友あり遠方よりきたる

論語にある「友あり、遠方より来る、また楽しからずや」という言葉は、友人が遠くからやってきて久しぶりに酒が呑めてうれしいぐらいの意味かと思ったら、そうではなかった。
思ってもみない自分の理解者がいて、わざわざ自分を訪れてくれた喜びをかみしめた言葉なのだという。
歴史上予期せぬ味方が遠方から駆けつけ味方して戦ってくれた、などという状況はいくつかある。
南北朝動乱で後醍醐天皇が隠岐に流された頃、楠木正成ら名もなき「悪党」が蜂起し、天皇のもとに衆合し天皇のために戦ったことがあった。
この場合に後醍醐天皇は「友あり、遠方より来る また楽しからずや」以上の気持ちであったろう。
今、世界で一番親日感情がつよい国とはトルコ。何しろ長年自分達を悩ませてきたロシアに勝利した国という歴史的感情が今でも残っている。そしてイスラム国家でありながら日本をモデルにして近代国家をつくりあげてきた。日本が日露戦争に勝った時、トルコ人は狂喜して、息子や孫に「トーゴー」「ノギ」の名前をつけ、イスタンブールの街には、「東郷通り」「乃木通り」ができたなどということもあった。
しかしトルコと日本が直接関わる場面は1890年エルトゥールル号遭難事件ぐらいしか思い浮かばない。
ところで黒人大統領誕生に湧くアメリカだが、実は日本人と黒人を深く結びつけるいくつかの歴史的な局面があった。「友あり、遠方より来る」という言葉は、日本と黒人との関係に意外とよくあてはまる。
太平洋戦争において、日本は戦略上アメリカの黒人社会にへの接触をはかっており、黒人は黒人で同じ有色人種でありながら差別され収容所に送られる日系人に対して無関心ではいられなかったのだ

1919年、第一次大戦後の処理であるパリ講和会議は開催された。同時に、国際連盟創設のための議論が進められた。 その時アメリカ大統領ウィルソン大統領が議長役をつとめた。
アメリカの黒人たちは、日本の動向に注目していた。なぜなら日本は国際連盟規約に「人種平等の原則」を入れるという提案を掲げて参加していたからだ
日本の全権使節団がパリに向かう途中、ニューヨークに立ち 寄った時には、黒人社会の指導者4人が、「世界中のあらゆる人種差別と偏見をなくす」ことに尽力してほしい、と嘆願書を出していた。
人種差別に苦 しむアメリカ黒人社会は、有色人種でありながら世界の大国の 仲間入りした日本を、人種平等への旗手と見なしていた。
日本が会議で成果を得れば、やがて「アジア人のためのアジア」を声高に 叫ぶ日が来るだろう。
それは、黒人の母なる大地アフリカに同じような声がこだまする前兆となる、と米国黒人の指導者たちは考えていた。
一方で議長役のウィルソンは、人種平等を盛り込んだ連盟規約が、米国南部や西部の議員たちの反対で、批准されるはずのない事を黒人達は知っていたのだ。
日本の提案は16 カ国中11カ国の賛成票を得たが、議長であった米国大統領ウィルソンの「全会一致でない」という詭弁によって退けられた。アメリカの黒人は、自国の政府の措置に怒り、全米で数万人もの負傷者を出すほどの大規模な暴動が続発した。
日本人はそれまでの白人優位の神話を崩した生き証人だった。1923年の関東大震災の報に接したある黒人は新聞に「アメリカの有色人種、つまりわれわれ黒人こそが、同じ有色人種の日本人を救えるのではないか」と投書し、それを受けて同紙はすぐに日本人救済キャンペーンを始めた
万国黒人地位改善協会は、同じ有色人種の友人である天皇に深い同情を表す電報を送り、また日本に多額の寄付を行った。
太平洋戦争が始まると、黒人社会の世論は割れた。人種問題はひとまず置いておいて母国のために戦おう、 勝利に貢献して公民権を勝ち取ろう、黒人を差別するアメリカのために戦うなん馬鹿げている、という意見など様々なものが出た。
特にデュボイスら黒人運動指導者は、太平洋戦争を「人種戦争」という観点から捉えていた。戦争がおこるや、日系アメリカ人だけが収容所に収容され、ドイツ系もイタリア系も収容されなかったのは、あきらかに人種偏見のせいではないか、という点を主張した。アメリカの市民権を持っている日系人さえもが強制収容されるなら、黒人にも同じ事が起こる可能性がある、という訴えたのである。
そのうち11万5千人もの日系人が、一度にアメリカ人としての自由を奪われるのを、われわれ黒人は黙って見過ごすというのか、という新聞まででてきた。
戦後、黒人社会は、収容所から解放されて戻ってきた日系人を歓迎し、温かく迎えた。彼らは、日系人のために仕事を探したり、教会に招いたりしてくれた。この時、黒人は明らかに日系人の友人として働いたのである

