生ける弁証法

日本財界の生みの親といえば渋沢栄一、日本資本主義の設計者といってよい人物でもある。
多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上とされている。
この人に「雨夜譚」(あまよがたり)という自伝があるのを知った。自伝ならば「福翁自伝」や「高橋是清自伝」など日本資本主義と関わりの深いものの方がはるかに有名なのだが、「雨夜譚」なんていう源氏物語を思わせるタイトルにひかれてつい読んでしまった。
福沢諭吉の「福翁自伝」の本領はその啓蒙精神つまりは迷妄から抜け出そうとする明敏・痛快な精神にある。
こういう精神が大分の片田舎から生まれたのは意外だと思うが、その故郷・中津に行って分かることは、この地は前野良沢はじめ洋学の先達が多く活躍していたということがわかる。つまり福沢の啓蒙精神にはそれなりの背景があったということだ。
ただ渋沢栄一の場合には、そうした洋学の影響のすくない「血洗島」(現埼玉県深谷市)という不気味な地名のついた地を出身地として、その精神のありようはある意味で「奇跡」のようでもある。
その渋沢氏は、「僕の前に道はない」つまり国内では前例のない「資本主義の道」をつくり続けた人物である。一体その精神たるや如何なるものかと思ってしまう。
そして「雨月譚」を走り読んで印象的なことは、自問自答のくりかえし他者との議論のプロセズの紹介で全体が占められている、ということである。つまり「雨夜」のごとく先行き不明な道を渋沢氏がその重大な分岐点で立ち止まり、自他と問答をくりかえしてきて歩んできたという内容だ。
タイトルだけならばケンケンするようによろけてあるいた陸奥宗光の自伝「蹇々録」を思わせる。
渋沢の「雨夜譚」は問わず語りと対極の「問い語り」で、渋沢流「弁証法」が全体を覆っているのだ。
その「弁証法」とは渋沢氏の世界認識を示しているばかりではなく、「あたかも蚕が卵種から孵化して眠食をかさね、それから繭になって蛾になる」と自ら語っているように、渋沢氏自身が分裂し統合され新たな存在になっていく「生ける弁証法」のようにも思えてくるのだ

渋沢氏の実家は、血洗島で藍玉を売り歩いたという点で福岡県宗像の藍問屋生まれの出光佐三と共通し、出光の「オ-ダ-石油」の発想が藍の商売と無関係ではなかったように、渋沢氏の合理精神と無関係ではなかったように思われる。渋沢氏は少年時代親の見よう身まねをで藍を売り捌き大人達を驚かせたが、自身の商才への開眼はそうした実家の経営にあったということはいえる。
だが血洗島の一青年といえども時流とは無関係ではいられず、その関心は当時の若者にありがちな尊王攘夷という国事の方に向かっていった。国事に奔走するために血洗島を離れる。つまり実家の経営から手をひくということについての父親との問答を「雨夜譚」は伝えているが、親も子も考え方がとてもしっかりしていて立派であることが読み取れる。
結局渋沢は親を説得して故郷をはなれ、まずは高崎城を襲撃して武器を奪い横浜で外国船を攻撃するという攘夷行動に身を投じようとしたのだが、他者と議論し自ら問い計画の無謀さに気づき結局は行動を中止した
その中で渋沢は高山彦九郎や蒲生君平にはなりたくないと語っている。つまり彼らは「気節のみ高くて現在に効能のない行為で一身を終わるのは感心できない」と批判し、渋沢の出自たる商人らしい実利主義を露にしている。
その後情勢把握のために京都に向かったが、江戸で高崎城襲撃計画の仲間が逮捕され、その人物が渋沢にあてた手紙をもっていたことから早くも幕府より嫌疑をかけられる可能性がでてきて、この段階で捕縛されたのでは犬死するだけだと、たまたま知り合った一橋家(幕府方)の人物の庇護を一時的に受けることになった。
この行為を外からみれば渋沢は「変節」したのであり、実際に母親をして「恥」だと悲しませる結果になるのだが、当時の渋沢は、もっとふさわしいつまり「効アル死」を探していていたのだ。
渋沢氏にとってまたは日本資本主義にとって間違いなく幸運だったことは、尊皇攘夷プロパ-の時代に、彼にふさわしい死に場所がについに見つからなかったということである。というよりも渋沢が「死に場所」を探すうちに、時代の方が先に先に進んでいったということである。
その後、一橋家家臣の推薦により一橋慶喜に仕えることになり、一橋家領内を巡回して農兵の募集に携わり、農兵を集める際の工夫や「自問自答」も興味深いところである。
さらに主君の橋慶喜が将軍となるという分岐点がやってくる。本来は自分の上司の出世を喜ばなければならない立場なのだが、もともと渋沢は「反幕府」という本心を隠して一橋家に仕えたのだ。まして沈まんとする船に乗り換えてその船長に仕えんとすることだから、そんなことはそれほど喜ぶべきことでもなんでもない。
渋沢氏は「攘夷」は無理と悟り一橋家に仕えることにも限界を感じ再び浪人にもどろうかと自問自答していた時に、思いもかけず将軍の弟・徳川昭武のパリ万博への出席に随行せよという命令がくだるのだ
その為には渋沢氏は徳川家の家臣として随行する必要があったのだ。
渋沢氏は当時先行きどうなるか分からずそして身の処し方も分別できず、この際外国を見てまわるのも利あろうかと徳川昭武の随員としてフランスを訪れる。本心を隠して一時しのぎに幕府方に身を置いた渋沢氏が、今度は幕府中枢に仕えることになってしまったのだ。
渋沢はヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行し、当時の先進国の文物を仔細に見聞することが出来、このことが「日本資本主義の設計」に大いに役にたつことはいうまでもない。
帰国後は静岡に謹慎していた慶喜と面会し、静岡藩に出仕することを命じられる。しかし、フランスで学んだ株式会社制度を実践するため、仕官を断り1868年1月に静岡にて商法会所を設立するが、大隈重信に説得され10月に大蔵省に入省する。

