スカンダロス

「つまづく」という言葉は、歩く時に足先を物に打ち当てて前へよろけることで、それでもって勉強が一歩も進まないような状態などを「つまづく」という以外には、それほど使われる言葉ではない。
しかし聖書で「つまずく」という言葉は頻出語である。
知者はどこにいるか、学者はどこにいるか、とは聖書の言葉があるが、こういう知者や学者こそが、「この人は大工の息子ではないか」などと、最初にイエスにつまずいた人たちなのである。
日本語で「つまずく」と訳された言葉のギリシャ語(原語)は「スカンダロス」で、この言葉は英語の「スキャンダル」の語源となっている。
「スカンダロス」は、「憤った」とか「嫌悪の念を抱いた」とかいう意味で、問題は当時の人々がイエスの何につまずいたのか、何に嫌悪の念を抱いたのか、ということである

聖書の中で「つまずく」は「裏キーワード」といってもよく、イザヤ書6章には「主は聖所にとっては、つまずきの石 イスラエルの両王国にとっては、妨げの岩 エルサレムの住民にとっては 仕掛け網となり、罠となられる」とある。
聖書は「救い」と同時に人々の「救い」を妨げる「つまづき」をも語っているといっても過言ではない。そして「つまづき」の言葉の奥行は単に人間の側の失敗や思い違いを意味するだけではなく、神の側があえて人間を試し選り分ける「つまづきの石」となったり、救われる者にはさらに奥深い洞察力を与える為の試金石であったりするのである。

当時のユダヤ社会は律法を正しく知り守ることこそが神に近づく道と考えられていたから、平凡な市民が次のような場面に遭遇したらどうであろう。
イエスが誰かの家で食事の席について居る時、多くの取税人や罪人たちも、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人(注:遊女など)や取税人たちと食事を共にしているのを見て、弟子たちに言った。「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
イエスはこれを聞いて言われた。「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」と。
当時のユダヤ社会の中で、何らかの影響力を行使したいと思うならば、イエスのような行動がいかにマイナスの行為であるか、もっといえば正気の沙汰でないことは明白である。
だいたい取税人なる輩は単なる税金取りではなく、ローマ帝国がユダヤ人の中から選んでその仕事をさせ、取税人はきまった以上の税金を絞りとって甘い汁を吸っているものとして人々に嫌悪されていたのだ。
つまり取税人はローマによる分裂支配の象徴的存在であり、当時のユダヤ社会の中にあっては「鼻つまみもの」であったのだ。その取税人の頭とイエスは交わりをなした。
こう見ると、ユダヤ社会の中でイエスの存在そのものがほとんど「スキャンダル」であったといってよい
さらに当時の「知者」「信者」「指導者」達を前に、天国で席につくのは取税人や遊女ような者(マタイ21・32)であるなどと言ってのけるのであるからして、善良な一般市民が「それでは我々はどうなるの」と思い、つまづき去ってしまうのも分からぬことではない。
もっともイエスは、最後の晩餐の後にオリーブ山へ向かった際に弟子たちに向かって、「あなたがたは皆わたしにつまずく」と予告した。
それまでは何とか従ってきた弟子達に、私が飲もうとする「盃」がのめるか、という言葉の意味を真に理解することもなく弟子たちは頷く。
しかしイエスは十字架を前にして、弟子たちが皆イエスについて行くことが出来なくなることを知っていた。
最後の晩餐で「ユダの裏切り」だけではなく、オリーブ山ではすべての弟子が「つまずく」ことを予告したのだ。
しかしペトロを始め弟子達が、この時イエスのいう「盃」の意味をまったく理解できず、そのことをさかんに否定した後に、疲労のために眠りこけてしまう。この重大な差し迫った時にである。
つまりこの段階で全員がイエスが聖書の預言に応じたメシアであることを充分に見抜いておらず、まして彼らのこの直後の行動が預言者ゼカリアの「わたしは羊飼いを打つ。すると羊は散ってしまう」(ゼカリヤ書第13章7節)という預言の成就であることに気づいたものとて、あるはずもなかったのである。
イエスには直接選んだ12使徒の他さらに行動を共にした70人の弟子たちがいた。その他に、イエスに従っていた婦人たちがいた。そしてさらにその回りに、イエスについていけば「何かいいことあるかも」と期待を抱いていいた群衆がいた。
しかし群衆ばかりではなく弟子達も、イエスが自ら「十字架」にむかうというわが眼を疑うような結末に「つまずいた」のだ
それまで群衆は、イエスを王に担ごうとしてつき従ってきたといってよい。ローマ帝国を打倒してユダヤ人の王をたて独立を勝ち取れば、今のような屈辱的な生活から逃れられると思っていた。
たまたまイエスが十字架にかかった日は過ぎ越しの祭りの日で、当時ユダヤには刑にかかる者の中で一人を恩赦する習慣があった。
イエスを裁いたローマ総督ピラトはイエスのどこにも罪がないことを認めつつ、熱心党のバラバかイエスかのどちを解放してほしいか、と民衆に問題を投げ渡した。
イエスに失望して民衆は、ローマからの独立闘争の指導者バラバの方に期待をかけ、「バラバを解放せよ、イエスを十字架へ」と叫んだのである。
この応答はとてもシンボリックで、群衆が望んだことは結局はこの世における「解放」であり、「永遠の命」を説き当座は何をも変革しようともしないイエスにほとんど人々が「つまづいた」のである。
そう考えると、「イエスかバラバか」というのは、ある意味で全人類的な問いかけにも聞こえる。
ユダヤ社会で2000年にもわたって預言されたメサイヤがイエスであったことは、生前まったく理解されずにきたが、十字架の死後に、あれが聖書の預言されたメシアであったという人々が少なからず現れた。
イエスの死後、人々の「つまずき」から一転して、ユダヤ人のみならずこの世のメシアとしてひろまったのは、何か人間の力を超えたものであるように思う

