政策アセスメント

日本人が広く、数字の虚飾に気づいた言葉として「くたばれGNP」というのがあった。
「くたばれ」という言葉の中には所得倍増を目標に頑張っているうちに、いつのまにか自分自身や家族の生活をひどく犠牲にしてきたことに対する怨嗟が込められているような気がする。
人間は数字として表れたものに振り回され、数字にあらわれないものを軽視しがちなものである
高度経済成長を成し遂げた日本人が、「豊かさ」を「量」で捉えるのではなく数字に表れない「質」こそが大事であることに気がついたのである。
最近の多くの組織で「目標を数字で定める」というのが流行っているらしい
会社の営業部門などで「月々の売上○円以上」というのなら昔からやっていたが、政府は国債残高を○年までに○パーセント削減、国連ならば地球温暖化対策としてCO2を○パーセント削減などを定め、学校ならば、大学の進学率○%以上をめざすといった具合である。
達成目標を数値で明確化するのは悪いとは思わないが、人間の方が数字に振り回されて本末転倒というようなことがおきる。
ある医療法人が月々の収益目標を達成するために、していない手術をしているように装い医療費を請求するしたり、地方の電機会社が利益をあげるために架空の障害者団体向けの郵便割安料金を使ってDMの郵送費を浮かしたりして、犯罪にまで手をそめている。
だいたい「数値目標」の数字はたいして根拠がないか、よほどシンプルなモデルを使ってヒネリ出されたものにすぎず、それが何がしかの強制力が働いて至上命令のごとき「達成目標」になった場合、どんなに大きな歪みをもたらすかについてまで充分考えつくされたのかということが疑問である

人間は数字に振り回されないために、数字の基礎となっている「単位」が身近な生活の中から生まれてきたものだということを再認識したい。
単位から捨象されたものに思いを致す時、数字というものが別の色合いで見えてくる。
単位というものは本来、恣意的につくられたものではなく、具体的な「何か」の長さや大きさで、驚くほど身近な生活あるいは「身体」から生みだされたものが多い
古代イスラエルでノアが神より方舟を作ることを命じられた時、その大きさを細かく指示されるが、長さ300キュピト、幅50キュピト、高さ30キュピトの大きさで3階建ての船をつくれと命じられる。
キュピトというのは、大人の腕の肘から手先までの長さを表し、方舟は150×25×15メートルぐらいになるという。
人の身体の部分から単位ができたものに、他にフィートがあり足のつま先からかがとまでの長さ30.48cm を1フィ-トとした。さらにインチは男性の親指の長さで2.54cmである。「一寸ぼうし」のは3.03cmでこれも親指の長さをもとにしたものだが、なぜか日本人の親指の方か長い。
ヤードの91.44cm は 手を広げたときの指先から顔の鼻先までの長さで、マイルは歩幅を広げた時の幅の長さで約1、6mである。
ダイアモンドの大きさ(重さ)をはかるカラットは、分銅にギリシャ語でケラティオンという名の豆を使ったことからつけられたそだ。
石油の量をはかるはかり方にバ-レルがあるが、これは石油輸送にシェリ-酒の空樽(50米ガロン)を利用したところ、目的地に着いた時、中身が蒸発や漏れにより42米ガロンに目減りしてしまい、これを1バレル(約159リットル)とした。目減り分を差し引いたところが面白い。
なおトンは、15世紀の初めイギリス船に税金をかける基準として、その船に酒樽をいくつ積めるかで決めたことに由来する。空樽を叩いた時の音「タン」が変じてトンになったというから、これまた面白い。
なお1mは、地球から子午線の全周の4千万分の1の長さであり、これは物理的に定めた長さである。
イギリスの通貨の単位はポンドであるが、ポンドは本来重さをはかる単位であった。メソポタミヤ地方で大麦1粒の重さを元「グレーン」が決められ、その倍量がポンドなのだそうだ。
ものを交換する時に、実際に金(きん)の重さを秤りながら取引をしたので、重さの単位がいつのまにか通貨の単位となってしまった

