賭博者達の時代

賭博とは単に偶然に賭するゲ-ムなのではなく、サイの出方に時よりみられる秩序めいたものや、時々の運を読みとったり、またその場所の雰囲気を全身で感じ取るという賭博者の総合能力をためされるものらしい。
だから「生きる力」というものは、「賭博」の中にこそ凝縮した形であらわれるのではないのかと思っている。
ドストエフスキ-は「賭博者」の中で、次のように「正しい賭博」について語っている。
真の賭博者は「儲け」など意に介しない。あくまでも勝ち負けのプロセズを楽しむために「賭け」を行うのである。それは猥雑さの中で純粋に楽しむためのものであり、そこに厳粛さをもってのぞむものでもない。確かに祈祷室みたいな厳粛な雰囲気の中で、転がるダイスの目にくいいるような眼差しをむけるなんて、不健康そのものではございませんか。
ドストエフスキ-は自身、賭博にはまった体験を下敷きに「賭博者」を書いたのだが、この本を読んで賭博というものが人間の何がしかの実存的欲求に根ざすものであると思った。
ドストエフスキ-のいうところの「真の賭博」にあるかは別にして、世の中全般に「賭博性」が増しているようには思いませんか。
近年増加している犯罪行為もイチかバチかという点では賭博性があるし、マンション買うのも、餃子を食べるのもある種の「ギャンブル」に近いものがある。
大量殺戮兵器の存在というあやふやな推測の下にイラク攻撃にふみきるとか、考えられるうる事態への議論もなく自衛隊を海外派遣することなども、相当「賭博性」をおびていませんか。
結局、不透明感漂う中での「ふるまい」一つ一つが、賭博性を帯びるということはむしろ必然なのだろう。
つまり今日は「賭博者達の時代」なのだ。
国際金融の世界では「経済のカジノ化」ということが従来よりいわれてきたが、投機筋の金の動きだって本来は経済を安定化させる立派な経済行為なのだ。つまり先を読んだ行動が、突発的な行動を緩和するために経済を安定化させる機能をもっていたはずだ
だが、津波・カルト・バブル・テロなど、明日が見えない、つまりは人間が合理的に行動を選択する土壌が狭まった条件下での「投機筋」のカネは、合理的経済行為というよりもむしろ賭博に近いものがあり、経済の撹乱要因にさえなっている。
自然も社会も足場が揺らぎがじめ、ここ10年ぐらいのスパンで、我々がそれまでとかなり異なる時代感覚に生きていることに驚かされるのだ。小室サウンドが聞こえていた時代にまだしもあった浮揚感が、今ではすっかり失われている。
社会の賭博性ということで思いおこすのは、江戸時代末期に打ち続く飢饉で農村が疲弊し、人々が飲酒や博打にふけっていた時代があり、そこで多くの「博徒」がうまれた
清水次郎長やフィクションの木枯紋次郎次もそういう時代の人物であり、たしか紋次郎も「子殺しの時代」(まびき)にかろうじて生き抜いた過去をもった人物であったと記憶している。こうした農村が極度に疲弊し明日をも見えない時代に、農村復興を精神面の再生から指導したのが二宮金次郎であったが、総体的に一人の指導者の力ではどうにもならないことではあった。
最近、自宅にこもりコンピュ-タ画面を前に金を動かしている姿は、当人にすれば立派なまたは切実な経済行為かもしれないが、どうしても幕末の農村で人々が博打に興じたという姿にも通じているように感じてしまうのだ。
今日モノつくりにはげむにせよ、貯蓄するにせよ金融への信頼の崩壊が、引き続く飢饉による「土」への信頼の崩壊と同じく人々を前進させる力を殺いでいるし、全体が雪面を転げるようにスベッテいく他はないのか。

ドストエフスキーが「賭博者」を書いた経過だが、彼自身がヨーロッパへ旅行した際、行く先々のカジノでルーレットにはまり、帰国のための路銀まで失ってしまう。出版社との契約で、作品の提出期限が迫っており、おまけに出版社に借金の支払いのため、作品の版権をとっくに売り払っているために精神的にも、経済的にも、時間的にも追い詰められて口述によってわずか27日間で完成させたのがこの「賭博者」という小説であったのだ。
作品の舞台になっている「ルーレテンブルグ」という場所もルーレットをもじった架空の都市名をつけているところなど、ドストエフスキ-は絶体絶命の中にあってもオシャレぶりを発揮している。
ロシアンル-レットということならば、私は1883年アカデミ-賞映画「デアハンタ-」が忘れられない。
アメリカの鉱山の町で働き休日には鹿追いをする貧しい若者たちがベトナム戦争に送られる話である。ベトナムでは鹿ではなく人間(ベトコン)を追いかけるのだが、ベトコンに捕まった者同士で命のル-レットつまりロシアン・ル-レットの賭けの対象になる。
互いにむかいあって自分でコメカミに銃をあててシリンダ-の穴の一つに弾をいれて回転させる。周りで見つめる兵士たちが、どちらかが死ぬまで賭けを続けるのだ。どんなに親しい間柄であっても、いちはやい相手の死を望まないではいられない、という残酷なゲ-ムである
ベトナムを歩きまわったジャ-ナリストの本多勝一氏は、こんなロシアン・ル-レットをやっていたという話なんて聞いたことがないと、この映画は不真面目だと評していた。
