大衆社会批判の系譜

ホセ・オルテガ・イ・ガゼットは19世紀のスペインの思想家である。大学入学早々に「人間学」の授業でこの人物についてのレポートを出すことになり、その著書「大衆の反逆」を読む羽目になった。
一言でいえば「大衆」批判の書であり、大衆社会の愚劣さを間断なく語りつくしている。
印象は”貴族臭プンプン”で自ら「大衆」の一人としか自認できない者にとって、また、民主主義は絶対マルと教えこまれてきた者にとって、オルテガのなんとも高踏的な言説が鼻についた。
例えば、「大衆とは、良きにつけ悪しきにつけ、特別な理由から自分に価値をみいだすことなく、自分をすべての人と同じだと感じ、しかもそのことに苦痛を感じないで、逆にそのことに喜びを感じる人」だとか、選ばれた人間とは、「他人よりも自分が優れていると考える厚顔な人間ではなく、自分では達成できなくとも、他人よりも多くの、しかも高度の要求を自分に課す人間であるということを、知っていながら知らないふりをしているような人である」、とかいっている。なんか回りくどいですね。
今日「大衆批判」はタブ-に近いものがある中、日本では評論家・西部邁氏はオルテガの思想に依るところ大きく、するどく「大衆社会」を批判を繰り出しきた
また西部氏はやや皮肉をこめて、オルテガでさえ地球の反対側の日本でこれほどの「高度大衆社会」が実現するとは思いもよらなかったであろう、と言っている。
随分前から「民主主義」なるものが無条件でよいものだとは思えなくなるにつれ、オルテガのナタで切り落とすようなうな批判がむしろ痛快に思えたりする。

ところで、はやくから「大衆社会」への警鐘を鳴らしたのがアメリカの社会学者リースマンである。
リースマンは1950年の「孤独な群集」の中で人間の行動類型を過去の伝統に依拠する「伝統指向型」、自分の信仰や信念に忠実であろうとする「内部指向型」、そして他人の評判や意向に左右される「他人指向型」というように分類した。
リースマンは産業革命による新しい社会の登場によって過去にとらわれず自分の信仰や信念によって道を切り開いていこうという「内部指向型」の人々が多く登場したが、大量消費・大量生産の進展にあって社会が均質化・平均化していくにつれ、人々は他人が何をしているか何を買っているか何を楽しんでいるかなど絶えず他人の行動にアンテナをはり他人の行動によって自分の行動をきめる「他人指向型」の人々が圧倒的多数を占めるようになった、といっている。
このような社会で人々は簡単に雪崩をうったように一つの方向に動いて行く危険性があることを指摘している。
歴史家の会田雄次氏が指摘する日本人の島国根性的「やっかみ」「足の引っ張り合い」などに走る日本人像と重ね合わせると、日本の大衆社会の「ゆがみ」を痛切に思わせられる昨今である。
たとえば会田氏は、「決断の条件」の中で次のようなことをっている。
「私たちが個人として独立性を持たず、孤独を極端におそれる反面、管理組織で同志的結合であれ、いかなる集団徒党と化し、厚顔無恥、残虐の性格を露呈するのもこの基本的性格の現われだといわなくてはならぬ。こういう基本的性格から、常に仲間を求め、一人のときは強度にシャイであり、流行に弱く、絶えず身体を動かしていないと不安という日本人特有の症状も説明されよう」と、手厳しい。
会田氏がおっしゃる指摘がそのまま正しいとすると、個人の自律を前提とする民主主義にせよ、個人の良心の独立を条件とする裁判員制度にせよ、正しく機能することを果たしてこの日本で期待できるのか、という疑問がわく

リースマンは1950年に早くもマスコミが行う政治的な「情報操作」や煽情主義の危険性をも指摘している。
最近痛切に思うことは、マスコミ(または大衆)が必要なのは、「時代の寵児」であり、同時にそこからの「失墜者」なのだ
さんざん持ち上げておいてたたき落とすというのが今日のマスコミの風潮のように思えるが、これをマスコミに問題ありと捉えるより、マスコミが日本人「大衆」の本質を見透かしているとらえるべきかもしれない。
政治家どうし瑣末なことでの足の引っ張り合い、リ-ダ-シップを発揮できそうな人物がリクル-ト事件などで「名誉」や「政治力」を喪失していくのはむしろ痛々しい思いがしたが、そんなこと口に出そうものなら、政治家も大衆社会の写し身であることを考えもせず、「政治倫理をなんとこころろえる」などと、袋だたきに合いそうな社会風潮を思い起こす。
あまたの「失墜」をここぞとばかりに拡大して支持率や視聴率を伸ばそうとする政治やマスコミの風潮は、「衆愚」に堕しているといってそれほど遠くはないように思う

