裁判と市民感覚

2009年5月、裁判員制度がついに始まった。裁判員制度は、裁判の迅速化と市民感覚の導入というのが趣旨だが、一体どんな場合に市民感覚が必要なのだろうかと考えてみた。
法律のアマチュアが裁判に参加して大丈夫なのかという不安があるが、よくよく考えてみると裁判官自体扱う事件の内容についてはまったくの素人である。
例えば「猥褻とは何か」について裁判官の方が一般市民より優れた答えが出せる保障は何もない。
法律で頭が一杯の人間よりも、実際に仕事や地域に生き文化的なふれ合いの機会多い一般市民の方が、扱われる事件によっては健全な判断ができることだってたくさんあるように思う
もっとも裁判では一般市民が証人という形で証言することによりある種の偏りを正すことができるが、さらに市民が判決に共同して参加することによって「社会通念」に合致した判決がくだせる案件もある。
日本で初めて「猥褻とは何か」が問われたいわゆる「チャタレイ裁判」で、D・H・ロレンス著「チャタレイ夫人の恋人」の訳者である伊藤整と出版社が起訴された。
検察側は「不用意な遭遇を機会に相互の人格的理解とか人間性の尊崇に関し些の反省批判の暇なく全く動物的な恋情の衝激に駆られて直ちにこれと盲目的に野合しその不倫を重ねる」ような猥褻的内容を数多く含む本と主張する。
一方、被告弁護側は「イングランドの森の中で交わされるチャタレイ夫人と森番メラーズとの密会の情景はけして淫らで汚れたものではなく、朝の光の中できらきら輝いて流れる渓流のような鮮烈さを与える」芸術作品と反論する。
裁判は一つのドラマであり、被告の運命をかけてまた一つの文学作品の価値をかけて、検察側そして弁護側がそれぞれにえりすぐりの証人を送りだした
この裁判の過程で弁護側が送りだした一人の女子高校生の読後感想証言が一陣の薫風を思わせるものがあったが、結局1952年の判決は、出版社側は刑法175条「猥褻罪」の罰金の最高額25万円が課せられ、訳者の伊藤整は無罪となったが、「猥褻」とされた描写の十二箇所が削除された。
この裁判で裁かるべきは、あそこまでいやらしく「チャタレイ夫人」を読んだ検察側の劣情ではないかとさえ思われるのだが、何しろ裁判は「一事不再理」が原則で、日本語で「猥褻」とされた部分を永久に目にする事はできない。
この裁判で、裁判官も検事も弁護士も人生で「多分」かつてないほどエロ本に親しんだに違いないと思うと滑稽でもあるが、とても屈折した猥褻観に基づき判決が出されてしまった気がする。
要するに、裁判官は法の専門家であっても扱う内容によっては完全なアマチュアであり、一般市民よりもはるかに遅れた位置にあることもありうるのである
したがって、こういう裁判にこそ市民参加があればと思うのである。

裁判への市民参加などありうるはずもない戦時中の裁判の中から、「裁判への市民参加」の問題を考えてみた。
戦時中、日本政府は軍部や右翼の圧力下で社会主義ばかりではなく、滝川事件(1933年)天皇機関説事件(1935年)など自由主義的思想をも弾圧の対象とした。
そうした学問弾圧をうけた人物に早稲田大学教授の津田左右吉がいた。津田氏は神話と歴史を区別したような学説を発表したため、日本の国体を脅かすとして右翼に攻撃されその著書「神代史の研究」は不敬にあたるものとして発禁処分となった。
ところが津田氏は、戦後の雑誌掲載の論文で、「二千年の歴史を国民と共にせられた皇室を、現代の国家、現代の国民生活に適応すべき地位に置き、それを美しくし、それを安泰にし、そしてその永久性を確実にするのは、国民みずからの愛の力である。国民は皇室を愛する。愛するところにこそ民主主義の徹底した姿がある」と述べ、意外や天皇崇敬者であることを示し、戦前の固陋な思想など木端微塵にしてくれるだろうと期待した人々を驚かせた。
この津田氏が「不敬」を検事に追及された際に行った「弁明」の内容は、とても自然で素朴な一般の人々の天皇観を語っており、「国体明徴」などに現れた天皇観とは異質なものであった
その一部を以下にまとめた。

