流人画家と獄中作家

8月11日(日)のNHK教育テレビの夜の番組欄に、時間帯を異にしてふたりの人物の名前が並んでいた。江戸時代の画家・英一蝶(はなぶさいっちょう)と連続殺人犯・永山則夫である。
二人にはいかなる連関もないが、ある共通項が思いうかぶ。一蝶は流人生活の中で絵を描き、永山は獄中にあって小説を書いた

一蝶は、江戸元録時代に多賀朝湖の名前で名声を博した人物であった。
美人画も描いたが、出色は、庶民をいきいきと描いた絵だった。
吉原では花魁の太鼓持ちをし、裏方の世界まで知り尽くした。「吉原風俗図巻」では、客と遊女の喧嘩で、女が大泣きしているかとよく見ると嘘泣きで客をたくみに引き止めている駆け引きを描いている。
ある日突然、三宅島への島流しを申しわたされる。
名目は馬を虐待した生類憐みの憐みの令違反だが、実際は吉原で大名・武士に多大の散財をさせたというものであった。
どんちゃん騒ぎの太鼓持ちから突然追いやられたのは、死だけが待つ極限の生活だった。
それでも一蝶は、毘沙門天、恵比寿様などの絵を安く描いて漁民に渡したりした。
そのうち江戸から注文がきたのが、救いとなった。せいいっぱいの力をふるい懐かしい江戸での遊興の日々を描いた。
その時に描いた「布晒舞図」の躍動感にみちている。絵の中で太鼓持ちは右ひざをたて踊り子を囃している。江戸のはるか遠くの島で描いたとはとても思えないものだった。
先述の「吉原風俗図巻」は、実は三宅島でかいたもので、「四季日待図巻」では 眠ることなく朝日をおがむ神事で、庶民の表情を生き生きとえがいた。
神主さんから博打打ちから裏で鶏をさばいている人まで横約7メ-トルの絵の中に描いている。
この画は、一蝶が幅広く視線が行き届く絵かきであったことを物語っている。
永久に生きては帰れない流人生活の中で、島民のために「七福神」などを描いていたが、天神様つまり菅原道真の表情がかなり怒っているのは、一蝶の気持ちを反映していたのかもしれない。
三宅島に流されていく途中に風待ちのためによった新島の梅田家には一蝶の絵が数点のこっている。梅田家は一蝶がその家を通じて絵を売ることのできる、いわば地獄に仏という存在だった。
そして1709年奇跡がおこる。将軍代替わりで、生類あわれみの令に関する流人が赦免となる。流人生活はあしかけ12年。58歳になっていた。
深川寺前に居を構える。豪商に取り入り、英一蝶として再スタートした。その後も名作を数多く残し、73歳で大往生した。

永山則夫は1968年全国各地でおこした連殺人事件で逮捕後に獄中で書いた「無知の涙」などで知られるが、今回のETV特集でクギヅケとなったのは、永山が獄中結婚の相手の女性が登場し、長時間のインタビューに応じ、その心境を語った点であった
江戸の一蝶の場合は人生が島流しで暗転したが、永山の場合には、死刑以外のことを考える余地はまったくなかった獄中生活の中で一瞬光明のさす出会いがあった。
獄中にあって、思想を残そうと一人戦おうとした永山が、この女性と二人三脚で自己の存在を残そうという思いがよぎった時期があった。
しかし自分が生きようと思う事は、同時に自身が犯した殺人により亡くなった人々の命の重さを感じとることをも意味した
永山は初期の裁判の冒頭で裁判長に、ちょっといいたいことがあるんだ。情状なんかしてほしくない。法律なんか資本主義のものだ。情状よりも死刑にになった方ががいいんだ、と声を荒げた。
世間は社会に責任を転嫁していく永山に怒った。
永山は北海道網走に兄弟八人の七番目として生まれた、バクチに明け暮れる父は家によりつかず、母は四人の子をつれて青森の実家にかえった。
残された四人の兄弟と港に落ちている小魚を拾って生き、民生委員が「こんな貧乏があるのか」と思うほどの状態で発見された。
この時の状況は新藤兼人が「19歳の地図」で忠実に再現している。
1980年第一審死刑判決の翌年、一通のエアメールがネブラスカ州オマハより届いた。
「無知の涙」を読み、一通の手紙を書こうとおもった一人の女性からのものだった。
その女性、和美さんが「無知の涙」で、濁っていない純粋無垢な魂を感じ取った。
テレビのインタビューで女性は生い立ちを語った。1955年沖縄でうまれた。父はフィリピン人で、母は戸籍にいれす戸籍がなかった。母は再婚しアメリカにわたった。
学校にいけず、結婚できず、免許もとれず、戸籍がないということは自分がこの世鬼存在しない、ということだった
生活をなんとかしてくれると福祉事務所に期待したが、生活費が月白人の子は10ドル、黒人の子は5ドル、フィリピンの子は3ドルと知りった。これが世界かとショックをうけた。
国際法を万引きして公園で読んだ。母に。福祉に。父に怒りがわく。なぜ万引きして公園にいるのか。いつか見てろ、つまり「殺す」ことを考えた。それを引き止めたのが育ててくれた祖母のおもかげだった。
それがなければ自分も引き金をひいていただろう。
永山にはその祖母がいなかったということだけだったと語った。
和美さんと出会ったとき、永山30歳となっていた。和美さんは永山との手紙のやりとりの中で、永山則夫という人とならば生きていける気がした。
そして面会をした時、四人を殺した永山の手に触れた。
手紙のやりとりは1900通におよび、永山の方にも読んだあとの幸福感があった。
永山の手紙は次第におだやかになっていったという。2か月後に二人は結婚した。ふたりぼっちの結婚だった。
結婚してはじめてしたことは、妻として四人の被害者のもとを訪れることだった。四人のうち三人人の遺族が焼香を許してくれた。
二人の幼い子をもつ家族は印税を受け取ったが、別の家族は印税は息子の供養のためにうけとることはできない、印税は永山と同じ貧しい子供の為に使って欲しいというものであった。
裁判で和美さんが、夫と一緒に罪をつぐないと証言しあとから、法廷の雰囲気の空気が変わったという。
時に裁判長は上をむいて、涙をこらえていたように見えた。また永山は、被害者で父として、子供として、親としてあったということを、リアルに感じはじめた。
女性は遺族の悲しみは妻和美さんの悲しみとそのまま重なった。死刑により夫永山を失えば自分も遺族になるからだ。
永山の存在は妻にとっては宝のような存在となっていった。「悲しみ」のリレーは続いていた。

