もったいない

ソニーの盛田元会長は、その著「MADE in JAPAN」でつぎのようなことを言っている。
とび抜けた才能と厳しい修練をへて芸術家が誕生する。人々は高い金をはらって芸術を鑑賞するが、その芸術が深い感動を与えるが、ミスを不評を買えば致命的となる。いずれにせよ芸術は、すべてが観客の前に明かにされるのだ。
しかし経営の不思議なところは、ミスをしても気づかれず何年もそのままでいられる点である
経営とはその時々の四半期の決算だけでは判断できない。四半期の収支決算では経営者がうまくやっているように見えても、同時に彼等は、将来にむけて投資をしぶって会社に損害をあたえているかもしれない。
その点、経営は詐欺まがいの仕事にもなりかねない。
盛田氏の以上の言葉は、「収益」を「支持率」に、「経営者」を「政治家」に置き換えても十分妥当する言葉だ

25年ほど前にカリフォルニアで暮らした頃、アメリカの多くの若者がウォークマンを身につけていた。実は英語でウォークマンは「浮浪者」を意味することもあるらしく、彼らの多くがそれを「ソニー」と呼んでいたのが印象的だった。特にそれは、スケボー・ジーパン姿の若者のフィギュアの一部と化していたように思う。
アメリカではじめて、「Made in Japan」が「身体化」されたともいえる
1987年に評判になった盛田昭夫氏の著書「Made in Japan」に語られた企業哲学は、ここ十年ほど「新自由主義」言い換えると「市場万能主義」に踊らされた日本人にとって、あらためて「企業一家」に回帰せよということを教えてくれる本である。その一部を「盛田語録」としてランダムに紹介すれば次のような内容である。

*アメリカの産業界が良い製品を製造して得るという本来の姿を忘れ、マネーゲームにうき身をやつしている傾向を憂慮する。
*日本のテクノロジーの進歩発展の特異性は、それが軍事技術と無縁なことである。
*ヨーロッパでは、伝統的に科学者を尊敬するが、技術者は評価しない。
*働く意欲を引き出すのに、賃金のみが最大の効果を持つ武器だと考えてはならない。
*やる気を引き出すには、人々を企業という家族にひきこみその家族の尊敬される一員として扱うことである。
*日本の企業は不良品が出ないように皆が検査係となって製造においても仕上がりにおいても目を光らせている。
*アメリカのように転職が自由であれば、企業の情報は保持できない。(有名なフォード社かららクライスラーの社長に転じたアイアコッカの例など)、トップレベルの情報も簡単に漏洩し信頼や忠誠が育たない。

日本ですぐれた経営哲学をもった人物として松下幸之助氏や稲盛和夫氏がいるが、やや宗教的なニオイがあるため脇に置くとして、ソニーの盛田昭夫氏の経営は、営業を通じて国際社会の中で日本人のあり方や日本文化の神髄を強く発信している。結果的に信頼のブランド「日本」のセ-ルスマンだったと思う
そして、グローバル化された今日だからこそ、「自分を見失うな」ということを改めて教えてくれる存在である。

ところで私は大企業の創業時の写真を見るのが好きである。貧弱な工場であっても集まった人々のぎこちなくはにかむような表情の中に、しっかりと未来をみつめている輝きがあるからだ。
1956年東京品川御殿山の東京通信工業(現在のソニー)が創立10周年を迎えているが、その時の全社員の集合写真が「Made In Japan」に掲載されている。盛田氏と終生のパートナー井深大氏の二人を中心に社員483名の顔が並んでいる。
この人たちがその後に作りあげた会社の発展を知った上でのことだが、ついつい彼らの瞳の奥に夢の萌芽を探ってしまう。
盛田昭夫氏は愛知県の造り酒屋に生まれた。偉大な技術者・井深大氏とは、陸海軍と民間の研究者からなる軍の科学研究会という所で知りあっている。
井深はその時すでに日本測定器という会社を興し、磁気探知装置の測定に使う水面下30メートルまでの潜水艦を発見できる装置に使われる小さな部品を作っていた。
盛田は、井深が部品のチェックに音楽学校の学生を雇うなどしていたことに興味をもち、ぜひとも井深と仕事をしたくなったのだという。(このことは後にオペラ歌手大賀典雄を社長にすえる未来の予兆にも思える)
二人は1946年焼け野が原になった東京日本橋の白木屋三階に東京通信工業を設立した。そして井深の短波放送受信アダプターによってなんとか会社の財政基盤を作ることに成功した。
進駐軍からミキシング装置の製造の注文がきたことがきっかけでテープレコーダーの開発にむかった。しかし当時の日本人の生活水準からしてテ-プレコ-ダ-は必要のないものでありまったく売れなかったという。しかし、この開発がのちのベータマックスにつながっていく。
ソニーは創立当初より海外市場に目をむけていたが、盛田氏はさほど英語が上手なわけではない。ただ盛田氏の真骨頂は自分の意思を分かりやすく明るく伝えることであった。
また盛田氏は「こんな人と付き合いたい」リストをもっていて、機会があれば物怖じせずに会う。
富豪ロックフェラーをも自宅の天ぷらパーティーに招待し、指揮者のカラヤンとの親交も深い。
盛田氏のもう一つの真骨頂は、「自分に限界を作らない」ということかもしれない