ところで、リースマンがいうように、人々は「伝統指向型」→「内部指向型」→「他人指向型」といった一方向に進むのでなく、「伝統」回帰つまり「本源」回帰を行うことがしばしありうるのではなかろうか。
なぜなら、人間は未来への希望が必要だが、意義のある生のためには「過去」こそが重要なのだ。それは病で「過去」を喪失した人々のことを思い起こせば容易に理解できるかもしれない。
他人指向型にとっての現在の「うつろさ」と不確かな未来よりも、確実な過去(個人史の過去ではなく本源的過去)に拠り所を求めるという指向はおおいにあることだと思う。
そして「本源」回帰としての伝統志向が大衆行動としておきることがある。イランのホメイニ革命のようにシンボル的な存在(指導者)をもつ場合もあるが、日本の江戸時代の末期に澎湃としておこった「ええじゃないか」と叫びながら乱舞するという大衆行動もおきている
「ええじゃないか」の乱舞は、動物が地震の前に動き出すように何か大きな社会変動が起きる前に「方向性」を見出せぬまま民衆のエネルギーが爆発したというように見られるが、当時の社会風潮に「伊勢詣」といういわば聖地巡りがおきたことからして、人々の意識に「本源」回帰がおきていたことも一つの側面である
ただこうした大衆行動を側面または背後から「操作」しようとした力を感じさせるものがある。
なにしろドサクサの中にあって倒幕の動きをカムフラ-ジュできたため、「ええじゃないか」乱舞が終息せんとする時、あまりにタイミングよくお札が空から舞い降りたりして、再び乱舞が始まったという。
そうした「不思議」を演出したのも、そうした倒幕派の動きではなかったかという説がある。

ところで個人的には、大衆批判の最良の教科書は「新約聖書」ではないかと思う。
イエスの時代のイスラエルが「大衆社会」というのは適当ではないが、イスラエルはローマ提督の配下にあり、律法学者・パリサイ人・サドカイ人など指導層がいたものの、聖書がいうとおり「民衆」とよぶことができる人々が数多くいたことは確かである。
民衆とは何か、それはイエスと民衆の「わずか一週間」ほどの動きをみれば赤裸々にわかる
エルサレムにむかうイエスに群衆は自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの者たちは木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、前に行く者も、あとの従う者も、共に叫びつづけた。
「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に祝福あれ、いと高き所に、ホサナ」と。
イエスにあふれんばかりについてきた人々の群れがそのわずか一週間後にどうなっていくか
イエスみずからが「聖書の言葉は成就されなければならぬ」と自らの十字架の死を語り始めた途端、群衆ばかりではなく弟子さえも逃げ去った。誰もイエスの関係者とは思われたくないのだ。
そしてその同じ民衆が数日後にイエスを十字架につけよと叫び出す始末である。
イエスを裁く立場にあったロ-マ総督・ピラトは言った、「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」。
すると彼等はいっそう激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った。ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうになるのを見て、水をとり群衆の前で手を洗って言った。
「この人の血にについて、わたしには責任がない。わたしには責任がない。お前達が自分で始末するがよい」と。すると民衆全体が答えて言った、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」(マタイ27)と。確かにユダヤ人のその後の歴史をみればその「血の責任」を本当に思わせられる。
ところでイエスが自らをキリスト(救世主)として公(おおやけ)にされ始めたころ親族の結婚式に出向くためにカナというところにでかけた。結婚式披露宴が佳境に入り葡萄酒が足りなくなったころイエスが僕(しもべ)の一人に水をもってこさせた。
イエスは一瞬でその水を芳醇な葡萄酒に変える奇跡を行い、人々は酔いがまわったあとから出てくる酒のほうが良いと訝しがりながらも喜ぶ。
多くの出席者はこの奇跡のことをを知らずに祝宴を楽しみ、ただその水を運んできた僕だけが真実を知っていた
聖書には、婚姻後の喧騒の中、イエスと真実を知った僕にどんなやりとりがあったのかは書いていない。 聖書にはただ「水をくみし僕は知れり」(ヨハネ2・9)とあるのみである。
イエスと「民衆」の関係を物語る興味深いエピソ-ドです。