サンクコストの呪縛

経済学は利潤を考える学問であるというのは部分的に正しいが、経済学はコストを究明する学問であるというのは、もっと深く正しそうに思える。つまり真のコストとは利潤以上にとらえがたくコストを正しく掴んだ時、経済への理解度はかなり増すことになると思う。
経済学で最初に学ぶものの一つが「機会費用」である。失われた機会のコストということで大学で最初に学んだ時は面食らった。
ある決まった給料しかない人が、旅行にいくとする。
普通、旅行の費用といえば旅行の代金としてとらえるが、「機会費用」では旅行に行くことによって失われた、「旅行の次にやりたかったことの満足の喪失」と捉えるということだ。
要するにコストとは「失われた機会の利益」だと考えれば世界観が変わるまではなくても、世界観がズレる
アインシュタインが物理学者になることによる「機会費用」は、音楽家としての個人収入ということになるが、アインシュタインのように優れた才能の場合は社会的なコストとして見たほうがよいかもしれない。
世界観が変わるといえば、アダム・スミスの「労働価値説」の説明なんか実に含蓄がある
野原に一本のリンゴの木があり、五十個の実がなっていた場合、そのリンゴ一個の価値はどうすればわかるか。アダム・スミスは野原を歩いて木にのぼり、リンゴをとって元の場所に戻るまでの労力が、リンゴの価値だという。
近代経済学は、需要と供給によって価格がきまるわけだから、モノの価値なぞという形而上学的なことは考える必要がないといえるし、こういう旧い学説を鼻で笑うかもしれない。
しかし世界観の問題なのだ。とりあえず「あらゆる人間の費やす労働は価値に還元できる」という人間主体の労働価値説で世の中を捉えてみることは、意味があることだ思う。
この世界観では、額に汗して働く人間こそが価値があるという人間観に繋がるし、そして現実にはそうなってはいない社会のユガミにも気づかせられる。

最近テレビで「埋没費用(まいぼつひよう)」ないし「サンク・コスト (sunk cost)」 というものの話を聞いた。事業に投下した資金のうち、事業の撤退・縮小を行ったとしても回収できない費用をいう。
サンクコストの影響はおおきい。
多額のカネを使った異性とはキライでも別れられない、(さすがに吟じませんが)あると思います。カネを払った映画は、途中から面白くなくても見てしまう、あると思います。つまり「サンク・コストの呪縛」にかかると無駄な時間をズルズルすごすというコストを払う結果になる。
サザエさんの漫画で、自宅前でタクシ-のメ-タ-が上がったので先まで行って重い荷物をかかえて戻ってくるというのがあったが、あれも「サンク・コストの呪縛霊・・・ではなくて呪縛例なのです。
「サンクコスト」のせいでもはや「惨苦コスト」の域に達した腐れ縁なんてのもありそうですね。
サンク・コストのことを知って元をとるなんてこと考えずに新たな出会いを求めようと別れの携帯電話をしたら、この電話番号は使われていませんなんてことも。
ベトナム戦争なんかも、アメリカの産官複合体なんかも投資した金を回収するために長期化・泥沼化したのか、などと思ってしまう。
ちなみに赤ちゃんにはサンクコストはありません。なぜなら本能だけで生きていて計算できないから。
初期投資が大きく、他に転用ができない事業ほど埋没費用は大きくなるため、投資も新規企業の参入も慎重になる。このことにより、埋没費用の多寡が参入障壁の高さを決める要因のひとつであることは寡占論の定説となっている。なるほど参入障壁の経済学的説明が「サンクコスト」なのだ。

それでヘンな私は、サンク・メリット(埋没利益)なんて考えてみた。
例えば物事がうまくいっていると、人はそれ以上にうまくいく方法には思い至らない。セカンドベストの利益で満足していると、ベストの利益を埋没させるということだ
つまり「陽の目をみない利益」のことですが、これ結構ありそうですね。
「知的所有権」花盛りの感がある世の中では、考え出したアイデアに特許をとり、他人のアイデア利用からはライセンス料をとるのが一般的なことだ。しかし「知的所有権」を主張して収入(ライセンス料)を確保したら、安心してそれ以上のことはあまり考えない。
ところがあえて「知的所有権」を主張せずに競争に身をさらしながら生きていったらどうだろう。長い目で見て、そのほが利益が高い(成長する)、ということもあるかもしれない。
そんなことを私が思い描いたのは、地元福岡の「博多メンタイコ」のことで閃くことがあったからだ。
メンタイコは終戦後、朝鮮より博多に戻ってきた川原夫妻によってはじめられた。スケトウダラを加工して食べる食文化は、17世紀ごろ朝鮮半島で広まっていた。
川原が中洲開いた店ははじめ乾物食品ばかり扱っていたが、夫妻は釜山で食べたタラコの味が忘れられず、1950年ごろからキムチ風の味付けでタラコを自宅裏で漬け始めた。
ここで大事なことは、タラコをキムチにつけるというアイデアに対して川原夫妻は特許を申請しなかった、ということだ。当然、競争相手も数多く現れる。
川原は「味の明太子」をつくりあげるまで、長い時間をかけて試行錯誤している。まず、メンタイ用の唐辛子を求め、京都のある会社を紹介される。この会社はカレ-紛の製造・販売そして世界の各種香辛料の調合と販売で知られる会社であった。
また、肝腎の原料のタラコの高い塩分をどうやわらげ、卵の旨みとプチプチ感を蘇らせるかに頭をいためた。 最後に一番苦労したのが「調味液」であった。どんな調味液に、どのくらいの期間、漬け込むかによって味はきまる。いわば「秘伝の味」であった。
「アイデア・フリ-」も、川原にしてみればこの秘伝の味とプチプチ感の実現があったればこそで、同業他社との競争に勝ち残れるという目算があってのことだろう。
近所の冷泉小学校の先生達が昼ご飯のおかずにということでメンタイコを買いに来るようになり、メンタイコの味は口コミで広がっていく。
さらなる飛躍のためには 競争相手と一緒になって当時はまだあまり知られていなかった「博多メンタイコ」をまずは全国に認知させる。それは「福屋のメンタイコ」以前の問題なのだ。
というわけで福屋一人でやるよりも宣伝費は抑えられたのではないだろうか。また、味や品質についてもさらなる研究が必要となる
そして中洲の繁栄と呼応するかのようにメンタイコは地元で売れ行きを伸ばすが、メンタイコが全国的に知られるようになった最大の契機は新幹線開通であった。
結果、全体として規模が大きくなったメンタイコ業界で、福屋には「外部経済」効果が働く。福屋は特許申請というセカンドベストに満足せずに、競争に身をおいてメリットを埋没(サンク)させることがなかったということです。
メンタイコが全国区になるという点において、「秘伝の味」をのぞく技術公開はむしろ福屋に成長と利益をもたらしたように思うのです。