相対的労働貴族

若き20代半ば雑誌の仕事をしていたことがある。その頃、月に一度、当時の日産自動車社長・石原俊氏の謦咳に接することができた。
都内有名ホテルで石原氏が主崔する座談会の録音の為、部屋の隅でじ~としていただけの話である。
夏のある日、下宿に「日産自動車社長・石原俊」の名前で中元の品が届いたのには、マンモス驚いた。
作家・高杉良は石原氏の人物像を、「あのつら構え、つら魂、石原の前に出て風圧を感じない社員は六万人の日産マンの中で一人もいまい」、と書いている。
一方、「魁夷な容貌から豪胆な印象をうけるが、細心に気配りをみせる人」なのだそうだ。また、照れ屋、徒党を組めない人、つまり子分をつくらない人、とも書いている。
石原氏が東北大学在学中、夫人との大恋愛はラグビー部に限らず全校にも知れ渡ったというから、人間は外見ではわからないものです。

ところで、人々は、特にマスコミは、存在感のある人に様々な称号を付けたがるものらしい。
よく見かける称号に「○○界のドン」や、「○○のカリスマ」などがあるが、さすがに「天皇」という称号が与えられる存在は、敵も味方も一目置かざるを得ない雰囲気が漂っている人物、ではなかろうか
「天皇」として思い浮かぶ人物をあげると、「財界の天皇」 斎藤英四郎 経団連会長・新日鉄会長/「住友銀行の天皇」 磯田一郎 住友銀行会長/「防衛庁の天皇」 守屋武昌 防衛庁事務次官/「徳田天皇」 徳田球一 日共所感派の指導者/「黒澤天皇」 黒澤明 映画監督/「岡田天皇」 岡田茂 三越社長、そういえば「女帝」と呼ばれた竹久みちは、岡田三越社長の愛人であった。
かわったところでは、「法王」とよばれた日銀総裁・一万田尚登、「妖怪」とよばれた岸信介、「魔王」と呼ばれた北一輝などがいる。
北一輝は、佐渡の荒波せまる貧しい酒造家の生まれで、戦時社会主義というべき「日本改造法案大綱」で多くの陸軍将校の「教祖」的存在となった。
北の軍人や右翼に対する影響力は絶大で、テロに怯えていた財閥より生活費をうけ、堂々たる邸宅にすみ、妻子三人に女中三人、運転手付き自動車一台の豪華な生活を営み、集まってくる青年将校に金と女と酒をあてがったという。
都市での首切り、農村の娘の身売りなどに見られる不況下による生活苦のなか、「愛国者」を自称し維新の志士を気取り日々饗宴を繰り返していたというから、あまりいただけません。
魔王とよばれた北の存在から、旧ソビエト連邦や中華人民共和国など、名目では社会主義や共産主義を称する国家における「共産貴族」を思いうかべた。
旧ソビエトの時代には、「ノーメンクラトゥーラ」(赤い貴族)というような言葉もあり、「全ての労働者の平等」の実現をその最大の目的においた共産主義や社会主義が発展する段階で、党中央や労働組合などに所属する一部の労働者が、その運動や活動の過程で権力や財力を得て、「全ての労働者の平等」とは懸け離れた状態で、その特権を余すところなく享受していた人々のことである。
「共産貴族」はその本質からすると矛盾した言葉なのだが、そんな言葉が当たり前のように通用することがある。日本の歴史では、平安時代に生まれた「僧兵」という言葉なんかもそれにあたる
元々不殺生を掟とする「僧」が「兵」と化す「僧兵」とは奇妙な言葉だが、寺の荘園を守るために僧が武装化した時代があったのだ。よく知られた「僧兵」が武蔵坊弁慶である。
また、今から20年ほど前に先述の高杉良の小説の題名「労働貴族」という言葉が広まった時代があった
「労働貴族」なんて言葉の矛盾であるが、そうともいえない実態が結構あるらしい。最近、週刊文春に「JR東労組のドン・松崎明氏が組合費で買ったハワイ豪華別荘」というタイトルが出ていた。松崎氏はハワイの高級マンションその他幾つもの高級分譲マンションも購入し、その支払いはJR総連の関連団体から振り込ませていたという。
松崎氏といえばかつて国鉄時代の動労の委員長だった人である。国鉄動力車労組、俗に「鬼の動労」と名をはせてその急進的な活動で人々から恐れられていた人物だったから、驚きである。
資本家が労働者を搾取しているというのではなく、労働者が労働者を搾取しているのかと思わせられるこのような存在には「労働貴族」とでもいいたくなる。

