一個の人間に戻れば

戦争でもテロでも、兵士達は相手方の人間に個人的な恨みがあるわけではない。
だから、戦乱の中で人々が個人として出会えば武器を捨て仲良くなることもあるし、共同して働くこともある。
宮崎県椎葉村といえば柳田国男の民族学のスタート地として有名であるが、平安時代この村に平家の残党が逃げ込み、それを追ってきた源氏も共に生活することになったという。
こんな山奥にやってきて今更イクサもなかろう、そして何よりも水良し食糧良しのこの土地で仲良く暮らそう、という気持ちになったとしても不思議ではない。
秘境の地でようやく兵士達は、背負ってきた様々な「よろい」の馬鹿らしさを思い、それを脱ぎ捨てて、一人の自然人に戻ったと想像する
鎌倉時代、西日本の農業生産力がアップしたそうだ。元寇では敗走したことになっているモンゴル軍だが、ある教授が元寇後に逃げ切れずそのまま住みついた人々が進んだ農業技術を日本に伝えたのではないかという説をだしていた。
モンゴル軍といえば騎馬軍団と思いがちだが、実はモンゴルに服属した南宋の中国人が元軍の主力として日本にやってきていたのだ。
彼らの戦うモラールが高かろうはずがない。船を失い中国に帰れなくなった人々が日本に住みつき、日本人と共同して農業を営んだということは、ありうるのではなかろうか。
戦乱を終え一人の人間に戻れば、行くあてもない人間が一人迷い込んだにすぎないのだ。
日本に受け入れられるためには彼等は進んだ農業技術を伝えたのではないか。それがなくとも、単純に労働力の増加になったかもしれない。そのうち一人の人間としての親近感が芽生えたとしても不思議ではない。

韓国の映画であるJSAは敵意と友情をとてもシンボリックに描いていた。JSAとは「Joint Security Area(共同警備区域)」のことで、朝鮮半島を分断する板門店地域のことである。
南北の38度の国境線で互いに警備しあっている南北の兵士同士は、国は違っても同じ役割を担わされた普通の若者である。国境線で顔を合わせ冗談などを交わしたりするうちに仲良くなり、時々互いの監視所に行っては恋人や故郷のことを話すようになっていた。
しかし、そうした兵士達のほのかな友情も、第三者が現場に入り込むや一転し、悲劇的な結末を迎えるというものであった。
第三者は国家をシンボライズした人物であり、個々の友情も国家が介在した時、あっけなく引き裂かれざるをえないという話だったと思う。(あまりよくは覚えていませんが)
この映画の記憶を手繰るうちに、冷戦時代に対立していた米ソの兵士などが交歓する写真を二つ思いだした。その写真がとても印象的だったのは、米ソ冷戦が加速化していた時期に見たからだったろう。
一枚はエルベ河畔の町で米ソの兵士たちが笑顔で手を握り合っているもので、米ソが連合軍としてドイツと戦っていた時期のものである。
二枚目は、米ソの人工衛星開発競争の中で米ソ宇宙飛行士が互いに抱き合うシーンである。
これは米ソの科学者が共同でドッキング装置をつくり、1955年7月17日、人工衛星が地球を回る軌道上でドッキングし、両国の宇宙飛行士は、おたがいに相手の宇宙船を訪問し合い一緒に食事をした時の写真であった。
こういう写真を見ると、人間は個人のレベルに還元すれば何ひとつ軍拡競争に走る必然性などどこにもないような気がしたものである。
1979年に「メテオ」という映画であった。米ソの核科学者が力を合わせて近づいてくる巨大隕石を核兵器で破壊するという映画であった。
人類が平和であるためには、人類が戦うべき「共通の課題」があればと思ったりもするが、現在は深刻さをます「地球温暖化対策」ということかもしれない。しかしこの課題に対してさえもそれぞれの「お国の事情」が優先してなかなか足並みがそろわない。
戦争やテロは、アメリカ人やイスラム教徒など抽象的な枠で人まとめされた存在に対して恐怖や敵対心を抱きながら生活をするといういわば「共同幻想」の所産であり、常に戦いの火種を再生産しているかに思える
人々が一人の人間として町で出会えばコーヒーショップで冗談を交わしたり、地下鉄で席を譲りあったりするかもしれないのにである。
それとも人間はそもそも一定の「暴力性」を抱えており、イデオロギーの対立や宗教対立、民族紛争などの中に絶えず出口を求めているのだろうか。国家とはその出口を自身に向かわないように巧みに操作している存在なのだろうか。

