アニメ聖地巡礼

クレヨンしんちゃんの作家臼井儀人氏突然の訃報で、しんちゃんが「住む」埼玉県春日部市における喪失感は、我々の想像以上であるかもしれない。
なにしろ春日部市はアニメ漫画の聖地といわれ、外国からの「巡礼者」も少なくないのだ。
ところで最近、「聖地」という言葉をよく聞くようになった気がする。
昔、東京の数寄屋橋はラジオドラマ「君の名は」の舞台であったことから、「恋人達の聖地」といわれていたのは聞いたことがあるが、最近ではオタクの聖地・秋葉原、ゲイの聖地・新宿三丁目、まである。
「聖地」の氾濫は、人々がそういう類のものを求めている証拠ではないかと思う。
人々が故郷を喪失して拠り所を失い、聖地は自己のアイデンティティを確認する場所となっているし、自分と同じような信者(=仲間)と会える場所でもあるのだろう
そういう意味では、宗教とは本来関係のないアニメ聖地でさえもどこか宗教色を帯びているのだ。
そしてアニメ聖地はインターネットを通じてその存在が知れ渡り、当地を訪れる人々が増えるので、それが町おこしの誘因となり全体が整備され、「聖地化」が進行することになる。
そうした町は「クレヨンしんちゃん」の春日部はじめ、「ゲゲゲの喜多郎」の境港、「ラキスタ」の幸手市など数限りない。
幸手(さて)市は、江戸時代から日光御成街道と日光街道の合流点に位置する宿場町として栄えていた。市内には徳川将軍が日光東照宮へ墓参する際に立ち寄った聖福寺や明治天皇が行幸した折に宿泊した行在所跡が残るが、近年は人口の減少をみている。
この古色蒼然たる町が一躍若者の注目をあびたのは、「ラキスタ」という漫画によるものであった。
「ラキスタ」はオタクの女子高生と仲間たちの学園生活を描いてテレビで大ヒットしたアニメで、幸市市は主人公の「こなた」が住んでいる町である。「らきすた」の舞台は隣接する春日部や鷲宮にもひろがり、その「聖域」を探訪するマップが出たことから探訪するファンがふえ、ガイドさんまで現れた。
登場人物の実家が神社であったことから、神社へのファンの参詣となり、物語の舞台が文字どおりに聖地化したのだ。
作中に登場する神社のモデルとなった鷲宮町の鷲宮神社には、“聖地巡礼”と称してファンが詰めかけ、今年の初詣ででは約30万人が「参拝」したという。
そして作品に登場するキャラクターを描いた「萌絵馬」がたくさん奉納されている
萌とはあの「モエ~」の「萌」です
また「ひぐらしのなく頃に」はもともとゲームから始まった異色アニメで、昭和50年代の架空の村落・雛見沢村を舞台に、村にまつわる古い因習を軸にして起こる謎の連続怪死事件を題材にしている。雛見沢村の風景は岐阜県が誇るあの世界遺産・白川郷をモデルにしたそうである。
そして作中に登場する古手神社のモデルは白川八幡神社で、この神社にもやはり「萌え絵馬」が数多く奉納されているという。
このように、人気アニメならば「聖地化」が何処も起きるかと言うと、アニメのキャラクター像とそれに結びついたファン層によるだろう。
例えばアニメからTVドラマ化された「こちら葛飾区亀有公園前派出所」から、亀有に漫画のキャラクター像を作ることがきまったそうだが、この警察官にどのようなの思い入れを育めば良いのだろうか。
この漫画のファン層からみて「聖地化」への道は困難だと思う。
もっとも警察官「両津勘吉」は地下道に1ヵ月閉じ込められても生きていたり、東京タワーから落ちたり、走行中の新幹線から飛び降りても助かるほど強い生命力をもっている。
従って、その強靭な「生命力」にあずかれる場所というコンセプトで宣伝すれば亀有の「聖地化」も全く不可能ではない。(やっぱムリかにゃ!)
ところで「ひぐらしのなく頃に」は横溝正史の小説「八つ墓村」の影響を受けて書いていたそうだ。
「八つ墓村」の舞台といえば、岡山県の城下町・津山に近いが、津山といえばB’Zのボ-カル稲葉氏の出身地である。
B’Zが登場する前、津山市民はロウソクを頭にたてて走りまわっているといったイメージがあった。(ないっか!)
B’Z稲葉氏の実家である稲葉化粧品店は、そうしたおどろおどろしいイメージを一掃することに大きく貢献した。
B’Zの写真いっぱいの稲葉化粧品店にカップルで訪れるロック青年少年少女はひきもきらず、まるで「聖地」と化しているのだ。
稲葉氏が生まれ育った遊び場とか小学校・中学校・高等学校を訪ね歩く「稲葉ロードマップ」までできて、JR津山駅前に設置されていという。
若者を見送るばかりのこの町に、数多くの若者が到来し、そのお陰でここで暮らす高齢者も若返り、街のいたるところで路上「イナバウアー」を披露しているという。(ライ ラ ラーイ!)
「ゲゲゲの鬼太郎」の境港は漫画家・水木しげる氏のふるさとで、鳥取砂丘の漸次縮小化により「ウリ」がなくつある中で、「キャラクター町おこし」に成功している。
「水木しげるロード」には、水木しげる氏の漫画に登場する妖怪たちがブロンズ像になって境港の町に出現し、港駅前から本町アーケードの約800mの間では全部で134体の妖怪達が出迎えてくれる。まだ「妖怪広場」や「スポット河童」の泉が出現した。

