憲法という「中空」

日本文化の特性に「中空構造」とよばれるものがある。中心になる人物に権力を与えす、シンボルとしてのみ存在させるものである。
まず天皇制を連想するが、日本の社会には色々な組織の中で「中空」つまり中ヌキを生み出す仕掛けが働いているようにも思える。
こういう「中空の仕掛け」を初めて明らかにしたのは心理学者の河合隼雄氏で、「古事記」の中で、重要なはずの三神が大した働きをしていない、つまり「無為」である点に注目して「中空構造」とよんだ。
日本の神社には外観には種々の装飾はあっても一番中心部には何もない。さらに東京の中心にある皇居は、凋密な都市の中で鬱蒼とした森になっており、特別な都市機能を果たしていないことなどを思わせる。
また「中空構造」は、様々な日本人の精神面と結びつけて論じられた。
「中心」がないことによって、相互に対立したもののバランスを図り、相対立する力を適当に均衡させるというものである。
こうした働きは「和」や「調和」をもたらす利点もあるが、統合性がなく誰が中心において責任を有しているのか不明確であり、無責任体制を生むという欠点もある。

この中空構造を国家の中核たる日本国憲法にあてはめたらどうかと考えてみた。
日本国憲法は、前文において普遍的な世界平和のビジョンを掲げ、戦前の価値観を喪失した国民の意識形成の上で大きな役割を果たしてきたと思う。
また護憲勢力が政治勢力として必ずしも優位ではなかったにもかかわらず、そのビジョンが人々の意識に拡がったのは、日本国憲法が改正が困難な「硬性憲法」であったことも一因であった
その「硬さ」ゆえ、憲法9条をめぐって歴代政府が「解釈改憲」を行い、憲法が空文化してきたということは以前から言われてきたことだった。
これは憲法の条文としての実質的な機能を奪うものであり「中空化」の一因だとみてよいと思う。
しかし、最近改めて「憲法前文」を読んでみて感じた違和感は、単に憲法がマッカーサー草案を下敷きにした不自然な翻訳調であることにとどまらなかった。
違和感の原因が、憲法前文が掲げる世界観が溢れんばかりの「進歩主義」を前提としていることにあることに気がついた
たとえば、「われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を永遠に除去しようという国際社会において名誉ある地位を占めたいと思う」などにあるとうり、前文全体が人間や世界が一歩一歩前進していくというのトーンのものなのだ。
ところが、長引く不況や地球温暖化、民族紛争やテロの頻発などによって、世界は未来に向かって前進していくという「進歩主義」が我々の内側で相当うち萎れてしまっているということである。
また憲法前文にある「我々は平和を愛する諸国民の信義と公正に信頼して我々の生存と安全を保持しようと決意した」などという言葉に一体どれほどの真実と価値が見いだせるのかと、問い返したい気がする。

イギリスという国には憲法がないというのは世界の常識である。
実は憲法に代わるものがあるから、憲法をつくる必要がないのである。
長い民主主義形成の歴史をもつイギリスには、マグナカルタにはじまり「権利の章典」や、裁判の過程で積み上げられた判例(コモンロー)が憲法にあたる役割を果たしているため、改めて憲法をつくる必要がなかったのである。
イギリスという国の奥行きを感じさせる。
同様に東西ドイツ統合前の西ドイツにも憲法がなかったといったら驚くかもしれない。
西ドイツの最高法規は「基本法」というものであり、東西ドイツの統合の末に「憲法」にしようと意図したからである。
その西ドイツから統一ドイツになって以降の時期を含めて、憲法(または基本法)改正が実に50回近くも行われている。
これは、ドイツが国際情勢の変化でいちはやく国土が戦場と化す可能性があるために、柔軟な対応を常にせまられていたということかもしれない。
また、キリスト教などの憲法を超える価値の原泉があったから、安心して憲法改正ができたのかもしれない
ドイツ国民にとって「憲法改正」をくりかえすのは、憲法を軽んじるのではなく、むしろ「空文化」しないという努力である。
ドイツ人は、ヒットラ-がワイマ-ル憲法のスキをついて総統になりあがった経過から、憲法の「空文化」がとても危険なことを学習したのかもしれない。
それにしても戦後一度も憲法改正が行われなかった日本とはおそろしい違いである。