つまりこの映画は事実に基づいていないということだ。事実を重んじるジャ-ナリストからすればそういう見方もできようが、フィクションだったとしても真実を凝縮したようなフィクションなら意味のあることだろう。
ロシアン・ル-レットとは実は、ジャングルの中で敵も見方もよく分からずに殺しあう南北のベトナム人同士の殺し合いを意味しているのではないか。
ゲ-ムの胴元などこの「命のル-レット」から分け前をくすねているアメリカの産官複合体などを暗示していて、それをはやし立てる民衆の姿は、遠巻きにその利益のおこぼれにあずかっている人々という見方はできないだろうか。
この映画の中で、ベトナムで傷を負い帰国して車イス生活となったアメリカ兵の一人にベトナムから大金が送られてきた。不思議に思った彼の心に、かつてのデアハンタ-の仲間の一人が自らこの賭けの対象としてこの命のゲ-ムに参加しているということが閃いた。
この映画ではこうした死を賭して戦争というル-レットの対象となる男達が、実は貧しい家族を養わなければならない人たちであるとう現実をもこういう形で描いたとするならば、なかなか行き届いたいい映画なのではないだろうか。
作家・白川は最近映画化された「病葉流れて」で賭博で身を滅ぼす青年を描いている。この映画はいわば自伝で北海道よりでてきた白川氏は東京にでてきて髪ぼさぼさの雀荘通いの崩れ学生であったことがよくわかる。「病葉」(わくらば)とは、木枝から吹き落とされて跡は腐るだけの葉のことである。
負けを取り返そうと賭金を増やし、さらに大金を失うという、ほとんどのギャンブラーが陥る「やめられない、とまらない」カッパエビセン状態、あるいは「わかっちゃいるけどやめられない」植木等状態を描いてる。
作家本人に擬された主人公は、こういう濡れ落ち葉以上にくあてどもない日々をすごしているわけだが、しっかりしたギャンブル哲学のようなもをもっているのがおもしろい
そして賭博が何か人間の本性に基づくものならば、実際に博打を行うもののみがギャンブラ-ではなく、賭博性をもった性格というものも存在するのではないかと思った
元レ-スクイ-ンの小説家・室生祐月さんの育った家族の話のなかに、明日の金に困っている時に花をかってきてしまう母親や、そして好きになった男に通帳ごと預けてしまう自分のことなどがあったが、ある意味サイがどう出るのかを楽しんでいる感じさえするのだ。
だいたい室生さんの元旦那の高橋源一郎氏こそが競馬をはじめあらゆるギャンブルに手を出す人間だし、そういう人と結婚する彼女にもある程度賭博性があるといってよいでしょう。
さらに作詞家の阿木曜子さんの若い頃の話を思い出したが、どちらかといえば社会的な地位が確立したまたは確立しそうな人物よりも、どうなるかわからない真っさらな状態の人と結婚したかったという。そこで、いかに惚れられたとはいえ音楽好きでしかないあのヘンな顔の宇崎氏のような人物とゼロからはじめたということであった。
私はといえば、青信号と赤信号の変わりめに交差点に突入するぐらいの、ほぼ安全なギャンブル性しかもちあわせていないし、さすがに右接にウインカ-を出して左折するほどのギャンブル性はない。
人生に一度はちゃぶ台(テ-ブル)ひっくりかえしてみたいとも思っているが、自分の家庭内の位置づけからしてあまりにも危険な賭けのように思える。
また冒険家というものを考えてみるのだが、冒険家もまたある部分「賭博者」なのだ、と思う。結局運命のいたずらというものにかなりさらされながらも、なおも自分は生還できたつまりは運命(神)を超え得たという自負を「生きる糧」としている人々ではないのか、と私は想像するのだ。
白川氏の映画「病葉流れて」の冒頭で、主人公である少年に身内の傷痍軍人が「病葉」(わくらば)という言葉の意味を説明するのであるが、白川氏にとってこの傷痍軍人のイメ-ジこそが「病場流れて」の原点であるのかもしれない。
戦争に傷つき手足を失った男には未来は考えることはできなかっただろうし、白川も投資に没入しバブルの寵児とはなったものの、バブル崩壊後刑事被告人として刑期2年をくらった体験をもっており、文字通り「病葉」ように流されて朽ち果てる他はないという体験をしている。
「病葉流れて」に見られる賭博哲学の本管は、先が見えない人間は自分が天に見方される人間なのか、天から見放される人間なのかを早くもミトドケタイという心理、明日をも分からない人間が、人生にはやくも白黒出したいという気持ちのあらわれなのだそうだ。
それで思うことは質素と勤勉によってこそ「神の救い」を確証しようとするキリスト教カルビン派とギャンブラ-は正反対のように見えて実は、自分とは一体何者か白黒つけたいとがんばる意味では両者は意外にも似た部分もあるのではないか。なぜならばカルビン派はどんなに努力しても自分は「救われない」かもしれず、その質素さと勤勉さ自体が「賭博性」をおびている。
運命を司るものに抗い勝ちたい、運命の正体をひっ掴まえたい、そして自分とは何者なのか知りたい等々、正しい賭博者はそんな実存的な欲求のカタマリなのである
2009年、世は賭博場めいて「賭博者達の時代」になりそうで、だからこそ「歴史とは何か」「世界とは何か」、その本体をすこしずつ露にしそうなそんな予感をもって新年をむかえている。