ソニーという会社の面白さは、それ彩った人物との交流史の中にある。
最近、島津製作所の田中耕一氏が民間企業からノーベル賞を受賞したが、民間企業出身でノーベル賞の第一号は江崎玲於奈氏で、実は東京通信工業(ソニ-)出身である。
ソニーはトランジスタの基本特許は外から入手したが、それを会社の用途に合わせてもとの発明家たちが想像もしなかった形に再設計した。それを実現したのが当時の研究員であった江崎玲於奈氏である。
江崎氏はダイオードのトンネル効果を発見し、高周波のトランジスタの開発に成功し、1957年には世界最小のトランジスタが実現した。
江崎氏は後にIBM入社後、それに対しノーベル賞を受賞したが、トランジスタを突破口に超LSIにいたる飛躍的発展の出発点ともなったことを考えれば、その功績の大きさがうかがえる。
また、後にソニ-の社長となる大賀典雄氏と盛田氏とのやりとりが実に面白い。
当時東京芸大の学生でであった大賀は、ソニー最初のオーディオ・テープレコーダーのファンだったが、ファンゆえこの新製品について手厳しい批判をした。
セールスマンをあまりにも不躾な質問で攻めたてるので、セ-ルスマンはとうとう大賀を直接エンジニアに会わせる為に工場につれてきた。
大賀の批判はオーディオの技術的問題だけではなく、ソニーの経営が旧式であることまで指摘した。
そしてソニーの「新しさ」を自負していたところのある盛田をもってしても、大賀の提案は(口惜しいことに)いちいち魅力的だった。

盛田は大賀に目をつけ、大賀がソニーの経営陣に入るべきだとすすめた。
大賀は藤原歌劇団で歌うバリトン歌手であり、ベルリン留学がきまっていたためにその申し出を断るが、盛田は留学費の一部を負担するなどして大賀との繋がりをたやさなかったという。
サラリーマンがいやで芸術の世界を目指した大賀典雄が、第二製造部長のポストでソニ-の経営陣に加わったのは、結局大賀は盛田の術中にはまったということかもしれない。

1958年、東京通信工業は世界市場を意識して名前をソニーに変えたが、音を意味するラテン語「sonus」とかわいい坊やを意味する「sonny boy」をかけ合わせた「Sony」とした。
盛田はこのブランドと社名をことのほか大切に守り続けた。
ある菓子メーカーがロゴもそっくりに「ソニー・チョコレート」なる菓子を販売した時、それは絶対に許容できることではない、商標は万難を排しても守るものとして裁判に訴えでている。
当時、知的財産権なるものは明確に確立していなかった。しかし盛田は、商標は場当たり的な思いつきではなく、責任を負い、製品の品質を保障しているものである、という強い意識をもっていた
またブランドが確立していない日本は、アメリカのブランド名で販売する条件で売るOEMを、大口の製造受注ができるというのでよく受け入れていた。ソニーに対してもあるアメリカの大手メーカーが、OEMの条件下でトランジスタ・ラジオ十万台の注文をだした。
破格の注文だったが、盛田はSONYが生み落としたものは、SONYのブランドしか売らないとOEMを断り、ブランド戦略を貫いた

盛田氏の企業経営哲学の中心は、人は賃金を求めているわけではなく人を重視し家族の一員として組織する、社員に意思の決定権を与える、幹部は一人軽業師みたいなスーパープレイを避け、大勢が喜んでついて協力する気になるようなものでなければならないなど、「人間中心」を基本に据えている。
「もったいない」という言葉は最近国際的に知られたが、盛田氏は「MADE in JAPAN」の中で日本人が伝統的にもつ「節約」や「倹約」の文化についてふれ、「もったいない」という言葉の意義をすでに述べている
「もったいない」という言葉は、日本人の心と日本の産業の本質を説明する重要なキーワードと言い、この言葉は天地万物はすべてのものは神からさずけられたものであり、けして無駄にしてはならないという戒めが込められている。
[もったいないは」、言外に「神への冒涜」という意味を含めている。大自然のすべてのものは神が託した聖なる品で、人間はそれを余すところなく利用はしても、浪費は罪である、と日本人は感じている、と。
盛田氏自身、そのの能力と体力をフル活用して世界を飛翔したことを思えば、「もったいない」の体現者であったのかもしれない
また、わざわざ国家や社会の為になどいわずとも、その躍動感でそれを実行していた感がある。
盛田氏72歳の時、品川プリンスホテルの室内テニスコートで倒れた日には、昼には経団連会長になる記者会見がセッティングされていた。盛田氏の晩年が相当オーバオワークであったことは間違いない。

社会の中には様々な教育機能が織り込まれている。企業の哲学(思考・志向)は働く親の姿から、あるいは食卓で語られる言葉から滲みだして、ある種の社会風潮を醸し出す上で少なからぬ影響力をおよぼしている。
そして最近思う事は、「新自由主義」(=市場万能主義)は、世の中を「マネ-一色」に染め上げるあまりにも偏頗な思想だったということだ。
1990年代の不況下、解雇しにくく新しい雇用もしづらいという日本の正規労働システムは、企業にとって非常に厄介な問題だった。アメリカ型株主優先経営こそが正しいという意識も加わり、経営者達は雇用コストの低い非正規労働者をどんどん増やして、短期的な利益を追求した。
今わかったことは、これは企業にとってむしろマイナス面の方が大きかったということである。
もともと企業一家としての一体感、長期安定雇用に基づく「共同体」意識が日本企業の強みだったのだ。
それを日本企業は自らの良き特質を見失い「派遣」という勝手の良い労働者を使うことで、会社の中を「正規」と「非正規」に分断した

「派遣切り」は法的に問題ないとしても長い視野でみると日本経済の競争力を低下させるにちがいない。
一方、世界市場の先端に立ち「企業一家」「企業ブランド」を固守した盛田氏の企業哲学はすたれていない。
ただ井深・盛田以後のソニーの不振が気になるとこではある。
問われることの一つは、右肩上がりの経済の中で生み出された企業哲学が、長期の不況にあっても真髄を失うことなく生き残れるか、あるいは受け継がれ得るかということだろう。
「派遣切り」はやっぱり、もったいない