「捧げもの」としての生

だいぶ長い間、[なさけは人の為にならず]という言葉を、なさけをかけたら人を甘やかして駄目にするという意味だと思い込んでいた。
本当の意味は、「なさけがめぐりりめぐって自分にかえってくる」という意味だという。
つまり人の為に何かをしてきた人にはいつかいいことがあるということで、仕事や運勢にも恵まれ人生が大きく開けるということである。逆に自分の為だけに生きる人間は、それだけのことしかないのだ。
このことは世の中の一般的な話としては一応納得できるのだが、世の中には自分をどんなに犠牲にして働いてもなぜか報われない人というものもたくさんいる。別に報いのために働くわけではないと言われそうだが、そんな聖人みたいな人はそう多くはない。結局人間はなんらかの形で報いを求めて生きているのだと思う。
だから[なさけは人の為にならず]という言葉は金言にするほどの言葉とは思えないのだ。
日本人は、古より独自の宗教とよぶべきものをもたないように思えるのだが、実は生活そのものが宗教といえるものであったと思う
つまり人々の日常は本人が気づくか否かは別として思いのほか「神事」と関わりながら進行しているのではないかと思うのである。
そしてそれは現代とて無関係ではなく、そうしたことが「隠されたもの」としてあり、人間が「人事」に一生懸命になればなるほどそうした「隠れた神事」を疎んじる結果となり、結局は「気枯れて」いくのだ。
こういうことは意外に善良な人や気配りをする人ほど起きやすいことなのかもしれない、などと思うのである。

神事と人事について新約聖書ルカ10章のマリアとマルタの話は示唆にとんでいる。
「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
主はお答えになった。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、本当に必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

日本人の生活の多くは古来より神々への「捧げもの」として存在してきた。 神に供える品物は稲の初穂やあわびなどの食物があるが、衣類も昔から大切な供え物であった。 元来は神衣(かんみそ)つまり神の着物を供えることであった。
「ぬさ」というと、まず神社や神だなの御幣が思いだされる。この御幣はもともとは神のお供え物であった。供え物の紙を何枚か重ねて折ったものを棒の先にはさんだ形なのである。
古くは紙ではなく、布をはさんでそれを神前に立ててお供えした、つまり「タテマツッタ」のである。
日本人の職人技能の高さは、自らの技能を「捧げもの」と意識してきたことと無関係ではないように思う。人間が技能を結集し、しかも素材はできるだけ「手垢」に汚れず自然を生かす形のものを捧げたのである。
政治がもともと「まつりごと」であることはよく知られている。集落・村・国とそれぞれの単位ごとに、各地に神社が建てられると、毎年豊作の祈願と感謝の祭りが行われた。
そこでは、カミを喜ばせるために酒食を供するほかに歌舞なども行われた。国家の長としては、神への奉仕をすることが最大の役目であったから、「マツリゴト=神への奉祭=政治」という考え方が成り立ち、日本語では政治をマツリゴトといいならわしてきた
近代政治の祖マキャベリ以来、政治が統治の技術のごとくの理解がなされ始めると、天命や為政者の徳などというものから切り離された「政治」が考えるようになった。
マキャベリが語る統治の術を取り上げると、「大衆の憎まれ役は他人に請け負わせ代」「加害行為は一気にやり、恩賞は小出しにせよ」「民は勢いに服し義に服さない」「指導者はやむを得ぬ行動でも自分の意志で行うふりをしなければならない」「忠義な使者は大切にするな」などなどである。
現実主義のたつマキャベリの政治思想は、政治から「マツリゴト」つまりは「捧げもの」の要素を奪い去ったともいえるかもしれない
同じく人間の経済においても、市場が厳かな物品の交換という「捧げもの」の意義を奪い去ったように思える。
商品交換は共同体間で行われるというのは歴史や人類学が確認した事実である。
そして共同体の繁栄は、あくまで死者の霊と神々によってもたらされたのであり、共同体の成員が自力で作り上げたものではない。
したがって交換は神々の下で行われる「捧げもの」としての行為でもある。物品は互いの共同体のなかで生み出すことができないものを交換するものであるから、例えば山の神と海の神といった異なる神々の出会いとみれば、互いの神の産物の交換なのだ。これが「聖なる場面」でないはずがないではないか
海の幸、山の幸で思い浮かべた話があるが、森を伐採する際に中心となる木に今でも捧げものをするらしいが、捧げものは何と海の幸「オコゼ」。なんで鯛やヒラメではいけないのかというと森の神々が嫉妬するかららしい。「オコゼ」は顔が見にくいので森の神々を嫉妬させないので、適当な供物だということであった。
今日の世界は経済においても、市場はそういう他者としての人間の出会い関係を抽象化して背後におしやり神々への「捧げもの」の要素を奪い取ったともいえる
日本では古来「神楽」といって神の前で人間が踊りを祈る「捧げもの」を奉納したのであるが、 ギリシアで始まったスポーツなどはもともと市民が皆で参加する神々への捧げものであり、円形劇場で行われる悲劇や喜劇もそれを囲む観客とともに神々捧げものであったという。
ローマに伝わったスポーツは「捧げもの」としての要素はぬけて、奴隷などに剣闘や戦車の競争をさせ観客が楽しむだけのものになった。また劇も円形のステージを囲んでみるのではなく、前方に客席とは分離されたステージを設けて観劇する単なるエンターテインメントになったのだ。

アメリカで大ヒットした映画「マンマ・ミーヤ!」は、映画の内容よりもアバの名曲で彩られた作品であった。
実はアバのアルバムには「ダンシング・クイーン」や「ギミ・ギミ・ギミ」などの1970年代のデスコ・サウンドの名曲の合間に、ケルト・ミュージックの要素を思わせられるものがたくさん含んでいた。
ケルト文化はヨーロッパでキリスト教文化が浸透する以前に存在したいわば「精霊信仰」の世界なのだが、精霊崇拝はいまでもイギリスのスコットランドなどでドルイド(祭司)によっ今でも楽しげに行われているという。(伊勢神宮の厳かな儀式とは対照的です)
人間はどこか「捧げもの」としての生の記憶をとどめようとしているのだろう。
世の中や人々との関係は気持ちよく生きるために必要だけれど、そこに浸りきる生き方は「人事」を重んじるあまり「神事」を軽んじることになりがちである。シガラミとい言葉にはどこか「気枯れ」(ケガレ)を感じさせる
人間の幸福や不幸は、本人の人格や努力とは関係のない「隠れた神事」と関わる部分が意外と大きいのではないかと思うのである。
昔、物品だけではなく人間の能力や技能そのものも「捧げもの」という意識があった。「捧げもの」はもともと神々が讃えられる為にあるのであって、けして「捧げもの」をする側の人間が讃えられる為のものではない。
人間が讃えられる時、「捧げもの」がケガレる
人間の生活の多くが「捧げもの」としての要素を捨て、人間の力量や才能だけが評価され崇められる風潮が今日の世界なのだろう。
その意味で世界は相当「気枯れ」ているのかもしれない。