託卵と分身の術

告白します。私はTV番組の中でも「動物系番組」を見るのが何よりも幸せで、家族皆が「ブラッデ-マンデ-」やらオドロオドロシイ「肉食系」番組を見ている時に、そういう奇態な人種とは一時的に距離を保ち、別室で一人静かに「動物のかわいい赤ちゃん特集」を見たりしている人間です。
そのうえ気分が乗れば、動物についてのテレビ入手の薀蓄を傾けたくなる人間です。

「動物番組」を見ながらとりあえず行う分類法は、「群れる」動物か「群れない」動物かである。またその「群れ方」の様式によってもある程度区分している。そしてそうした種ごとの「群れ方」の様子を見ていると、様々な人間界の「縮図」を見ているようで愛しさで一杯になるのです。
果たして自然全体に目的があるのか疑問だが、個々の種の目的は如何に「サバイバル」するかにつきる
そして私が「動物番組」で学んだことの一つは、動物が「群れる」か「群れない」か、そして「群れ方」の様式も少しでも「サバイバル」の可能性を高めるためということである。そこには人間の考えが及びもつかない「合理的選択」がある。
具体的にいうと群れる動物の中でも、自分以外の子供もよく面倒を見る動物もいれば、自分以外の子供は絶対排除する動物もいる。またヒョウのように一生、木を住処として孤独な生涯をおくる動物もいる。
鳥の世界では子育てカップルを助ける「ヘルパ-」役をつとめる種もある。子育てを手伝うことによって、繁殖の経験を積み、自分の子育てに役立てることができるメリットがあり、繁殖カップルも質の高いなわばりを占有することができる。
またヘルパ-からしても、繁殖していた個体が死んだ場合、よく知り尽くしたテリトリーを手に入れる機会が増えるのだ。
ライオンやリカオンの狩は驚くべき組織力によって成り立つが、子育てはムレ全体で行う。つまりライオンのムレは親を失った子の面倒をみるのである。たてごとアザラシの群れで、親を失った子が別の親の乳を吸おうとすると、その親からタタキノメサレルように追い払われるのとは全く対照的である。
これはライオンの子が組織的な狩の要員としても必要不可欠であるからであろう。
あるテレビ番組で衝撃的な映像を見た。メスライオンが迷子になって震え怯えるインパラ(子鹿みたいな動物)の子に近寄った時、誰しもがライオンの餌になると思われたその瞬間に、雌ライオンはなんとインパラの側で寝そべり腹を見せ乳を与えようとしたのだ。もちろんインパラの子は恐怖のあまり近づくことさえできず震えるばかりだったが、その一日後に目を疑う出来事が起こった。インパラの子が意を決したようにライオンの乳をまさぐり吸おうとしているのだ
残念ながら多くの乳を吸いだすことはできなかったようだが、インパラの子はその後安心しきったようにライオンと添い寝していたのだ。(このシ-ンは私が見た動物映像の中で衝撃度NO1でした)
そしてその雌ライオンはインパラのためにエサを探しに行くのである。その間、インパラの子は子を探し求める本当の親と出会いライオンのアジトを去る。ライオンは自分の子を失った母親なのか、哀れにもインパラの子を探し求める。あまりにも複雑な感情を惹起する「奇想天外」な映像であった。