日本は現在まで、憲法前文の掲げる理想主義からあまりにも遠い現実を見せられてきたし、世界平和も自衛隊を派遣するという「国際貢献」によってしか実現されないような風潮になって、憲法が想定する世界観の中核たる憲法9条の専守防衛とも抵触せざるをえなくなってきた。
裁判員制度だって、従来の憲法が想定していないものである。
それにもかかわらず、政府当局者の憲法の条文の内実を深めよう、実質的な意味を固めようという意思みたいなものをあまり感じとることができない。
最高法規という「最高」と名の付くものをイジクルのは罰があたるという「言霊」意識でもあるのか、一部を否定する(改正する)ことが憲法全体を否定する(世界観を壊す)という意識でもあるのか、などと思ってしまう。
もちろん、私ごときが知らないところで喧々諤々の憲法論議はおこなわれているのだろうが、新聞などで読むかぎり、なかなか中核にふみこめない、決定力に欠けるモドカシサがつきまとっている。
先述の心理学者・可合氏が日本の神話では何かの原理が中心を占めるということがなく、中空のまわりを巡回していると表現しているが、憲法論議もそんな感じがするのである。なぜだろうか。

ところで憲法の中核は何かというと、それはある意味では憲法前文であるともいえる。
憲法前文とは通常、その趣旨やら理念やら、その憲法の正統性までも記されているものである。
西ドイツ基本法前文には「神および人間に対する責任を自覚して、その国民的および国家的一体性を保全し、かつ、合一した欧州の同権をもった成員として世界の安寧に寄与する意思に満たされて・・・・」とある。
つまり憲法が何か共通の価値の源泉たるものと繋がっていることがわかる。だから憲法をいかに改変しようが安心なのである。
こうした憲法の根本理念に抵触しさえしなければ「改正」することを憚ることはない。
むしろ状況に応じ積極的に改正すべきことなのである。
だが次世代を担う者達が、日本国憲法前文を読んで、それが自分達の価値の源泉と繋がりうると感じられるものがあるだろうか。
前文にある「そもそも国政は、国民の厳粛な信託による」などは、ロックの社会契約論の思想そのもので、ヨ-ロッパやアメリカの市民革命の成果の集大成であり、立派すぎる舶来の服を着せられたような気分さえする。
前文は憲法のめざす理想や根本的価値を汲み取るべきものだが、「進歩主義」の後退もあって、シラジラしく感じるかもしれない。
とするならば、憲法にも前文を中心に「中ヌケ」「中空」現象が起きているということにならないだろうか

日本国憲法は戦前の天皇制の権威の由来たる「神勅」が否定され、マッカーサー草案をモデルにつくった日本国憲法の正統性はどこにあるかといえば、国会を賛成多数で承認された為一応「日本国民の総意」ということになる。
だから日本国憲法は「押し付けられた」とまではいわないにせよ、どこかヨソ物感がつきまとう。
「普遍性」や「人類」の価値観とは結びついても日本固有の価値観とむすびつかないのである。
さらに進歩主義を前提とした日本国憲法の「世界観」が今「空洞化」しつつある。
戦前日本には「神勅」というものがあった。「葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。」が日本版の王権神授説の根拠となった。
この天皇制を支えた根拠である「神勅」は、天皇の「人間宣言」で否定された。
今日まさかこの「神勅」を国民主権の憲法の世界観として引っ張り出すことはできないとしても、少なくとも日本人が自分たちの固有の価値観と正統性を汲み取りうる「何か」がないかぎりは、憲法がさらに「空洞化」していく気がする。

今日、PKO派遣(国際貢献)や裁判員制度など憲法が従来想定しないような事態も進行している。また「新しい人権」といわれるものや、IT社会の進行は、憲法の既存の枠組みを越えて進行しつつある。
日本国憲法が「中空化」せず賦活されるためにも、そうした事態に見合う「改正」ならば、積極的に行うべきだと思う。
条件はそろいつつあるが、果たして日本人が「内発的に」憲法改正の高いハ-ドルを超えられるのか。

それとも新たな「黒船」を必要とするのか。