文明のサラオ

アマゾンの熱帯雨林の奥深くに「サラオ」という不思議な空間があるという。
一生を木の上で過ごすように進化したサルでさえ地上におりてくのだから、「サラオ」の吸引力とは一体何なのだろう。
熱帯雨林には、一番高いところには木の実や木の葉を食べるサルがいて、その下には木の葉と昆虫を食べる雑食のサルがいて、一番下に昆虫を主食とするサルがいる、という調和があるのだそうだ。
色々な動物がこのサラオに集まる。中でも種類異なるサルが仲良く土を食べている風景は奇妙だ。動物が木の葉を食べて生きるというのは当たり前のようで、実はとても危険なことなのだ
木にとって木の葉は光合成を行う器官であって、動物に食べられないようにタンニン・アルカロイド等の毒素で武装している。
サルの世界では昆虫を主食にするサルを除いて、毒入りの食物を食べなながら生きていることになる。そこで時々「解毒」を行う必要があるが、サルは「サラオ」の土が解毒作用があることを知っているのだ。
「サラオ」では、通常出会わないように住み分けている動物が肩をならべてサラオの土を口に含むのだ。
私は「サラオ」を知って、東京大手町や新橋あたりのビルが林立するオフィス街の中にある小さな神社を思い浮かべる。ビルから降りてきた会社員がちらほらと姿を見せる。そこには重役もおればヒラもいる。大手町の「サラオ」で彼らは何がしかの癒し、または積極的な願い事を抱えて集まってきているのかもしれない。
世界は様々な毒に満ちている。文明の毒は生態系の頂点に生きるホッキョクグマの体内に蓄積されたPCBの如く人間にも蓄積しているのかもしれない。
「サラオ」が動物達の解毒の場所であったということは、土の化学成分の解析によって明らかになった。そして密林の中で「ノアの箱舟」のような特殊な空間で営まれる「土を喰う」という不思議な行為は、何かもっととシンボリックな行為に思えてくる。それはそこで生命が「新しくなる」ということだ。
だとするならば人間にとって必要なことは、密林の「サラオ」ではなく文明の「サラオ」というようなものではないか、と思うのである。

人間は自然界の中で死と再生のドラマを体験する機会はいくらでもある。農林業などを生業とする人ならば、それが日常の体験なのであろう。土中で一度死んだものが種となってもう一度命をふきだすという神秘体験のことだ。
こうした体験に人間が何らかの形で参与するということは、自分自身にも命を吹き込むことではないか。 少なくとも心の片隅のどこかに「再生」や「新生」という意識をインプットできる貴重な体験なのではないか
カラオケなどの「気晴らし」はせいぜい「プチ毒抜き」ぐらいの働きしかしないが、それは人間の「プチ新生」なのだ。 要するに「毒を抜く」ダケのことと「新しく命を吹き込む」ことは根本的に違う
日本人は古来より「かんながらの道」でミソギやハライといったケガレを除くことを行った。
また、農村に伝わる新嘗祭では、祖霊とともに食事を行うという直会(なおらい)などをおこなうなどプチ「新生」を行った。 天皇家の即位では新嘗祭を大規模にした「大嘗祭」がとりおこなわれるが、これは天皇家の祖霊を新たに身に着けるという儀式なのだ。
また社会全体として日常のケに対して特別なハレの日をもうけて活力を回復するというようなこともある。
日常のマンネリはそれだけでも「毒」を孕んでいる、商売をしたり工事現場で働く人たちは単調さがいつしか事故や損失など人災をひきおこすことをきっと知っているのだろう。必ずしも利益に繋がらない祭りなどにあれほどのエネルギ-を蓄積しそして吐き出すのはそういうことではないか。
「ハレ」の日とは究極的に人間が「更新」される日なのだ。そしてハレとケというのは緩やかな「死と再生」のドラマといえないか。
作家・大江健三郎氏は「新しい人」ということをテ-マにしておられるようだ。ご自身の家庭における体験などから傷ついた人間や崩れた関係などから果たして人間は回復できるのか。根源的に人間の「新生」がありうるのかが主題なのだと思う。しかし何しろ文学は究極的にレトリックの世界つまりはそれらしいことしか書いていないので、その中から「実」を刈り取ったり「力」を汲み出す出すことはあまり期待できないように思った。
私は死とか再生とか言うと伊勢神宮の「式年遷宮」を思い出す。世界最古の木造建造物・法隆寺のことを考えてみれば、木造の生命力は想像以上のものであることがわかる。
実際に式年遷宮で解体され使われなくなった木は、各地の神社に払い下げとなる。福岡でいえば糸島の桜井神社でそうした木が建造物の一部に使われていることを聞いた。
ではなぜ伊勢では20年に一度神宮の建物を新木で作り直すのか、結局それは「死と再生」の演出ということなのではないのか。
ところで「死と再生」のドラマは自然界だけのものではない。人は意識の底に「サラオ」のごとき働きをする自分だけの泉、つまり「オラの泉」をもっていて、その意識下に降り立ってはその泉から水をくみだしては心の裡をある程度浄化したり賦活したりしているに違いない。
各自の「泉」はユニ-クで、故郷の思い出とか風景、祭りの記憶とか寝床で語られた昔話かもしれないし、風車がまわったり風鈴がそよぐ音だったりするのかもしれない。
でも落ちこんだり傷ついたりした人間が蘇生力や復元力を保ちえたとしても、それだけでは「新しい人」になるというのにはまだ距離がありそうだ
聖書では「新しい人」について具体的に語っている。
夫を5人も変えたというマグダラのマリアと井戸端で出会ったキリストが「この水を飲むものは再び渇くであろう。だが私が与える水を飲むものは何時までも渇く事が無いばかりか、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き上がるだろう」 を与えよう」と語っている。
「永遠の命に至る水」とは照合すると聖霊を意味している。(ちなみにダイナマイトは「聖霊」の意味です)
キリスト教徒の迫害へとむかっていたパウロをダマスコ途上で一時で回心させたのもこの聖霊の力である。
そのパウロは後に書簡の中で「外なる人は滅びても内なる人は日々に新たなり」(Ⅱコリント4)と語っている。

コンピュ-タの世界では、「初期化」「更新」「リセット」とボタン一つでいとも簡単にできるのに、人々は枯渇しがちな「オラの泉」をかかえ、毒の蓄積レベルも高まっているのに浄化する場がない、その方法が見つからない。そして極端なケ-スで、その毒はあっと驚く無差別殺人を引きこしたりするのかもしれない。
広い意味で「死と再生」の体験の喪失、命をくみ出すものの枯渇やそこから隔てられてある事こそ、今日のこうした事件の背景があるようにも思えるのですが、いかがでしょう。