「自分の木」の下で

数学を勉強した時、定義からはじまって理論が組み立てられることを知った。
理論の世界をこの世の「世界」となぞらえるならば、基底となる定義のあり様によっては、 世界は全く違う色会いをもって迎えられる。
そして「定義」はいつも人間の側にある。
以下の実話の主人公「新しい人」はそのことを身をもって示してくれた。
彼らの存在と彼らを雇用した会社は、既存の会社や働くことの意義に、「再定義」を迫っているかのようだ。

日本理化学工業は、1937年に設立されたチョークを生産する会社である。
当時白墨を使用している教師に肺結核が多いという報告があり、「ダストレスチョーク」の国産化に初めて成功した。この会社が生産する「ダストレスチョーク」は1953年にわが国唯一の文部省斡旋チョークとして指定されている。
実はこの会社の社員のうち70パーセントが知的障害者であり、しかも業界トップを走る会社である。
この会社は1960年に大きな転期をむかえていた。
会社の近くの養護施設から二人の若い知的障害の女性が体験的に働きに来たのが物語の始まりである。
彼女等は、チョークのはいった箱にシールを貼る仕事がとても楽しげで、昼休みの食事の時間も早々に切り上げて働き、その手際もみるみる上達した。
そして、彼女らが明日も会社に来れたらいいのに、と語りあうのが聞こえた。
その姿を見た従業員の全員が大山泰弘社長に彼女達も一緒に働かせてもらえないかと頼み込んだ。
大山社長はその真摯な気持ちを受けとめ、彼女達を正社員として採用した。
喜びをもって一心に働く彼女らの姿が、逆に従業員の働く誇りを目覚めさせたのだという
会社は知的障害者の採用を増やし10人を超えたころ、彼らをやや知的能力が必要な作業に振り向けざるをえなくなった。
ところがそうした作業のなかで、彼らが数をかぞえらない、重さをはかれない、目盛りを合わせられない、などの問題が次々と露呈し作業が停滞していった。
先輩従業員が丁寧に仕事を教えていったが、なかなか仕事を覚えることができず、集中力がきれて持ち場をはなれる者まで出始めた。
先輩従業員にとって、彼らの仕事を手助けしながら、自らの仕事をこなさなければならなくなり、日に日に負担は大きくなり、疲労度が増していった。
また先輩従業員と知的障害者との給料が同じであることにも不満が高まった。
作業効率が悪くなって、生産量も落ちていった。
社長は知的障害者の採用をとりやめるべきか決断をせまられた。
だが大山社長は知的障害者達を見ていて、どうしても分からないことがあった
おこられて、おこられても、彼等はめげずにに出社してくる。高熱がでても彼らは休もうとはしない。
毎日のように怒られながら誰一人不満をいわず黙々と働こうとする。
大山社長は、法事の時にこのことを僧侶に相談した。すると僧侶は、意外なことを言った。
彼らが仕事を休まないのはあたりまえのことだと言ったのだ。
僧侶によると、人間には究極の幸せが四つあるという。人に愛されること、人にほめられること、人の役にたつこと、人から必要とされることの四つである。
そして働くことによって、愛されること以外の三つの幸せが得られるという。
(後に大山社長は、その愛さえも一生懸命働くことによって得られるものだと語っている)

大山社長は僧侶の話を聞いた時、世間からどんなに不可能といわれようと知的障害者を今後も雇用していこうと決断した。
しかし社員達は反対した。社長は現場で働いていないからだと突き上げられた。
生産性が落ちているのに、さらに知的障害者を雇って会社は一体どうなってしまうのかという声があがった。
大山社長の夢はついえたかに思えたが、社長は誰もが働き安い職場を皆で作っていこうと訴えかけた。
そして知的障害者達が仕事をどれほど粘り強く一心にこなすかを思い出させた。
、 作業工程や道具を変えていけば、知的障害者でもやれないことはないのではないか。みんなで職場を改良していこうと呼びかけ、自らも頭をひねりつづけた。
なかなかいいアイデアが浮かばなかったがある日、知的障害者が信号を渡る情景が思い浮かんだ。
作業工程を色で表わせば良いのではないかと思いついた。
原料の量をおぼえられないなら、赤い色の粉は赤いおもりと同じ重さだけ秤に加えるようにし、青の色の粉は別の重さの青いおもりと対応させた。
品質管理のために計測機器が使えないなら、あらかじめチョークの大きさと同じぐらいの枠を三段つくり、真ん中の段にとどまったチョークは大きすぎず小さすぎず適正な大きさということになるようにした。
数がかぞえられないなら、必要な数の溝をそなえた箱にチョークを並べるようにすれば数える必要がない。
大量のアイデアが社員から出されていくようになり、驚くべきことにそのアイデアが先輩従業員の作業能率をも上げていった
また知的障害者がガラスにチョークで文字を書いている行動から、ガラスに自由に書けるチョークのアイデアが浮かび大ヒット商品となった。
この商品は、その年の「文具大賞」を受賞している。
現在、日本理化学工業を取り巻く環境は厳しい。
少子化の影響でホワイトボードやパソコンの普及でチョークの使用量が減っている。そこで、クレヨンとチョークとマーカーの利点を組み合わせた新しいチョーク「キットパス」を開発した。
知的障害者ではできないと思われていたことは、実は仕事の与え方が適切ではなかった、ということが日に日に明らかとなっていった。
つまり、工程に人を合わせるのではなく、人に工程そのものを合わせるのだ。
チャップリンが描いた「モダンタイムス」を超えた「ポスト・モダン」な生産のあり方を示したともいえる。