聖書やイエスに対する「つまずき」は現代人とはけして無縁ではないと思う。もっとも「つまずき」以前の無関心ということかもしれないし、近くにいる信者が変な人だったりするからかもしれない。
しかし、表面にとらわれず真理に近づこうとする人々さえもがなぜ「つまずく」のか、聖書の中から関係すると思われる言葉を探した。
まずはコリント人第一の手紙の1章および2章が、「つまずき」の一面を示しているように思う。

”知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。
この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである
むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。
この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう
しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。
生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。”

またコロサイ書2章8節 には、「あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基づくものにすぎない」とある。
  また人々の内にある「つまづき」の因子を示すもっと直裁な言葉がコリント人第二手紙2章12節にある。
同じ福音つまり「救いの知らせ」が、救いに与る人々にとっては「命の香り」であり、滅びる人々には「死の香り」がするものだから、その福音を伝える責を担うパウロは、誰がこの任に耐えようかと自らを戒めている
またローマ人への手紙1章にパウロは、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしには救いをもたらす神の力である」とある。
神の御心のはかり難さを表すものとして、コリント人への第一の手紙1章26-29節に、

”兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです
また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。
この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。”

またコリント人第一の手紙3章には「神は、知恵のある者たちをその悪賢さによって捕らえられる」や、「主は知っておられる、知恵のある者たちの議論がむなしいことを」ともある。

人々はなぜ「つまずく」かと考えると、福音や預言を語る人が取るにたらない人だからかもしれない。
しかもそのことが神の智恵にかなっているのだ。
もっとも、神より遣わされた預言者はさぞや大変だったろうと思う。とても人が信じられないような、有り得ないような、受け入れ難いようなことを、平然と語らなければならないからである。
その過程で、平凡で善良な市民の平和を根底から覆し嫌悪されることを、預言者みずから肌身に感じたであろう。
「バカ者」とか「思い込みの激しい奴」として鼻であしらわれるならまだしも、彼らの言葉や存在がどれほどスキャンダラスであったかは、取税人のマタイが書いた「マタイの福音書」21章の譬え話がよくあらわしている。
主人(神)が農園(世界)に多くの僕(預言者)をつかわしたところ、農夫(ユダヤ人)は彼らを殺し、跡取り息子(イエス)なら大切にしてくれるだろうと遣わしたら、それさえも殺してしまったという譬えである。
この世にスキャンダルは数あれど、史上最大の「スカンダロス」は、イエスの存在ということかもしれない