捧げものとしての生

世界の人口の5分の1をしめんとする中国が資本主義を制限つきで取り入れて以後、どう走り出すかは大きな関心事である。それにしても北京オリンピックの演出はすごかったし、もしもこの国が力を結集したら何でもできそうな気がする。逆にとんでもない問題国家になってしまうかもしれないけれど。
20年以上も前サンフランシスコで暮らした時、チャイナタウンにバスがつくと着くとバス停に並ぶこともなく固まって待っていた中国人がバスに乗り込むや、喧しい会話が飛び交い、彼らが一斉に同じバス停で下車した後では、バス内がすっかり静まりかえった。
知り合った中国人のアパートに遊びに行くと、男子学生でありながら驚くべき美味しい八宝菜モドキをふるまってくれたことを思い出す。
サンフランシスコの街は何が飛び出すかわからないようなワクワクする街路で、007最新作「慰めの報酬」にはそのままの雰囲気がよくでていた。雑踏から尽きることなく溢れ出るヒューマン・パワー、それがこの街のエッセンスである。
奥まった場所に廟(多分、孔子廟)のごときものがあったが、人いきれのなかで唯一宗教的な雰囲気でもある場所だが、考えてみれば中国人は、古代の聖王堯・舜たちが崇拝の対象であるが、彼等は人間であり、しかも、おもに「治水」に成功したひとたちなのだ
中国の風土はちょうど自然と人間の力が拮抗しており、人間の力をもってすれば、どんなことでもできる。偉大な人間ならば荒れ狂う大河との格闘にも勝利しうるという意識から、「人間至上主義」(=「この世中心主義」)を生んだのではないかと思う。
人々の意識はパレスチナの「啓典の民」のように天上に垂直にむかうのではなく、あくまでもこの世に水平的にむかっているような感じがする
キリスト教徒が「神にかけて」というところを、中国人は「歴史にかけて」というのかもしれない。
北京の天壇公園は天子たる皇帝が天命をうける場所だそうだから、中国人を無神論者とまでは言わないにせよ、人間の力に寄せる信仰の方が、神を求めんとする気持ちに優っているともいえるだろう。

数年前、日本の首相の靖国神社参拝に対し抗議がおこり、北京でのサッカーの試合で日本選手は身の危険を感じながらも必死にプレイした。テレビで試合を見ながら。中国内部にある不満や中国政府の政治的意図など色んなものが頭をよぎる試合の風景だった。
そしてあわや反日暴動にもまで至らんとする中国人は果たして「靖国」をどう理解しているのだろうかということが気掛かりとなった。
確かに、一般の英霊ばかりかA級戦犯まで祀っている靖国神社に日本の首相が公的に(私的にせよ)参拝することは、外から見る限り日本人が過去の戦争を反省せず、なお軍国主義的傾向を払拭しきれていないと見られても仕方がない。
様々な視点から「靖国」の問題は語られるが、明確にいえることは「鎮魂」の意識は中国人には存在しないということである。あったとしても、それは少なくとも日本人のように死者を畏れその魂を鎮めようという信仰は中国人にはない、ということである。
中国人は、日本人のもつ「鎮魂」の意識は希薄なことを思わせるのは、映画「西太后」にみるような政敵に対する血も凍るような残虐さだ。死者を恐れる気持ちがあるならば、あそこまで徹底的な暴虐と屈辱を与える事はしないだろう、と思う。それとも「西太后」を異常性格者としてかたずけるべきだろうか。
現世で魂祭りをすることで死者の霊も安んずるというのは、日本人だけが抱く信仰である
御霊神社と同じような社寺が全国にも多く存在するように日本人は死者の霊に対して畏れを抱き崇め、そして遠ざけるのだ。特に憤死した非業の死を遂げた者は死後「鬼神」となり、人々に禍をもたらすという信仰がある。
中国人は死んだ者の再生は考えない。死後の生活はこの世の延長であり、生と死は絶対の断絶ではない。彼らは死者も人と意識するから、憎めば墓をあばいても死者を鞭打つことさえする。
日本人は死後の霊魂がこの世の人々を加護する働きをもつことも信じいた。憤死者の霊魂はなだめてなだめて味方につけば、外敵を阻止する頼もしい力となるのである。
こうした死者の霊魂に対する意識は、縄文期の長い森の生活で養われきた日本人の基層文化といえる。
靖国問題はそうした文化の「基層」、もっといえば日本人のアイイデンティティにかかわるだけにその問題の根は深いものがある。