アニメの世界では日本は世界の聖地であり、世界経済で日本株がどんなに「売り」でも、アニメ株だけは圧倒的に「買い」なのだ
漫画やアニメがいかにサブカルチャ-といわれるにせよ、以上のような「聖地巡礼」現象を「サブ」とばかりに見過ごすことはできないような気がしてきた。
聖地のご本尊(主人公)が、現実の存在ではなく虚構のキャラクターであることはきわめて現代的である、と思う。
歴史的キャラクタ-の徳川家康が神様となった東照大権現や豊臣秀吉が神様となった豊国大明神の中に、相当な「虚構」が織り交ざっているとしても、彼らの存在そのものが虚構というわけではない。
アニメ聖地という架空の人物の足跡を辿る「巡礼」なんてとても奇妙に思えるが、作者が自己を漫画の主人公に最も純粋な形で投影しているのならば、ファンが現実の人間よりも架空のキャラクタ-の方に心を託せるのは、むしろ自然なことかもしれない。
つまり、現実の人間よりもアニメの主人公の方が愛しいのだ
とすると巡礼者達が、アニメの登場人物の生活圏を歩んで同じ空気を呼吸しようと願うのも、分からぬことではない。
現代日本を特徴づける現象の一つアニメ聖地巡礼は、人々がアニメの主人公を「架空」の世界のものとせず、むしろ現実の風景に招きいれて同化体験をしているかのような感じがするのだ。
また、聖地は仲間をよび巡礼者達の「萌え絵馬」奉納をもって、暫時的「共同体」の確認をしているというようにもよめる。

カメラマン兼随筆家の藤原新也が1972年に発表した処女作「印度放浪」は、インドの世界観をえぐり出したその刺激的な内容から、多くの若者をインドへ誘ったと言われている。
藤原氏はインドに始まり、東洋を巡り、アメリカに至る旅の過程全体を「聖地巡礼」と呼んだ。
そして、「いかなる者にあっても、人の一生とはすべて自らの聖地を求める旅程なのである」とも語っている。
一般に聖地巡礼は死と結びついた観念である。人は死を思うからこそ何か強い思いや信仰を抱いて生きたいし、人はその思いを託する場所や対象を求めながらさすらっている存在なのかもしれない。
一見死への思いとは無関係に見えるアニメ聖地の巡礼者達も、そうした聖地の探求者であることにかわりはない。