風のふくころ

風が吹く時、人は風を受けとめたり避けたりする。ある政治家のブログに「風」というものがあったが、風が時代の要請だったり世論のようなものならば、政治の仕事は、風を受けとめることだといえる。
経済ならビジネスを興す者は、風を探すこと、あるいは自ら風を起こすということかもしれない。
風は極寒の中の強風のこともある。今日のように人々が不況で苦しんでいる状態は、南極の黄金ペンギンのように身を寄せ合い体を少しでも接触させ身を固め合って激しい寒気を凌いでいる姿を思い浮かべる。
が、あの黄金ペンギンは、周辺ペンギンばかりが寒気に直接さらされることのないように、集団の内部へと少しづつ位置をかえていき痛み(寒さ)を公平化しようと動いている
つまり群れの固まりの中にいるペンギンは、公平に寒気にさらされているのだ。一方、人間界では、大企業から系列・下請けと位置関係がはっきりしており、風あたりは周辺部の中小企業や「派遣社員」に極めて厳しく作用し、ペンギン界とは随分違った様相を呈している。

今、夏の選挙を控えて政権交代という強風が吹きそうな予感がただよっている。むかし、あらゆる強風にもびくともしなかった「超然内閣」というものがあったのを思い出した。
明治時代の話で、国会が開設される前であったから、国民の声を風として政府に送り込む仕組みはなく自由民権運動という強風にさらされた首相・黒田清隆は、自由民権などとは関わりなくやっていくと言ってのけた。
これが有名な「超然内閣」宣言である。
自由民権運動の指導者は当初元士族や豪農であったが、政府の弾圧や運動の分裂、政府の術策で指導者(板垣退助)が外遊するなどでシラけ、一旦は終息に向かうかにみえた。
薩摩長州に牛耳られた「超然」「強権」「官僚」内閣により、民権運動の指導層が分裂・弱体化しても、運動の陰には多くの農民、職人、都市生活者達がいた。彼らを民権運動に引きつけたのは、苦しい生活から逃れたい一心であった。
明治になって生活が楽になることを誰よりも期待してきた彼等は、増税につぐ増税、外国貿易による生活の圧迫の中で、より良い生活を求める気持ちが断ち消えるはずもなかった。
そして彼等は「国会開設」という新たな目的に運動を結集していったのである。
国会開設後、人々の多くは反政府の政党(民党)を支持したが、日清戦争までは第二次伊藤内閣の「対外強硬路線」を攻撃するものの、日清戦争に勝利をおさめたため批判する材料を失い、政府もまた民党の協力なくして今後の政権運営が困難であることを痛感した。
日清戦争の勝利は結果的に藩閥内閣と政党との接近をもたらし、第二次伊藤内閣は自由党と、1896年成立の第二次松方内閣は進歩党とそれぞれ提携して、軍拡路線をおしすすめることになる。
それまで政府(吏党)を攻撃した自由党自体が、今度は政府与党となったことに憤激した幸徳秋水は「自由党は死せり」と嘆いたが、政党を取り込んだ形での内閣はもはや「超然内閣」を卒業する段階にきたとみることができよう。

戦後、議院内閣制つまり議会の多数派が内閣を形成することから「超然内閣」ということはありえないが、今尚「超然」という言葉が似合いそうな行政府(省庁)の実態がある
戦後55年体制下で自民党長期政権が実現し、その安定度故に政権を抱きこんで官吏が国を動かしたという点では、少なくとも省庁は「超然内閣」時代とそうかわるものではない。
戦後政治の官僚主導は様々にいわれていきたが、現政権下で成立する法律は政府が提出する内閣提出法案通称「閣法」が大半で、「議員立法」は極めて少ない。
政治家は政策のアイデアまで官僚に求め、官僚が立案、国会答弁し、執行・運用までも官僚に委ねている現状があり、官僚の力が強くなるのは当然である。
アメリカでは議員が立法を行うの普通で、その為に議員お抱えスタッフが存在する。国会議員にも政策秘書が付くそうだが、この政策秘書が議員の「立法」能力の増進にどれほど貢献しているのか疑問が残る。
「閣法」が増えるとどんな問題がおこるか。各省庁の官僚が法案をつくる際、その面倒を見るのが内閣法制局である。
一方、議員立法のサポートをするが「衆議院法制局」、「参議院法制局」があるが、内閣法制局は多忙であるものの、衆議院法制局と参議院法制局は、閑古鳥が鳴いている。
すなわち与党及び与党議員は、最大の役割であるはずの政策立案そして立法行為を官僚にまかせ、法律づくりの具体的な実務をも内閣法制局にまかせる、という結果になる。
  各省庁の官僚は法案や予算案を立案し、与党議員への根回し、省庁間の意見調整、自治体や関係業界への説明などを行い、自民党の部会や政務調査会で説明する。部会は省庁別に設置されるため、省庁との結びつきが強まり「族議員を生み出す温床」となっている
ただ法案が党の最高意思決定機関である総務会を通ると通常は所属議員に党の決定に従うことを義務づける党議拘束がかかり法案が通る可能性が高まる。
結局、政府提出法案であっても、事前に自民党の承認を受けなければ、実質的には国会に提出できない仕組みになっている。
一方、野党経験しかない民主党は、党の約20人の政策調査会スタッフが、衆参両院の調査部門や法制局、国立国会図書館を使って法案をつくる。
霞が関の官僚群をすべて使える自民党と比べると、総勢でも200人くらいで法案つくりに関わる程度だという。