サンフランシスコだけではなくチャィナタウンとよばれるところのどこでも感じるのは、日本人ならば美意識を働かせて厨房に隠したりする部分でも表に露出するところである。例えば豚の肉とか鶏の肉とかを店先にぶら下げたりしていてちょっとギョッとする。
少し前の日本の家の造りなどでは煙突など生活に関わる部分を目につかないようにするのだが、中国の家屋では煙突などがその家の主の生活を力をあたかも誇示するがごとく、むしろ目立つように作られている。
日本の古墳の中から馬具が多く見つかったことなどから、「騎馬民族征服説」が唱えられたことがあった。
確かに日本語は満州族と同じくウラル・アルタイ系に属し、江戸時代のサムライの頭なども満州族の?髪を思わせるものがある。さらには将軍の近衛兵団を「旗本」といった言い方に「満州八旗」とよばれた軍団を思わせるものがあり、満州族との関わりを感じさせる要素がある。
漢族には本籍というものがある。江蘇省某県出身だとかいう。しかし、遊牧の満州人には籍とする定着地がない。彼等はそのかわりに「旗」というものを自分達の籍にした
「旗」とは軍団のことで、すべての人々がどこかの「旗」に所属した。無所属では荒野に取り残されたり、死を待つしかない。所属することは、生きることなのだ。 はじめは、黄・紅・白・藍の四旗で、あとでそれに縁取りした四旗を加えて八旗とした。
そして藍旗が狩猟のさいは獲物を、戦争の際には敵を借り出し、紅旗と白旗がそれを包囲して、黄旗ひるがえる本陣に追い込むという方法をとった。普段の狩猟が、そのまま軍事訓練となった。
「旗」といえば中国の現代史で張学良が青天白日旗を掲げ国民政府への服属を表明した出来事「易幟」を思い出す。

中国人の「人間至上主義」や「この世中心主義」といった世界観の一つとして「桃源郷」という言葉を思い起こす。 4世紀の詩人・陶淵明(とうえんめい)は、山に迷い込んだ漁師が桃の林に囲まれた美しい農村を発見する物語を作った。
外界から隔絶された環境でつつましやかな暮らしを営むその村は「桃源郷」と呼ばれ、中国の人々にとっての理想郷となった。
中国人の理想郷は、天上にではなく「水平な位置」つまりこの地上に存在するのである
「天地人」という言葉であるが、中国の琴の音は「地の音」、「人の音」、「天の音」を調和させながら表現するらしい。とするならば、桃源卿とはそうした琴の音の響きに最も合致する土地であったと想像する。
ところで中国人にとって原風景ともいうべきところが蘆山がある。蘆山は李白が愛した五老峰があり、五老峰は山水画の風景の原型となっている。この風景は確かに人間を幽玄へすなわち生者と死者の境界を超えさせるような、また仙人の存在を思わせる雰囲気がある。
森林の民が精霊崇拝にもとづく神々の信仰をもっていたことや、そして砂漠の民が天に唯一の神を求めたのとは異なり、中国にはこの世の中に「理想郷」ものを求めるのも、こうした幽玄な山野の風景を目にしたからなのだろうか
延々とうねる砂漠や荒野を移動する「啓典の民」は、地上ではなく天上に「神の国」にを求めた人々であったが、中国人の環境にはそうした峻厳さまではないように思われる。
ところで揚子江近くの蘇州庭園は商人達が私財を投じて造り桃源郷を表現したものだそうだ。
マルコポーロは蘇州を「東洋のベネチア」とよんだが、それは市街いたるところに水路と白壁び家が甍を重ねている。
蘇州庭園の丸い円から景色をみるように彫られた壁は庄宇宙を表現しているし、窓枠の作りに趣向が凝らされ風景が絵の中の風景のようにみえる。さらには、遠い塔の風景を借景としたものがある。
岩山の洞窟を降りるとそこに庭園がある。商人達は騙し合いや駆け引きやらトラブルから一歩身を退けた場所を必要としたのかもしれない。
蘇州庭園の中の留園には美しい丸みをおびた自然だけではなく、犬が吠えるような形をした奇岩もあるし、厳めしい山がにらみつけるようにな造形もある。自然の恵みばかりではなく世界の厳しさをも表現している。
ともあれ、そこには現世という俗世と異なる空間がつくりあげられていた。

「桃源郷」の作者たる陶淵明は隠者というイメージがあるが、中国では隠者は必ずしも「世捨て人」を意味しない。屈原のように意見が取り入れられずに入水自殺した隠者がいたが、その激しさは「世捨て人」の行動と似つかわしくない。
官には出仕しないものの社会の中で一定の役割をもつものとして隠者は捉えるべきで、中央官界での立身はあきらめたものの、歴史の編纂や試作によって官にある人々に華を添えるという役割を果たしたのである。
この世から距離をおいた風情の庭園が設けられたように、人間もこの世から距離をおいた「隠者」が賢者として受け入れられたのだ