高等裁判所・裁判長は、永山の生い立ちを調べ(19歳3か月)、無期懲役を言い渡しをした。とはいえ精神年齢の状況からして18歳未満に相当するという見方をしていた。
また国の福祉政策にも問題があった。裁判官は、判決で死刑はいかなる裁判所も死刑としないかぎり死刑とはならない、つまり言外に死刑反対を述べていた。
永山は裁判で、釈放されたら何をしたいかという質問をされ、学歴社会にある塾とは違う形の塾をしたいと語り、生きる意思も見え始めた。
和美さんは夫の「無期懲役」の心境を次のように語った。
生きて償い続けろいう判決だから、命が助かったのではなく、より重い「ごめんなさい」の始まりだった
生きなさいということは、今後永山の命ではなく、与えてもらった命なのだ。
一方、永山には死刑をのがれるために何でもするというのは、思想を殺すことになると考えていた。永山の根底には死刑になっても思想を残そうという気持ちの方が強かったのだ。
獄中でノートに書き連ねたものを出版社が注目し「無知の涙」として出版され時代に受け入れられ6万部のベストセラーとなった。
永山は、オランダの犯罪学者の「貧困は人間関係を破壊する。社会から切り捨てられた人間はその社会に対してなんの感情ももたなくなる」という言葉にふれ、これだと思った。そしてマルクス・レーニンの思想に傾倒した。
永山の思想は階級闘争(ブルジョワジーとプロレタリアート)のそれであり、同じ刑務所にいた連合赤軍の永田洋子とも文通した。
永山は自分と同じプロレタリアート(労働者階級)の人々を殺したことも、自身の心を苦しめた。
妻としては、思想を残す前に分かり安い言葉で永山自身についてまわっている誤解を解いてほしいと願った。
二人で過去をふりかえり始めて自分自身を「木橋」という小説に書いた。社会への怒りではなく自分自身をみつめた。
自分を捨てた母親ばかりが悪くはないことも理解していった。そして母親に手紙を書き仕送りを続けた。
しかし永山を無期懲役とした二審は世の批判をあび、最高裁は検察の上告を受理し高裁に差し戻した。
これは事実上の死刑判決だった。その後、将来を語る言葉はなくなり、和美さんとは離婚した。
最初から生きるつもりはなかっのに、生きる希望をあたえられた上で、再びの死刑判決だった。1997年8月1日に死刑が執行された。

永山則夫の番組を見終えた後、その二時間程前にテレビで見た流人画家・英一蝶の晩年の傑作「雨宿り図屏風」のイメ-ジがしばらく心に広がった。
武家屋敷の門前で肩を寄せあい雨をしのいでいる。
通り雨風で、あわてて蓑をかぶって走り去る人々もいる。
にわか雨ならばいつかは晴れる。老若男女、士農工商、金持ちも貧乏人も一緒だ。
人だかりが楽しいのか、子供は無邪気に柱にぶら下がって遊んでいる。
この画の中で一番しおたれた顔をしているのが、武士であるのが面白い。
この絵に画家が体験した十二年間の流人生活の影は全くみられない。
極限の流人生活から奇跡的に帰還した一蝶の「人間賛歌」といってよい絵であった。