「皇室の祖先を君主とする政治勢力は、二世紀にはヤマトを中心に存在し、しだいに日本民族全体を統一し、五世紀には何びともその地位を奪おうとする者もいなくなった。それは皇室が外からやってきて征服したのではなく、内から起こって周囲の諸小国を帰服させたからである。
日本は島国であったために周辺諸国との衝突は比較的少なく、4世紀後半の朝鮮半島進出も日本人と関係のある小国の保護の為であり、民族的勢力拡大のためではない。
我が国上代において、君主の政治らしい政治、事業らしい事業というものがなく、それゆえに失政や失敗もなかった。政治は天皇の名で行われるけれども、実際は重臣がその局に当たっているのを、だれもが知っておりそのことも皇室の地位を安固にした。
天皇は民衆のために呪術や祭祀を行い、神と人の媒介をする巫祝であったことが、天皇を「現つ神」とする淵源となったのである。
天皇が神に代わって政治を行ったとか、宗教的崇拝の対象としての神であるという意味での「天皇崇拝」はなかったのである。天皇が日常生活において普通の人として行動せられることは、誰でも見聞きしてい知っていた
「現つ神」というのも、公式の儀礼の際の用語で、一般人が日頃口にした様子もなく、6世紀の終わりごろから用いられた「天皇」という称号に、ふつう神の観念を抱いていた気配は少ない。
天皇が神を祭られる、そのことが何より人であることの明らかなしるしで、呪術や祭祀を行う地位と任務に対する人々の尊敬と感謝が、精神的権威のもとであった
記紀に現れる天皇に、異民族に対する民族的英雄の面影はなく、国家の大事は朝廷の伴造の祖先たる諸神の衆議によって行われたことになっている。
皇室の永続性は、みずから政治の局に当たらなかったことと、造作された神代史の中心観念つまり皇室の先祖を太陽としての「日の神」とし、天皇をその天つ日つぎとする宗教的性質と精神的権威から生まれた」

ところで津田氏に対する裁判の過程で、裁く側も畑違いの古代史の書を相当繙かざるをせざるをえなかっただろう。
つまり裁判官はこの問題については全くの素人でありながら、必要な証人をよぶにもこの時代の雰囲気では積極的に津田氏を弁護する者などはいなかったと思われるため、津田氏の有罪は避けることができなかった。
ただ判決後に、東大に出講した津田が最終講義を終えると、矢継ぎ早の右翼学生の攻撃的質問をあびたため、当時東大助手で講演会の世話役として出席した丸山真男氏が「先生をわざわざおよびして、講演の内容とは直接関係のない質問をして非礼ではないか」と学生達をたしなめている。
講義を終えたあと津田氏は丸山に「ああいう連中がはびこると、それこそ日本の皇室はあぶないですね」と語ったという。
裁判の過程で見せた津田氏の弁明は、時代の圧迫の中で学者生命をかけた主張であったために、ソクラテスの「弁明」の如くドラマチックだったかもしれない。
注目すべきは、津田氏の主張の中に現在の日本国憲法における「象徴天皇制」の実体的内容を含んでいることだ
津田氏は、軍国主義にフレームアップされた天皇制とは異なった庶民の素朴な信仰としての天皇像をその歴史研究の中から掴んでいたからこそ、だんだん突出し市民から遊離しだした天皇制に危機感を抱いたはずだ。
判決で津田氏は禁固三か月をうけ、出版社も処分を受けた。軍部や右翼の圧力の下、「天皇の名」による裁判で、しかも古代史については全くのアマチュアな裁判官に、一体どんな「市民的」判決を望むことができただろうか
結局、津田左右吉という人物は深い学識に支えながらも、市民目線で天皇というものを語った人なのである。

現在において、学問や思想、表現や文化に関わる分野の裁判にこそ、市民感覚が必要なのではなかろうか。
また、さらに必要なのは行政裁判であると思うのだが、現在の裁判員制度の対象は法律で重大な刑事事件に限られており、おどろおどろしい犯行現場を見せられて判決を云々するだけでは、その意義たるや矮小と思わざるをえない。
どうせ裁判員制度をやるのなら、市民感覚が真に必要な事件とはどういうものか再検討する必要あり、と思う。