集合知の利用

海外のインターネットの検索エンジンといえば少し前までいくつもあったが、最近ではグーグル以外はあまりみかけなくなった。日本はヤフーがグーグルより利用頻度が高い世界的にみて特異な国らしい。
グーグルが生き残った理由は、リンクが多いサイトから順に検索結果が表示されるからである。
リンクが多いサイトというのは、人々の中で有益なサイトと認められていることを意味する。
グーグルは「集合知」をうまく利用した結果成功した
「集合知」は多くの人々の知識を集めたものだが、この「集合知」の代表例がネット上の百科事典ともいうべきウィキペデアである。いろんな人が自由に書き込み編集を行ううち大変な百科事典ができあがりつつある。
もちろん間違いもあろうが、誰かが間違いに気づいて書き直したりするので、少しづつ良いものに仕上がっていく。逆にいうと完成されることのない百科事典なのだ。
ユーチューブは多くの人が動画を投稿するので、見逃した過去のテレビ番組などもみることができる。
ウィキペデアのことを考えるとスペインにあるサグラダ・ファミリアという聖堂のことを思い出した。サグラダ・ファミリアつまり聖家族贖罪聖堂は1883年にガウディによって建設が開始され、いまだにその建設は進行中である。
聖家族贖罪聖堂には18本の尖塔が建つ。ガウディが31歳から建築に携わったもので、彼が実際に目にした塔は、最初に完成した1本だけで、現在は8本がほぼ完成している。多くの人々が尖塔の建設に参加しているが、全部完成するまでにあと100年、あるいは200年かかるともいわれている。
いかに「集合力」でも、人類の贖罪を人間がやろうとしたら大変なものなのですね
ところで「集合知」というものに対して懐疑的になるのは暴動や株式バブルなどの「群集心理」に代表されるように、一般的に集団は個人を愚かにしたり、狂わせたりするものだと思うからだと思う。
しかし、「集合知」は群れる人々の衆愚ではないということである。独立した個人の判断を積み重ねることで集合的に形成される意見のことである
集合の知恵を上手に取り出すと「集合知」が成立するが、一般に以下の4つ条件が必要である。

(1)意見が多様なこと~誰かが私的優位情報持っていてそれらが加算されるような状態 が実現。
(2)メンバーが互いに独立していること~インターネットでは他人を意識せずに様々な考えを表明できる。
(3)中心を持たないこと~ 各人が身近な情報に特化し、誰も知らない情報を発信できる。
(4)意見を正しく集約できること~ 個々の判断を集計し1つに集約する場(ウェッブ・サイト等)がある。

日本社会で話し合いが重視されることは聖徳太子の「十七条の憲法」以来だが、明治期の「五箇条の御誓文」にも「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」とあるように「衆知の結集」を重視する傾向をもった社会であった。
江戸時代には、将軍・徳川吉宗が享保の改革で目安箱を設けたことも思い浮かべる。
しかし日本人の場合、話し合いとはいってもダイアローグつまり意見を対立させあって真理にいたろうとする姿勢ではなく、それとなく全体の意思や雰囲気を確認しあって調整する場のような傾向がある
つまり衆知の結集といっても「和」を確認・推進することに優先度があるように感じる。
とはいえ山本七平氏は、寺院の中で独立した個人が意思を表明する場があったことを書いている。
山本氏によると、人が氏族や大家族にぞくしている場合、家長権等を無視して意志表示を行うことなどまず望めない。
しかし「縁」を断ち切って「出家遁世」し、「個人」となって僧院に入り、平等な立場で仏陀にに仕えている立場だと自由とか独立の意志を示すことができる、ということを指摘している
だが、寺院といえども組織には上下があり、その組織の長は人事権を握っている。特に平安時代は「鎮護国家」の時代で僧は国家公務員だから、あるゆる俗世の作用を受けやすい。
しかし時として、氏族や大家族と違い血縁や序列のない「一味同心」的な集団が表れることもあったという。
比叡山延暦寺では衆徒3千で、集会は大講堂の庭に集まる。そのときの服装は異形であり、全員が袈裟で顔を覆い隠して意志決定が行われた。つまり「秘密投票」が守られた。
ちなみに多数決を採用した多くの民族において、その結果は「神慮」や「神意」が現われたと考えられたので、投票結果は全員を拘束することになる。
だから、こういう場で賄賂などで動かされれるようなら、それこそ神仏の冒涜となるのだ
時代は全く違うが、中曽根内閣や小泉内閣で見られた、「審議会政治」とのコントラストを思わざるをえない。
審議会とは大臣に任命された委員が、官僚が用意した資料に基づいて議論する場で、答申案も官僚が書く。なんか「集合知」の条件とは随分と遠いものである。
裁判員制度は、無作為な選考であり国政選挙と違い、判決を下す陪審員自身の利害に関係のない意思表示である分、「集合知」の状態に近づく気はするが、「集合知」というほどには陪臣員は多くはいないし、真に自由な意見の発露とはいかない気がする。
つまり集合知の素晴らしさは、突拍子もない意見が出せる自由度にかかっている
一つの規格外の知が他の知を刺激したり誘発したりすることによって、専門家(法律家)では得られないような結論をもたらすのが「集合知」の良さです。
裁判員となった人がそんな自由にものをいえる雰囲気つくりが果たしてなされるか、不安です。
アメリカ映画「十二人の怒れる男」は一人の男が出した「その段階での」突拍子もない意見によって、次第に陪臣員の意見が転回していった迫真のドラマでした。

