説であった。
これは、梁石日が殺したいと思うほど憎んでいた父親の姿である。
この小説は主役を演じたビ-トたけし自身の生い立ちと重なっていると思いつつも、それよりも中上健次の「岬」などの作品にも同じようなモチ-フが強力に流れているように思った。
さて梁石日の生き様であるが、梁氏自身が絶対に範をとりたくはなかった父親と似たり寄ったりという面がないではない。
自伝「一回性の人生」を読むと、梁氏は三十台前半にして昼は経営する印刷会社の資金繰りに駆けずり回り、夜はネオン街で湯水のように金を使いまくり、毎日が絶望的で夜が明けるのが恐ろしかった。当時の金銭感覚では10万も100万も同じだったという。
どんなに放蕩しようと、翌日待っているのは新たな資金繰りであり、不安は絶えず再生産され、会社はついに倒産した。
大阪を出奔した後、仙台に行って親戚の紹介で喫茶店をはじめた。いずれは家族も呼び寄せるつもりだったが、大阪での遊びグセはあいも変わらず続き、いよいよ意識の崩壊がはじまった。後頭部に激しい驟雨の雨足のようにザァ-ッと何かが崩れていく音が終始聞こえていたという。梁氏はその頃の自分ををふり返って人格崩壊一歩手前にあったと振り返る。
ただそんな朦朧とした意識を抱える中、長いこと本を読んだことがない彼が何気なく飛び込んだ古本屋でとったのがヘンリ-・ミラ-の「南回帰線」で、電撃でもうけたような感じだった。2~3ペ-ジを読んだだけで、この作家の背景など何も知らずとも書いてあるとのすべてを理解できたのだそうだ。
それは一言でいえば「カオス」であり、その発見が当時彼の内に眠っていた何かを目覚めさせたのだという。妙な言い方だが、この時はじめて梁氏の内側で「カオス」が形をとったといえるかもしれない
2年後に仙台を去り、東京でタクシ-運転手となりようやく家族を呼び寄せた。約10年間ほどタクシ-運転手をした。タクシ-運転手は辛かったが、仕事を通じてそれまでどこかに自分が抱いていた幻想が崩れ、本当の意味での「労働」を初めて知ったのだという。
東京でタクシー乗務員をしていた頃に書いた小説「狂躁曲」(のち「タクシー狂躁曲」)をはじめとするタクシー乗務員シリーズがヒットし、梁氏はどん底からの復活を果たし作家の道を歩み始める。
実は梁氏はそれまで文学と無縁だったわけではない。朝鮮半島が南北に分断された時代に思春期を迎えた梁氏は、徐々に社会主義や文学の世界に傾倒していく。マルクス思想や実存主義に感化され、自ら詩を書くようになった。サークル誌にも参加し、「文学」「在日」について、自分なりの理論を構築していったことがあった。しかしその後、大阪を追われる事になり文学への思いは自ら封印したのである。
以来、ヘンリ-・ミラ-との出会いまで活字とは全く縁のない生活をしてきた。
梁氏がテレビ出演された際に、自分がひとり立ちできたのは60歳をすぎてからと、苦笑しながら語ったその姿がカワイかった。

以上、レオン・ワルラスと梁石日という何の繋がりもない二人を紹介したが、まとめて言えば、ワルラスはカオスを整序しようとして経済学者となり、梁石日はカオスを表現しようとして作家となった。
その意味で二人の共通点は「カオス」ということなのだが、「カオス」と聞いてすぐに閃くのはヴィンセント・ヴァン・ゴッホである。あるいはゴッホに心酔した棟方志巧もそういう系列に属した芸術家に違いない。
皮肉なことに「カオス」に目覚めた者達は探求や創作を通じてますます「カオス」を深めていく傾向がある。
学問や芸術の極みが「カオス」であったとしたら、カオスの貌が極めて「絶望の相」にも近似していく。