最近、太平洋戦争中に黒人社会にはいって接点をもとうとした二人の日本人のことが発掘されている。
一人は、北九州八幡皿倉山あたりが故郷の疋田保一という人物が、日本政府によってその活動資金を提供され工作員としてアメリカニュ-ヨ-クのハ-レムに入って黒人社会と接点を持とうと試みている。
アメリカで圧迫されている人々を少しでも日本側に味方につけておこうという戦略だった。疋田はハーレム・ルネッサンスといわれた時代に、ニューヨークで多くの黒人芸術家たちと親交を結んだという。
デュ-ク・エリントン、チャ-リ-・パ-カ-、ルイ・ア-ムストロングなどジャズエイジの黎明期を飾った錚々たる黒人プレイヤ-達がいた。
疋田の活動ははっきりはしていないが、清王朝に反乱を企てた孫文に、大隈重信の特命をおびて熊本県・荒尾出身の宮崎滔天が接触を持とうとしたのにもよく似ているし、日露戦争当時、福岡出身の外交官・明石元二郎が、ロシアの反乱分子と接触を持ち、ロシアを足元から崩そうとしたことにも通じる。
もうひとりは大分県杵築市に生まれの中根中という人物である。中根は関西学院に進学し、後にキリスト教徒となる。若い頃は浪費癖がひどく、教会も除名された。日本の妻の他に愛人もて大借金を残してカナダへ渡り、白人女性と結婚する。後にアメリカのタコマに移住するが、もとからの浪費癖が災いして生活が破綻し、再び借金を残して失踪する。
ところが1933年、突如として中根は黒人指導者としての頭角を現す。この年、デトロイトの黒人街で活動をはじめた中根は、日本陸軍から秘密裏に派遣された軍人であると名乗り「日本人は黒人と同じく有色人種であり、白人社会で抑圧されてきた同胞である。そして、日本は白人と戦っているとして黒人を扇動して、白人社会の打倒を訴えた。
中根の弁舌はカリスマ的であり、一時は10万人をも動員して黒人暴動を多発させた。中根は多くの黒人から、「救世主」と崇める者さえいたという
この間に黒人女性と結婚するがたて続けに組織を設立して活動していたために、FBIによって国外退去を命じられ、日本へ帰国するもすぐにカナダへ渡り、そこから代理としての妻を通してアメリカの組織を遠隔的に運営していった。
中根らの運動は一見順調に思われたが、組織の中心で中根を支えた妻が活動資金を使い込んで放蕩に明け暮れるようになりその活動が行き詰るようになる。旦那に劣らず奥さんも浪費癖があったのだ。
中根は組織を立て直すべくアメリカに再入国しシアトルに拠るが、1939年に逮捕された。 FBIの取調べでは複数の偽名を使い嘘八百を並べ立てたといわれる。かなり口八丁手八丁の人物のようです。
中根が獄中にいる1943年、デトロイトで黒人の大暴動が発生している。これは中根の活動に起因すると言われており、アメリカの兵器生産拠点であったデトロイトを3日間機能停止状態に陥れた
中根は戦争中に釈放され、後半生愛したデトロイトに戻り、同地で没したという。
なお1920年代から30年代にかけて中根が暮らしたシアトル近郊の街タコマには当時全米で最大規模の日本人街があり、新渡戸稲造、沢村栄一ら結成されたばかりの巨人軍面々、学生時代の宮沢喜一元首相など、日本から渡米した多くの著名人がここを訪れている。中根の弟は日本人学校を運営する街の有力者としてこうした人たちをもてなしている。
シアトルという町は、マリナ-ズの城島・イチロ-以前から日本人とはかかわり深い町なのである。

かつて黒人は、日本人を応援することで夢を育み精神を和ませていた時代があった
中根と縁深いデトロイトは自動車産業の町であるが、1980年代日本車の輸出攻勢によって多くの失業者をだし、日本車に火をつけたりバットで破壊するという暴動めいたことも起こっている。
加えて、中曽根当時首相の差別発言もあり黒人の気持ちを傷つけたこともあった。
いまやすっかり白人化した日本人に、黒人がかつてのような親愛の情を今も抱いているかは、かなり疑問のあるところだ。
「友あり遠方より来る、いまだ期すべしや」