人間が数字に表わされた面子にこだわった「悲劇的」な例として「金解禁」という出来事を思いうかべる。
第一次世界大戦前、各国は金の輸出をやめ金本位制から離脱した。日本も直接の戦場とはならなかったものの1917年に離脱した。
戦後各国は金本位制に復帰したが、日本でも金本位復帰つまり「金解禁」(=金輸出解禁)を「いつどのような形で」行うかが大きな問題となった
金本位制下で1円は金0、75g、1ドル=約1,5g、でその交換比率は、1ドル=約2円であった。
金本位制復活に際しての「為替レート」を1917年時点でのこの「旧平価」で復帰するか、あるいは当時の時点での円の実力に見合った平価、すなわち「新平価」で復帰するか、が大きな問題となった
日本は1923年の関東大震災で円の対ドル・ポンドの為替レートは25パーセントも円安になっているので、「旧平価」で復帰するとうことは、実情よりもかなり円高で戻ることになる
「新平価で解禁か。旧平価で解禁か」という決断は、ある意味で平価に表れる国力の評価でもあり、日本の運命の分岐点ともなった。
1929年7月、浜口雄幸内閣の下で大蔵大臣・井上準之助はついに「旧平価」で金本位制への復帰をはかった。
当然予想されることであったが日本製品は割高となり輸出は減る。輸入が増えるので貿易収支は悪化する。金本位制の下では金で輸入超過分を支払うので、緊縮財政で金を準備しておかなければならない。
さらに、徹底的な合理化や経費削減で物価を押し下げておかなければ、輸出はなかなか伸びてこない。
これで景気がすっかり悪くなったが、さらに折り悪く10月に世界恐慌が襲った。
嵐の時に窓を開け放った感がある

今から振り返れば、なぜ「旧平価」で復帰したのかと思いたくもあるが、「平価切下げ」に対する強い抵抗感があったのだと思う。
ちなみに世界貿易の中心イギリスは「旧平価」で復帰したのだが、フランス、ドイツ、イタリアは「大幅な切り下げ」をおこない「新平価」で復帰している。
東大出の秀才であった大蔵大臣・井上準之助からすれば、日本がもし当時の現状に見合った為替レートに即した「新平価」で復帰すれば、製品価格の割高を調整するための無理なデフレ政策をせずに済み、さほどのデフレに苦しむことはなかったことぐらい百も承知だったにちがいない。
あるいは「旧平価」で復帰するためにデフレ政策をすれば優良企業以外は淘汰され、長い目でみて競争力をつけることもできると思ったかもしれない。
または、「新平価」での復帰には法律を変える必要があり、その場合、野党・政友会より「なぜ旧平価ではいけないのか」「金解禁のどこに問題があるのか」などという反対にあうことは目に見えていたために、政治的に摩擦の少ない道を選んだともいえる。
しかしせっかく世界の列強に仲間入りした日本が、「平価」という数値にあらわされた国力を低下させられないという面があった。(これも「言霊の国」ならぬ「数霊の国」日本の病理かもしれない
つまり一円=金ポンドという平価こそががある意味で、日本がようやく世界において勝ち取った力なのだという根強い意識があり、その意識こそが「平価切り下げ」を拒んだのではないだろうか。
ここに平価という数字に振り回された一面がある。
つまり、当時「一等国」へのこだわりが強すぎたといえるが、そのこだわりがどのように庶民の生活の犠牲を伴うかは充分に見えてはいなかったのだろう

そこに世界恐慌と重なり、ただでさえ輸出が伸びないうえに輸出産業は打撃をうけた。
当時の最大の輸出品は生糸であったから、農村こそが最も大きなダメージをうけたのである。
恐慌で生糸、絹製品のアメリカ向け輸出がガタ減りとなり、その打撃が養蚕農家や中小企業を襲った。
他方、旧平価による金解禁のために極端な円高になり、農村は塗炭の苦しみに陥っているなかで日本の銀行は円売り「ドル買い」に走っていることへの不満もたかまり、満州事変、226事件に至る軍国主義の温床となっていった

ある目標の達成の裏側に、それに至る犠牲の方がはるかに大きくなれば「本末転倒」である。
公共事業などを行う場合、事前に開発によって引き起こされる環境への影響を調査し公表しなければいけない「環境アセスメント」というのがある。こういう「アセスメント」を広い範囲で(意識的に)行うべきではないか。
例えば政治家が「マニュフェスト」する場合、ある公約を実現する「正」ばかりではなく、そのためにどん犠牲をともなうかという「負」を事前に明らかにするといった形での「アセスメント」(事前評価)である
世界恐慌という不運はあったにせよ、金解禁に際しての充分な「アセスメント」があれば、昭和の歴史も多少は違った方に向いたかもしれない、と思うのである。
そう遠くない日、選挙立候補者(又は政党)に簡易な「政策アセスメント」を課してみてはいかがなものか。