渋沢氏を見ると人の人生どのように展開するかわからない、というのがよくわかる。尊王倒幕の志士が徳川家家臣となり、そしてのち明治政府官僚さらには日本財界の発起人になっていくという驚きの展開をしていくのだから。 渋沢氏はいつも矛盾をかかえながら生きており、そのことがより高く新しい渋沢氏を生んでいくという意味では「生ける弁証法」なのだ。
弁証法とは思想史の上では色々なニュアンスを含んでアいる。ギリシアでは相手を言い負かすための詭弁術のような意味合いもあったが、ソクラテスの場合には「相手の無知を知らしめる」ためにその前提に溯っていく方法として、プラトン場合にイデアに近づく方法として、ヘ-ゲルの場合は「世界精神」の発露として、マルクスの場合は社会の発展法則として認知されている。
渋沢氏の「雨夜譚」に見られる「弁証法」は、自分のある考えに必ず別の観点からの考えをぶつけ対立させ、先の考えをより深めたり一般化するという誰しもが行う思考方式に過ぎないのだが、それを絶えず行っているのが渋沢流なのだ。
渋沢氏はいつも分裂する自分を抱えていたし、そのことが自らの中に絶えず「他者」を生み出そうとする習性を身につけさせた、つまりは自分をいつも「相対化」している人物なのだ
弁証法というのは、対立するものを分裂したままほうっておいては「病」におちいってしまうだけだ。それをより高い段階で統合してはじめて「弁証法」というものが成立する。
「雨夜譚」で内実を知ればけして華麗とはいえない渋沢栄一の転身も、この「統合」の自然な結果ともいえる。

実は私、大学時代に学んだ教授の一人に産業社会学の尾高邦雄教授がおり、当時テレビにしばしば登場していたN響指揮者・尾高忠明がその甥であることを聞いていた。さらには法哲学者の尾高朝雄が尾高邦雄教授の兄であることも聞いていて、あのスッゴイ尾高ファミリ-のル-ツ(出所)は何なのだろうと、当時より思っていた。そして「雨夜譚」で、この尾高DNAのル-ツと出会うことができた
「雨夜譚」には、渋沢栄一が7歳の時には従兄である漢学者の尾高惇忠のもとに通い四書五経や「日本外史」を学んだとある。 つまり渋沢家と尾高家は親族であり、様々な行動をともにしてきたという事が判明した。
若き日の渋沢氏が謀った高崎城乗っ取りから攘夷計画は、尾高惇忠の弟長七郎の説得により中止している。
この時の渋沢氏の「撤退」は、後を考えると彼の一身ばかりではなく日本経済界にとっても大きな分岐点だったかもしれない。
経済界における渋沢の「豊かな実り」を尾高という学者の巨木が支えていた、そんな感さえいだく。渋柿を甘柿に変えたのは尾高氏といえるかもしれない
渋沢の「豊かな実り」といっても他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、いわゆる「渋沢財閥」を作らなかったことにある。私利を追わず公益を図るとの考えを生涯に亘って貫き通し、後継者の敬三にもこれを固く戒めた。
渋沢敬三が宮本常一などの数多くの学者のスポンサ-となり文化面で貢献したのも、そうした渋沢栄一の「弁証法」精神の賜物である。なぜなら渋沢氏の弁証法人生は「公益」という一点へと「統合」されたように思えてならないからだ。