この会社で体験的にシール貼りをして会社をかえる契機をつくった女性は、50年間一度も遅刻欠席がないという。
人の役に立っている必要にされている、ということが知的障害者にとって何よりの喜びであった。
仮に彼女が20歳から60歳まで養護施設で暮らしたとして、彼女が生活していくために施設は合計二億円の負担をしなければならなかったという。
その施設から5人が会社で働らいていたので、合計10億円の社会保障費が節約できたことになる。
大山社長は出演したテレビで、政府は障害者を採用する民間会社を支援する制度がさらに充実すれば、働く喜びの提供と社会保障費の節約という、一石二鳥の結果を得ることになると語っている。
そこで熊本県にある通潤橋のことを思い出した。
通潤橋は阿蘇山麓に江戸時代に建てられた水道橋で当時の石工技術の粋を集めて作られた逆サイホン構造で有名な橋である。その建設工事では近隣の村々の知的障害者が重要な役割を果たした。
当時の日本には防水シーリング材料が無かったので、漆喰と藁をまぜて石の接合面に詰めるという方法で橋の逆サイホン管を防水した。
ところがこの漆喰を詰める作業というのが気が狂うほど単調な作業で、どんな石工でも根気が続かず途中でネをあげてしまっていた。
橋の建設を主導した庄屋は諦めかけたが、ある知的障害者の人たちはそういう単純作業でも飽きずに繰り返せるということに気がついた。
そこで知的障害者の人々を呼び集めて、シーリング作業を一手にやらせて、それで完成にこぎつけたという。
日本理化学工業の「新しさ」はそういう知的障害者の根気強さを利用したにとどまらず、工程の改良を通じて彼らが知的作業をやったと同じ成果を生みだしたということである
日本理化学工業は1975年に、国の心身障害者多数雇用モデル工場1号を川崎に設置した。これを機会に、障害者の職域拡大として、精密部品のゴム、プラスチックの成形、そしてリサイクル事業部門を新設した。
そして高性能の機械の導入、治具の工夫、生産工程の細分化や単純化などにより、品質・生産性・管理面で高い水準を維持することが可能であることを実証した
ノ-ベル章作家の大江健三郎の「新しい人よ目覚めよ」は、著者の実子である知的障害者イーヨーと父とのユーモラスでほろ苦い物語である。
大江氏は四国で林業を営む家に生まれたが、祖母から人間にはそれぞれ「自分の木」があってその木の根元から魂が発して宿り、死んだらその木の根元に魂が環るという話を聞いて育った。
ちなみに大江氏の家は谷間にあり、木々は上の方に茂っていた。
そしてその木々は、魂がまた別の肉体に「新しい人」になっていくという命のメタファ-である。
イ-ヨ-は、地上の世界に生まれでて、理性の力による多くを獲得したとは言えず、何事か現実世界の建設に力をつくすともいえない。
しかし大江氏が傾倒するアメリカの詩人によれば、理性の力はむしろ人間を錯誤に導くのであり、この世界はそれ自体錯誤の産物であるらしい。
その世界に生きながら、イ-ヨ-は魂の力を経験によってむしばまれてはいない、と書いている。
大江氏は作曲家となった知的障害者である息子光氏の目で世界を見る過程を通して世界を「再定義」し、世界を新しく把握・表現する方法を紡ぎ出しているようにみえる。
となると大江氏自身の魂の発する「自分の木」とは、知的障害者たる自分の息子であるのかもしれない、とも思った。

日本理化学工業の挑戦の大きな意義は、人々ができるだけ「自分の木」の下で仕事ができる環境を作り出しているということかもしれない