ライオンの群れは一夫多妻制のハ-レムを築く。図体がでかく狩に適さないオスは狩に参加することはない。にもかかわらず、メスが捕った獲物に最初に独占的にありつくのはオスの特権である。
オスが食べ残した肉にメスと子供がようやくありつく。オスは「幸せ」の独占的享受者のようにも見えるが、そういうオスの特権はハ-レムを獲得できたオスのみに許されるものなのだ。この地位と特権を得ることができない多くの「放浪ライオン」がハ-レムの外で虎視眈々とその立場を狙っているのだ。
ハ-レムの主人たるライオンはハイエナなどの外敵から群れの安全やエサの保全をはかるという役割を果たすために、夜は縄張りの周辺を歩き回り侵入者を防がなければならない。(昼寝が多いのはその為です)
さらにハ-レムの主人たるオスは力をつけた若き放浪ライオンの挑戦をはね返せければならない。そうしなければキングはハ-レムのすべてを若きライオンに奪い取られるばかりではなく、自分の血をひく子供達も新キングによって殺されるのだ
若きオスライオンは、動物の中でも特別に厳しい環境を生きなければならない。一定の年齢になるとオスはムレを出てエサを求めて放浪しなければならない。ムレから離れてはそう簡単にエサにありつけるはずもなく食べるものといえば、他の動物の残飯だったり奪い取った物が主だったものである。そして多くの放浪ライオンが野垂れ死にする。
ネをあげてムレに帰還ししようものなら、「非情な掟」が待っている。母親も含むムレ全体から袋だたきに合うのである。そして皮肉なことに雄ライオンは体が出来上がるにつれて、狩に適さずムレを必要として、ハ-レムを乗っ取るべく、どこかのハ-レムの主人たるライオンに挑戦を挑むのである。戦い敗れれば狩にすっかり適さなくなった体を引きずって滅んでいくしかない。
ところで村上春樹の本に馬のハ-レムに関する面白いエピソ-ドが紹介されていた
種つけのために最も元気のあるオス馬をメスだけの檻のの中にいれられ、そのオス馬はしばらくの間は至福の時を過ごすのだが、メスとたくさん交わった分体力が落ち、やつれた体でオス馬の檻に元すと、他のオスから散々イジメつくされるそうだ。つまり天国を味わった分、地獄も味合わなければならない。
さて動物は「群れる」様式によっても区分されると書いたがいくつか印象的な動物の子育てを拾ってみると、ある鳥は必ず二羽セットで生み落とし二羽を公平に育てる。しかしそれも、どちらかの子がもうひとつの子を文字通り巣から「蹴落とす」までだ。
親はその「蹴落とす」様子をじっと見ながら、これから最後まで育てる一羽を選ぶのだ
また豚の乳のみで子供達の序列は、生まれてほどなく決定する。生まれた時の微妙な体力差でいくつも並ぶお乳を吸う定位置が決定するのだ。強い子供はもっともお乳がでる真ん中の乳を吸い、ひ弱な子供は端っこの乳を吸う。実験に、一番弱い子一匹で乳を吸わせる実験をしたら、空いた真ん中の乳を吸わず端っこの乳を吸い続けるのである。

私が動物界の子育てで一番驚いたのは「タクラン(託卵)」というサバイバル術である。
カッコウの一種ジュウシチはオオルリの巣に自分の卵をこっそりと産み落とす。
ジュウシチは、卵から孵るとオオルリのヒナを巣から蹴落としみずからがオオルリの子として育っていく。逆から見ると、オオルリは自分の卵と混じったジュウシチの卵を温め続けるのだ。
ジュウシチのヒナがちゃっかりオオルリの子になりすまして育つ。オオルリの親は、お人よしというか「お鳥よし」にも自分よりはるかにでかっくなった「子供」にエサを運び続けるのである。
一体何をタクランでんだ、といいたいが偽装はそればかりではない。まずジュウシチのヒナがエサをねだるために黄色いクチバシを力いっぱいに広げるが、体の大きなジュウシチにしてはオオルリが運ぶエサの量では不満らしい。
そこで大食漢のジュウシチは、たくさんの食事をねだるために驚くべき「分身の術」にでる。
羽の裏側に毛が生えずに黄色くなっている部分があるが、その露出した黄色い部分をたくみに動かしてクチバシにみせかけ、両翼と本物の頭を合わせてヒナが三羽いるように見せかけるのだ
実は、ジュウイチは成人すればオオルリの五倍の大きさにもなる鳥だが、「子供」に羽毛がはえオオルリよりも大きくなった段階でもなおもエサを運び続けるオオルリの姿のなんとケナゲなことであろうか。

元女流棋士の女王・林葉直子さんのエッセイに、エサを毎日与える自家の犬が、自分よりもなぜか父親に馴染む「犬の不倫」が悔しいと書いてあった。そこで私が思い出した話は「不倫」どころの話ではない。
ある動物園の飼育係が退職するにあたってしみじみと悔しく思うことは、長年エサをやってきたワニがいまだに自分を喰おうとしたことだという。
また畑正憲の本に紹介されたエピソ-ドに、ゴリラがあんまり発情しないので、思い余った飼育係が人間のビニ本(エロ本)を見せて発情を促したという話があった。
いずれの話も、人間の視点からみた期待と自然界の摂理とのズレを物語っている
テクノロジ-ではなく自然の摂理を、人々が感動をもって語リ始める時、もっと住みよい世界が待っているはずだ。