ところで日産自動車には、二人の天皇がいた。一人は先述の「石原天皇」、もうひとりは自動車総連会長の「塩路天皇」こと塩路一郎である
さて「労働貴族」という言葉は、高杉良が書いた小説のタイトルに使われ世間一般に広まった。この「労働貴族」という本のモデルとなった日産自動車の労組で「塩路天皇」とよばれた塩路一郎である。
1960年代以降の日本では、労使協調路線の下で、御用組合幹部は経営者から特権を与えられ、組織内での出世が約束されることが多かった。支援政党(民社党など)から国会議員や地方議員に立候補し、組合員の支援を受け当選して権力を手にした者も少なくない。
塩路氏の場合には優遇されすぎたのか、日産という一つの企業体の中に奇怪な労使関係をうみつけ、後々までその傷痕を残すことになった。
結果的に日産がフランス・ルノー社の傘下におかれ、 しがらみのないカルロス・ゴーンというフランス人を社長に据えなけらばならないほどに自浄力を失ったのは、この塩路氏が勢力にまかせて捩じらせた労使関係によるところが多いといわれている。
塩路氏は東京都生まで、実家は牛乳会社を共同経営していたという。旧制中学卒業後、月謝不要の海軍機関学校に入学し、将来はエンジニアになることを夢見ていたという。
終戦後父親が死去し牛乳会社も解散されたので、幼い弟妹を養うために塩路は、引揚者輸送、ダンス教師、ラジオ修理店店員など様々な職業に就いて混乱期を生き抜いた。
1949年、旧日産コンツェルン日本油脂に就職し、倉庫勤務の傍ら、明治大学法学部の夜間部に入学、また労働組合から勧誘されはじめて労働組合運動に目覚めたという。
しかし、塩路からみて組合の幹部を占める共産党員は、目的のために手段を選ばないように映り、嫌悪の念を覚えるようになり、やがて組合幹部から忌避され、転職を考えるようになった。そしてその反共思想が気に入られたのか、1953年、日産自動車に入社した。
日産自動車で塩路一郎氏は、「御用組合路線作り」にはげんだという
日産は、当時全国最強の労働組合と呼ばれるほどの勢力を有していたが、横浜工場の経理課に配属された塩路は早速反組合派として認知されるようになる。
入社後まもなく、1953年夏より4ヶ月間におよぶ有名な大争議が起きたが、その敗退を契機に第一組合の勢力は弱まっていった。
この年に第二組合が結成されると、塩路は新入社員であるにも関わらず会計部長の要職につき、その後1959年から二年間ハーバード大学ビジネス・スクールへの留学を経て、1961年日産自動車労組組合長、1962年自動車労連会長、1964年同盟副会長にそれぞれ就任と、労働組合の出世階段を上っていく。
そして川又社長との蜜月関係を保ちながら、企業の発展を旗印に、係長・職長クラスの職制組合員を掌握し、労使協調路線を定着させていった。また1969年にILO(国際労働機関)理事に当選するなど、国際派としられた。
1972年、自動車総連を結成し会長に就任し、労働界では民間労組主導型の労働戦線統一の推進者となり1982年に全民労協の結成に際して副議長となっている。さらに1983年には新日米賢人会議(日米諮問委員会)のメンバーに選ばれている。
日産社内では組合の同意がなければ人事や経営方針も決められないほどの影響力を行使し、「塩路天皇」と呼ばれたのである
高杉良は、小説「労働貴族」の中で「塩路会長の悪口をいうことは、絶対にタブーで、社員同士で酒を飲んでいるときでも、危なくて話させなかった。塩路批判をしようものなら、お庭番みたいなスパイがいて、確実に塩路会長の耳に入る仕組みになってるみたいだった。現実に、左遷されたり、飛ばされた者の事例を知ってている」と一人の社員に言わせている。

1977年、川又社長から石原俊社長に代わってから、労使関係はしだいに悪化していった。石原社長と塩路氏はクルージングという同じ趣味をもち、同じようにフォーカスされた二人だったが、激しく対立した。
石原社長は、世界市場の1割確保を目標とする経営方針を策定し、積極的に海外進出を進めていった。その一環として、英国工場建設を計画したところ、塩路は猛反対し、「強行したら生産ラインを止める」などと迫ったという
塩路氏が23万人率いる大企業労組のトップとして、一企業の経営方針を左右する、つまり社長並みの言動が常態化していたことを物語っている。
日産は、組合トップに過剰なまでの権力を与え、相互に利用し利用されるという、奇妙な会社へと変質していたのが70年代、80年代の日産であり、その元凶は塩路氏であったといわれる。
その後長年、塩路体制下で不満を鬱積させていた現場の職制組合員からの突き上げを受けたり、女性スキャンダルなどが発覚し、1986年に一切の役職を辞任し、翌年定年退職した。
「ヨットの女」と題されてフォーカスされた塩路天皇の豪華ヨットクルージング写真のすっぱ抜き記事が懐かしい。その時の記事では、塩路氏は自家用のヨットを所有するばかりでなく、組合の専用車は高級自動車、自宅は品川区に高級マンションを所有していた。
労組の指導者が銀座で飲み、ヨットで遊んで何が悪いかと公言してはばからない人物、として紹介されていた。

最近「労働貴族」という言葉を、いままでとは全く違う文脈で思うようになった。
バブル崩壊以降の日本では派遣社員、契約社員など非正規雇用の労働者が急増したにもかかわらず、組合への加入資格を正社員に限定し続けたために、もっとも派遣社員は「別会社の人間」ということになるが、割合として決して高くなく、比較的優遇されている正社員のみによる組合が「労働者の代表」として労使交渉を行ってきた。
その結果、正社員の新規採用を停止し、少数派の正社員の雇用、所得を確保するためにそれ以外大部分の労働者の待遇を切り下げるといった事態が発生した。
つまり不況・失業率の上昇は一方でワーキング・プアを生んでいる反面、新種の「労働貴族」を生んでいるのではないか
松崎氏や塩路氏を「絶対的」労働貴族とするならば、新たな「労働貴族」を「相対的」労働貴族とよぶのは、どうでしょう。