官僚に頼れない分、法案作成能力が磨かれるかもしれないが、こころもとない気はする。
もっとも2007年の参院選で民主党が参院の第一党になり、衆参の「ねじれ」が生じて以降は、官僚は民主党へも配慮するようになった。民主党の部門会議への出席者を課長級から審議官・局長クラスに格上げしたことなどは、官僚が新しい風への対応といえる。
はっきりいって国民が選んだ国会議員が主導権をもって法律をつくらないなら、議院内閣制とはいえ、国会不在の「超然内閣」と変わらないのである。
政権交代で内閣の看板は変わっても巨大な官僚体制にのみこまれ抱きこまれるようでは、明治の「超然内閣」の悪夢が蘇るといってよい。
もっとも明治の超然内閣は強権内閣というイメージがあるが、今日の政治制度で、民意を反映しない「超然内閣もどき」は逆に、支持率を失い早晩瓦解する運命にあるモロイ内閣ともいえるかもしれないが、そうとばかりはいいきれない。

アメリカにおける政権交代は 官僚も交代とばかりに ワシントンは総入れ替えとなるが、日本では官僚達は政権交代しても「依然として」そこに居続けるのである。
思うに、どこかの職場に新しい管理職がきて全く新しい方針を打ち出したとする。強い方針を打ち出してもその管理職の在位は長くはないと思えば、その方針に粉骨砕身の気持ちで取り組む人はいないだろう。
私がちょいと政権交代に関心をもつのは、政権交代に基づく政策転換という新たな風向きを官僚達はどう受けとめ反応するかである。例えばかつての族議員の野党化で官僚と政府との癒着関係が剥がれたり弱まったりすることもあると思う。
55年体制崩壊を意味する細川連立政権以降、自民党は社会党との連立などをして政権にとどまろうとした。その後、再び自民党政権が続いたため、政権交代の(実験的)成果をしっかりと見届けることはできなかった気がする。
もっとも昨今のマニフェストで政策の違いは明確化するようになったが、民主党はやっぱり「自民党亜流」の流れであり、政と官の関係に大きなシフトを期待するのは無理かもしれない。
だが民主党は政権を取ったときの政策決定プロセスや官僚制度のイメージをある程度示している。官僚組織は内閣をサポートする専門家集団との位置づけ、次のようなプランを出したことがある。
各省庁の局長以上の人事については、新政権の基本方針に協力することを誓約させ、同意しない幹部は異動させる。
官房副長官や首相補佐官、副大臣、政務官などを増員したり、大臣補佐官を新設したりして、現在70人前後いる閣内の「議員」を100人規模に増やす。
予算編成は官邸主導で予算総額を決め、各省庁はその枠内で細目を決める、などである。
近年、安全保障問題のように冷戦時代には考えられなかった動きがたくさん出てきて、官僚が蓄積したノウハウを超えた問題つまり一つの役所だけでは処理しきれない問題がでてくると、大局的な政治判断が必要であり、政治主導が求められる場面が増えてきた。
そこで、自民党ならば政策部門である政務調査会の比重が大きくなっている。
もしどこかの政党が政権をとるなら官僚批判よりも官僚の使い方の方が重要だが、自民党議員には官僚を動かすにはそれ相応の経験の蓄積という優位性はある。
結局、マニフェストは官僚の猛反対で政策実現できない事もあるし、そんな時に官をどこまで動かせるか、あるいは官に頼らずに何ができるか、ということだろう。

話は全く変わるが、新幹線の形状はあまりに流体力学的に作られていて作られ鞘エンドウのペッタンコの形を思い浮かべてしまい、美的なものとは思いません。風の流れを優先しすぎて美をそこなっているようにも思う。
わが町・博多には博多人形というものがあり、パリ万博で銀賞をとった小島与一の「三人舞妓」は中州の那珂川のほとりにたって市民の気持ちを和ませている。
博多人形の特徴は目もとすずしい能面のような顔をしていて典雅な雰囲気を醸し出していたらしいが、なにしろお目々パッチリを求める現代人に嗜好に応じて 次第に眼を大きなものにしているのだという。
オメメパッチリの博多人形なんて品がなくて博多人形とはいえない。
時には「どこ吹く風」が必要な場合もあると思ったりもする
夏の選挙以降どんな政権が誕生するかわからないが、「そこにはただ風がふいているだけ」とか「風とともに去りぬ」だけで終わって欲しくはない。