今日の時代、第一次世界大戦中における日本人とドイツ人捕虜との間の奇跡のような友情に目を見張らざるを得ない
第一次世界大戦で、日本はドイツと対立関係にあり、ドイツ兵を中国青島で捕え、ドイツ人捕虜は日本の各地の収容所で生活することになった。なかでも徳島県坂東収容所と所長とドイツ兵の親交は、最近映画化された。
坂東収容所の松江豊寿所長は、かつて徳川派の中心として新政府との戦い敗れた会津藩で育ち、敗者の気持ちを誰よりもよく理解できる人であったということもある。
中央で活躍することは許されず収容所長に追いやられた形の松江所長が、故郷から離れ中国の青島で捕虜となった彼らに親近感を抱いたことは想像できる。
また、瀬戸内海に近いこの美しい土地で暮らしたドイツ人捕虜が、戦乱で荒廃した本国に帰るよりも、いっそこの地で生活したいと思ったとしても不思議ではない。
戦後、日本に残ったドイツ人達が残した足跡は数多く、徳島県坂東で日本で初めて演奏されたベートーベンの第九に限らず、サッカー、ソーセージ、ホットドック、バームクーヘン、元寇防塁の保存などの文化の伝達や技術指導を行っている。
松江所長は、ドイツ人捕虜への待遇が甘すぎるのではないかという警告をうけたりもしたが、国際条約で決められた「捕虜の人権」を守らねばならないと自分の姿勢を貫きとうしたのである。

人間を結びつけるのはある意味「同じ定め」への自覚かもしれない。最近NHK大河ドラマの「篤姫」で、島津から将軍家に嫁入りした天璋院(篤姫)と皇室から嫁入りした和宮は、嫁と姑の関係にあり家格の違いもあった為、なかなか良い関係を保つことができなかったに違いない。
しかし同じ将軍家に政略的に嫁入りした存在であり、同じ苦労や使命を感じて生きてきたにちがいない。
彼女らは人間的な確執を超え、戊辰戦争のハイライト江戸総攻撃に際してはそれを回避するために最大限の尽力をしたのである。
戦場では色々なことがおきる。敵同士の捕虜と収容所長の間で信義がうまれ、敵軍が残した肉親へあてた手紙を読んで感銘をうけたりもする
伊藤暗殺のテロリスト安重根は、彼を監視した日本人収容所長の心を感動させた。
韓国総督府で安重根を収監した日本人看守は、安の真摯な姿と祖国愛に感動し精一杯の便宜を図り、死刑の判決を受けた安重根は処刑の直前に彼に遺墨を与えた。
韓国総督府での勤務を終え、故郷の宮城県に帰った日本人看守は、仏壇に安重根の遺影と遺墨を供えて密かに供養し続けたという。遺墨は安重根100周年に返還された。
旅順監獄の刑務所長は、安重根の国を思う純真さに魅せられ裁判長などに助命嘆願をするなどした。
安の処刑の前日に栗原が何かできることはないかと尋ねると、安は国の礼服である白絹を死装束としたいと言った。
そこで栗原の祖母や姉達が夜通しで編み上げた白絹の礼服が安に差し出され、安は1910年3月26日にその礼服を身につけて処刑となった。栗原は一個の人間として安と向かい合っていったのだ
また、日本文学研究のドナルド=キーン氏はアメリカ軍・情報将校として日本軍兵士が残した手記を翻訳する中で、日本に対する憧憬を深めていた。
キーン氏も一個の人間として日本人に向かい合っていたのだ

戦乱でどうイガミあろうと相手も結局は人の子の親であり、恋人を残してきていたり、女房の尻にしかれていたり、介護すべき老人を抱えいている一人の人間なのだ。
にもかかわらず戦闘にかりだされ互いに戦いを挑まなければ意味では、「同病相哀れむ」存在なのだ。
そういう哀れむべき人間が時と場所を同じくして向かい合っているのだから、何かの拍子に親愛感が生まれてくるのは自然なことだろう。ひるがえって一個の人間に戻れば相手を憎む理由なんて何ひとつなかったのだ。
それは洞穴に差し込む陽の光を浴びるような静謐な瞬間かもしれない。
日本人が連合軍に占領されていた時代に、チョコレートやガムを与える米軍兵士に群がる坊主頭の日本人の子供達の姿や街行く人々の表情がある。
あの写真を見ると、日本人が何かの「憑きもの」から解放されたような感じがする
日本人がそれまで一生懸命に背負ってきた物が見事に崩れて、自分の生活以外には何もしょいこむこともなくなった姿だ。
貧しくともボロを着ていても、何かとり憑いたものが一掃された時の晴れやかな表情にも見える。
国家が掲げる大義、イデオロギー由来の非寛容、宗教的憎悪など背負い込んだ人間が、「一個の人間に戻る」までは、あまりにも多くの犠牲を伴なうのかもしれないが。