全米ベストセラーになった「みんなの意見は案外正しい」(ジェームズ・スロウィッキー)という本がある。
それによると専門家を追いかけることは間違いで、大きな犠牲を伴う間違いだという。一握りの天才や専門家の判断よりも、普通の人が集まったごく普通の集団の判断の方が実は賢いことが往々にしてあるという。
そして「集団知」が専門家を含めた個人の知を凌駕する理由をきわめて簡単に説明している。
個々人がもつ私的情報は常に不完全な情報であり、そのため、私たち個々は「有限の合理性しか持ちえない存在」だが制約がどんなに多くても、一つひとつの不完全な判断が正しい方向に積み重ねられると、集団として優れた知力が発揮されることがある。
先述のウィキペデアの例でいうと、間違いはいつまでも放置されず、多様な見地から修正・加筆されていくことで、より完全なものに近づくからである。
また経済学における「合理的期待形成学派」の主張とも符合する。個々人の経済予測はまちがっても全体としては(つまり平均すると)正しく経済予測する。
合理的期待形成学派は、経済予測が当たる時、人々の経済行動はあらかじめ「折り込まれ」てしまい経済政策の効果を期待できないという結論を導き出した。

ところで最近の経営コンセプトに「ロングテール」というものがあり、それは「あまり売れない商品が、ネット店舗での欠かせない収益源になる」とする考え方である
ロングテールは「べき乗則」に従う商品売り上げのグラフを、縦軸を販売数量、横軸を商品名として販売数量順に並べると、あまり売れない商品が恐竜の尻尾(tail)のように長く伸びる。
つまり、販売数量が低い商品のアイテム数が多いということを表し、このグラフの形状から因んで「ロングテール」という。
今までのオフライン小売店では在庫の制限などでこの上位20%に当たる商品を多く揃えなければならず、その他(80%)は軽視されることが多かった。
しかし、アマゾン・コムなどのオンライン小売店は在庫や物流にかかるコストが従来の小売店と比べて遥かに少ないので今まで見過ごされてきたこの80%をビジネス上に組み込むことが可能になり、そこからの売り上げを集積することにより新たなビジネスモデルを生み出すことに成功した
従来、少数愛好家のいる品物の情報は行き渡ることはなく、宣伝費用をかけることはしないが、そこで利用されるのが「集合知」である。
アマゾンは、「この商品を買っている人はこういう商品も買っている」という客観的デ-タを示すことなどを行っている。

よく考えてみると「集合知」など何も目新しいものではない。我々は「集合知」を利用する場面をいくらでも知っている。テレビで「新キャラクター」の名前を募集したり、キャラクターそのものを募集しているものもあった。
インターネットでも「みなが作るレシピサイト」とか、みんなでつくる「ラーメンデータベース」とか、地域・生活情報サイト、海外旅行体験などにおける口コミ情報サイトなど随分前から作られていたように思う。
雑誌でよく「日本の名医」などの特集が組まれるが、名医なんて誰かが決めるんじゃなくて実際に診察をうけたり手術を受けた人の情報が一番たよりになるし、名旅館なんて実際に行ったひとの情報こそが一番確かではないだろうか。
人々が必要なのは過去の栄光とか権威なのではなく、「今どうか」ということであり、タイム・ラグがない情報は「集合知」をどう活用するかにかかっている
「集合知」は何が旬かを見逃さない。あるブログ検索サイトは、特定の「言葉」の検索頻度の「変化率」によって、表示結果を並べ社会の「旬」をとらえることに成功し人気サイトとなった。
政治や経済も「集合知」を制する者が勝者となるのかもしれない。
とすると「集合知」こそ、今最も旬なコンセプトの一つではないだろうか。